十二、逸話

 閏五月も中旬となり、へばりつくような重く暑い風は、京都らしい盛夏の気配を強める。将軍上洛を目前に控え、巡察や不審人物の取り締まりが強化されるなかで、東国とは異なる気候に、体調を崩す者が重なった。勘定部屋で管理している胃薬や解熱剤の在庫が切れかけているとの報告も上がっている。

 多忙と人手不足のなか、新撰組の牢には倒幕を企てる不貞浪士たちが、次々と連れ込まれていた。牢が手狭になると、代用として使用するため、西の蔵の片付けが千歳と啓之助には命じられた。陣幕や野営具を蔵の二階へ上げて、一階部分を広く空けていく。

「昨日来た須内式部すのうちしきぶさんとね、今日来た矢野玄道やのげんどうさん。ふたりは同郷なんだよ。伊予の方でさぁ」

 啓之助は相変わらず、手より口が動く。捕縛者に馴れ馴れしく「さん」など付けるなと千歳が言おうとも、高名な学者先生を呼び捨てにはできないと返した。

「で、須内さんの師匠はね、常磐井厳戈ときわいいかしほこ先生」

「お祝い烏賊、醜子しここ?」

「トキワイ、イカシ、ホコ先生。平田塾に学んだ国学の先生でね、神道のご家系なんだけど、蘭学にも造詣が深くて、しかも開国進取論者なの。矢野さんとは縁戚になるんだよねぇ!」

 啓之助がやたらと親しみを込めて話すので、千歳はその心を理解し、先回りして制する。

「会いに行くのはなしだよ」

「……もうすぐお昼だな。給仕を手伝いつつなら、近付けるだろう」

「『普段会えない人がここに!』じゃないんだよ? はい、いいからそっち持って!」

 ふたりで鎖帷子の入った鎧箱を持ち上げた。

 会いに行くなとは言ったが、ふたりは牢への食事運びを手伝うよう六兵衛から依頼された。病人の粥に、牢の食事と賄い方だけでは手が回らない。

 牢では大人し気な老学者や、普通の町医者などが、丁寧に礼をして食事を受け取っていった。見張り役である監察方の目を盗み須内へ話しかけようとする啓之助の襟首を掴んで、千歳は牢を出た。

 捕縛者に対する尋問は夜まで行われ、執務室への報告が続くなか、会津の公用人である諏訪常吉がもたらしたある報せに、屯所はさらに騒がしくなった。

 鯉沼伊織こいぬまいおりら水戸系の浪士と、川瀬太宰かわせだざい膳所ぜぜ藩士の一味が、将軍家茂の一行が宿所とする予定の膳所城内にて、将軍の拉致暗殺を計画していたことが露見したのだ。

 川瀬太宰は平田篤胤の門下生の中でも才子と名高い男だった。伊東は洛中に散らばる平田門下生の所在を調べるため、すぐに監察部屋へと出向いた。歳三と近藤は、捕縛に当たる隊編成を組み直し、隊士たちを夜半の洛中へ向かわせる。

 千歳も夜食に対応する賄い方を手伝いに厨へと降りた。


 十四日、明朝。逃亡中の鯉沼伊織を匿っているとして、清水坂にある庵へと向かった三番組が、庵の主、井上健三を捕縛して、屯所へと戻って来た。鯉沼は既に出立したあとで、井上のみの捕縛となった。

 井上は屯所へ連行される道中から、大声で隊への批判を続け、監察方による尋問を拒否した。下っ端に話すことはない、局長を出せと騒ぎ立てるとの報告を受けて、三長は仕方なく奥座敷の南廊下へ出て、井上に対面した。

 井上は後ろ手に縛られ、筵へと座らされる。六十前後の痩せた大男で、象山とも似る気難しい学者を絵に描いたような風態だった。両脇を山崎と三木に抑えられながらも、怯まずに近藤へと怒声を上げた。

「──仮にも、士分たる吾輩を縄で縛るとは何事であるか! かような老人に多勢で詰め寄りよってからに! 礼を尽くさぬ者に語る言葉などない。そもそも、賢くも国を治め給う君子の御代には──」

