十、平等論

 夕方、千歳は帰宅する歳三へ事務的な挨拶を述べて送り出すと、五郎と共に嶋原へ向かった。伊東の講義生たちの交流会が開かれるのだ。

 木津屋の広間では、既にあちこちで酒が酌み交わされていた。伊東は花香を側に斯波と語り合い、加納は五郎にどの妓が一番好みか尋ねてからかっていた。千歳は部屋の隅で、大皿に盛られた刺身を食べる。京都において鮮魚を食べる機会は、宴会に呼ばれたときくらいしかない。

 千歳の隣には花野が付いていた。花野はそれまでの振袖が、緋色の襟を返した太夫装束へと変わり、一気に大人びて見えた。姐さんである花君と同じく歌を得意としているので、千歳と即興の歌詠みをして遊ぶ。


「旨ければ知らまほしけれ茅渟ちぬ海人あまに尋ねてぞみん旨しこのうお

 (おいしいから名前を知りたいな、摂津の漁師に尋ねてみようか、このおいしいお魚の名前を)


平目ひらめともかれいとも思い分けねどもかまには見ずやととかとぞ言う」

 (平目と鰈の判別も付きませんが、その魚は蒲鉾ではないと見るので、お魚でしょうと答えます)


 千歳は何度か言い直しながら、白身魚の刺身を指して名を問う歌を詠んだ。花野は蒲鉾を魚かと尋ねるようなウブを装いはしないが、魚の名まではわからないので、魚だと答えるしかないと返す。さらさらと返歌を詠み、微笑む花野に千歳は感心した。

「蒲には見ずや魚かとぞ言う、か。良いね」

「ありがとさんどす」

 気負いなく話せる相手を得て、千歳はこの十日分に溜まったおしゃべりを放出するかのように、花野へと語り続けた。屯所内では、皆が千歳を歳三に対して不機嫌な者として扱うのだ。自分の振る舞いのためとはわかっていたが、気が塞ぐことこのうえない。

 宴は進み、熱くなった者たちは声も大きく攘夷論を論じていた。聞かずとも聞こえる内容に、難しい話をしていると花野は笑った。難しいけれども花野にも関わりのある話だと千歳が言うと、花野が小首を傾げた。

「ウチにはあんま関係あらへんように思えますえ?」

「そうだなぁ。お花代たくさん払ってくれる人とそうじゃない人、どっちのお座敷に行きたい?」

「ふふ、あきまへんなぁ、そないなこと言わせよやなん。内緒どすえ? ……多い人」

「うんうん、内緒。ふふふ。そう、たくさん払ってくれる人が良いのは、生糸を作っている農民たちも同じでね」

 千歳は手始めに輸出超過による国内の品薄および物価高騰について説明してみることにした。花野は上手に話を引き出すので、千歳もついしゃべってしまう。ついで、日本と西洋諸国とで金銀為替の歩合が異なることによる金流出の問題を語り出したとき、高い背丈が千歳を見下ろした。

「よう、酒井くん。久しぶりに楽しそうにして。花野を口説いているかと思ったら、金の話なんかしてんのか?」

 試すような笑みを浮かべて、佐野が千歳の面前に座る。月代を剃り上げたこの青年は、伊東門下生らしい整然たる装いだが、どうにも年下をからかう趣味は止められないらしい。千歳は気合を入れて向かい合った。

「いいでしょう、佐野さん。僕はこの話、おもしろいと思うんですから」

「だからって、国事を女に語ってもね。なぁ、花野。お前が待ってる言葉、そんなんじゃないもんな」

「へぇ? ふふふ」

 花野はどちらつかずに笑った。佐野が花野の手を取ってやれと、千歳の手首を掴むが、千歳は払う。

「ご指導ありがとうございます。でも、結構です」

「若いねぇ。あのね、花野は楽しそうに聞いてくれるかもしれないけど、国事の話なんか、女子どもにしたって無駄さ」

「そんなことありません」

「わかるかい? 花野」

「そうどすなぁ、難しおす」

「ほら」

「だって、花野はこれまで国事に触れてきていなかったじゃないですか。学んでないことを突然理解することはできません」

 千歳が主張するも、佐野は手を後ろに着いたまま取り合わない。

「酒井くん、君は女を知らんだろう。自分と同等な物の考え方をする? 違うよ。女は男より理解に劣る。元々学問に向かない、感情に流されやすいからな。でも、だからこそ、かわいいのさ。自分の流儀を主張してくる女は、扱いにくくていけないよ」

「……自分の流儀を主張してよろしいですか?」

 譲る気のない千歳の目を見て、佐野は期待の顔を見せた。

「君の本気、見てみたいね」

 千歳は一息を吸うと、ゆっくりと話し始める。いつか誰かに話したいと思っていたことだ。

「女は国事を解さないのではなく、国事を解するに必要な知識を与えられないだけです。男と女とでは、望まれる知識の種類が異なりますから」

「ふうん、どういうことだね?」

「寺子屋で仮名書きを習い始めると、大抵、女の子の方がよくできます」

 器用さや、静かに座って指導を受ける力は、平均して女児の方が高い。しかし、数年もすると、男児が漢字を習う間に、女児には裁縫が教えられる。漢字を覚えた少年が漢学塾へ行くころには、少女は礼儀作法や三味線を習いに行く。

「──これでは、女の子が国事を学ぶ素養を身に付けることができませんよね?」

「つまり君は、女の子にも漢学を教え込んで、国事に携わらせようというのかい?」

「そうは言いません。でも、学びさえすれば、女でも国事を理解することができます」

「はいはい、そうかい」

 佐野が子どもあやすようになだめた。女に漢学を教えろなど、期待外れの主張なのだ。千歳は思わずムキになる。

「知識を頭に入れる能力に、男女差はないってことです! だったら、知識を持った女は、男と同等の思考を行うはずじゃないですか!」

「なかなか優秀な理論だ。では、優秀な君は、花野が自分と同等に思考する者だと言うのかい?」

「──花野! 君が僕より何かに劣るなんて、決してそんなことないからね。僕、君の詠む歌、とても好きだ!」

「へ、へぇ。そんな……嬉しおす」

 花野の穏やかな微笑みが崩れたことで、佐野がその調子だと千歳を囃す。千歳はますます顔を赤くした。

「佐野さん! 馬鹿にしてますよね、僕のこと!」

「してないったら、落ち着きなよ」

「──そうだ、よく響く声だな、仙之介くん」

 肩を叩かれ振り返ると、少し赤らんだ斯波だった。その向こうからは、座敷中の視線がこちらへ集まっていた。千歳の気勢が一瞬で治まる。

「何怒ってるのさ、君は」

「お、怒ってません……佐野さんが、僕のこと……子どもだと思って、馬鹿にするんです」

 か弱い訴えに、斯波が笑い声をこぼして、千歳の前髪に手を置き、あやすように撫でた。

「馬鹿にしてるんじゃない、少年の懸命な主張がかわいくて仕方ないだけさ。ご覧、あの締まりないニヤけ顔。大目に見