 歳三が舌打ちして、武田を呼び戻して討論させたらどうだと言うが、近藤はなだめて、気が済むまでしゃべらせるように諭した。

「じきに喉も乾く。頃合いを見て縄を解き、熱い茶でも出してやれ。今は何を言っても耳に届かないさ」

「手がかかるな。やましい奴ほど、よくしゃべりやがる。話し始めたら呼んでくれ、まだまだ報告も来るから」

 近藤と伊東を残し、歳三は監察部屋へと出向いた。三、四組からの報告を受け終わるころには、次第に怒号は聞こえなくなり、代わりに伊東のよく通る声が何やら話していた。ようやく尋問が始められたかと、歳三は広間から西廊下に出る。庭では井上が縄を解かれ、膝を着いた千歳から茶碗を受け取っているところだった。

 これまで、千歳を客人などの前に出したことはない。それなのに、あの剣幕で怒鳴る井上に近付けるなどどういうつもりだと、歳三は伊東を見遣る。伊東は緊張した面持ちで微笑みを浮かべながら、頭を下げるように千歳へと手で指示していた。

 飲み干した井上が、千歳の持つ盆へと碗を返す。

「良い茶であった」

「……か、かたじけのうございます」

「ところで、君はこちらのお小姓殿とお見受けするが、問わん。石田三成の三男をご存知だろうか」

 突然の問答に、千歳が廊下を振り返り、伊東へと助け舟を求めるが、井上は鋭く千歳を指しながら、まくし立てた。

「君に聞いているのだよ、君。名前は? 問うておるのだ、答えたまえ!」

「さ、酒井です……!」

 歳三は、井上から一歩離れて控える山崎たちへ、すぐ取り押さえられるように警戒するよう手で示し、近藤の隣へと腰を下ろした。

 井上は千歳を気圧すように凄み、重ねて問う。

「酒井くん。もう一度、聞く。石田三成の三男をご存知かな?」

「あの……後に清幽せいゆうと名乗る佐吉君のことでしょうか?」

「左様」

 井上が大仰にうなずき、時は三代将軍家光公のころと語り始めた。

 三成の遺児、清幽は父君の仇を討たんとして、上洛のため箱根山に差し掛かった家光の駕籠へ鉄砲を撃ち込む。しかし、弾は逸れ、清幽は捕らえられた。それでも、清幽は士分の者として相応しい礼節の中で裁きを受け、その罪も寛大の処置を以って許されたという。

「──つまり、この逸話は、忠義に逸り犯した罪ならば、寛容な心にて許すこと、それこそが、為政者の徳であると示しているわけだ。局長殿はこの義談、ご存知かな? ……なるほど、ご存知ない」

 フンッと鼻を鳴らし、井上は腕を組んだ。その仕草に、歳三が殺気立てようと、山崎たちから肩を抑えられようと、井上の顔からは超越したような余裕が消えなかった。

「酒井くん。この逸話、どう思った? 徳についてのお話、君にはお馴染みじゃなかったかね?」

 南廊下から見える千歳の背中には、静かな怒りが読み取れる。ああなると厄介だ。歳三は伊東へ制止を求めてささやくが、伊東はもう少しと言って、微笑んだままの顔を険しくさせた。

「……質問よろしいでしょうか?」

 千歳の低い声に、先程までのか細さはなかった。

「その逸話、僕は不勉強で存じませんが……出典はどこからでしょうか?」

 千歳は「鉄砲好きな友人」から聞いた話として、『信長公記』に残るある僧侶による信長への狙撃を引き合いに出す。将軍が狙われたほどの大事件ならば、何か記録が残っているだろうと、重ねて、出所の書物を尋ねた。

 井上が感心したような大袈裟な唸り声を上げた。

「なるほど。勉強の仕方を心得ている者もおるようだな。しかし、このような逸話は真実かどうかは重要ではない。人々の望む徳のあり方が、偉人の名を借りて世に残り、広まるのだ。歴史とはそういうものだ」

「はて、事実を残さずしては、逸話と歴史の違いもなくなると思われますが。いずれにしろ、このお話・・を聞いての感想は、火縄銃の命中率が低いことを踏まえても、人々は佐吉君に義を為させる手段を誤ったなと僕は思いました」

 井上は清幽の説話を議題として、徳のあり方を論じたいらしいが、千歳はそれを承知の上で、当該説話の歴史学としての正誤と、物語論としての巧拙とに焦点を留め、議論を展開させない。

 歳三はひとりで笑いだした。千歳の強情さは、一見しては見抜けない。説話と足掛かりに使う者とを間違えた井上の負けだ。

 井上の気勢が削がれたのを見て、伊東が庭へと降り、千歳を立たせると場所を代わった。山崎たちが井上から手を離し、千歳も西廊下まで後退った。

「井上殿のお説、ごもっともと拝聴いたします。して、井上殿ならば、明日、大樹公を狙撃しに行くと別れの挨拶に参った清幽に、何とお声がけされるのでしょうか?」

 つまり、首謀者のひとりである鯉沼伊織へ、井上はどのような対応をしたのかを問うているのだ。井上はしゃがれた声で力なく答える。

「ワシなら止めるさ……ワシなら、止める」

 井上は重ねて首を振りながらうつむき、独り言のように語った。

「篤胤先生は罪な教えを残したものよ、死後の不安を取り除いて初めて、学問に集中できるとは。とかく、若い連中は事を急く。彼らは、死を名誉なるものと信じて疑わん。恐れがないのは、恐ろしいものよ。──のう、局長殿?」

 問いかけられても、近藤は表情を変えない。冷徹な声で突き放した。

「恐れは身体に作用して、本来の働きを鈍らせます。剣も政治も、同じです。死を恐れぬ心は、赤心の初め。断罪すべきは、義を見誤り、理を忘れた心でしょう。そして──」

 近藤が言葉を切り、燃えるような気迫を目に宿して井上を見下ろした。気圧された千歳の脚までが震える。

「井上殿。武士とは死を恐れず、死を恐れる者を嫌うものです」

「なんとも、なんとも……」

 井上が畏れと呆れの交じったため息をつき、沈黙となる。伊東が近藤へと向き直り、礼を取りながら決裁を提案した。

「井上殿は、事件に直接関与はしていないでしょう。また、お年も召されていますから、先のことも思い遣れば、庵へお帰ししても良いかと存じます」

「良いでしょう。しかし、こちらから出頭を命じた場合、すぐに応じていただく」

「ご厚情、感謝いたします」

 伊東は一礼すると、三木へと駕籠の手配を言い付けた。


 宿坊棟へ渡ると、出動終わりの三番組の面々が遅い朝食を食べていた。仮眠の後、昼からはまた残党狩りへと出されるらしい。千歳は庇の角で食事する五郎を見付け、隣に座った。

「五郎くんたち、お疲れさまだったね。あの人、連れて来る間も大変だったでしょ?」

「いやぁ、もう本当に。まだ耳が痛いよ、右の方だけ。それで、結局あの人、局長たちに何をそんなにしゃべってたんだ?」

「保身だよ、保身。局長、そういうのお嫌いだから怖かったさ」

 清幽による狙撃事件とは、井上によるハッタリだったのだろう。義に逸って犯した罪には、寛容な処断をなすことが為政者の徳だとの主張は、つまり、今回の川瀬たちへも寛大さを求めると共に、鯉沼を一晩泊めたくらいの自分など、放免しろとの意だ。

「──でも、伊東先生が願われたの。お帰ししましょうって。随分、お爺さんだから」

「え、返された? そんな、よかったの?」

「ご苦労を無駄にするようで申し訳ないとは伊東先生も言われてたけど、井上健三は川瀬たちの一味じゃなくて、鯉沼に逃げ込まれただけだもの」

 五郎はまだ納得のいかない様子だったが、深呼吸してから、煮豆の小鉢を手に取った。

「じゃあ、あとは川瀬たちだ。……処分どうなるだろうね。惜しいことだよ、才能の使い方を誤った」

「ねぇ、五郎くん……やっぱり政府の首を挿げ替える利権なんてものはさ、認めちゃいけないんだよ。無駄に世が乱れて、きっと今回もたくさん人が死ぬ」

 千歳は欄干にもたれると、五郎が食べ終わるまで、他愛もない話を繰り返した。


 鯉沼伊織は取り逃したが、首謀者である川瀬太宰を含む事件関与者の多くは、数日のうちに捕らえられた。

 詮議は新撰組に任せられることとなり、拷問に耐える声は、昼夜を問わず聞こえた。笞打ちを受けて背中がただれた者、顔全体が腫れ上がった者。傷が手当てされることもない。

 将軍の拉致暗殺計画という「膳所城事件」は、池田屋事件の発端にも匹敵するほどの衝撃を与えた。そして、辛うじて平穏を作り出した二十二日。厳戒態勢の中、将軍一行を京都へと無事に迎えることになった。

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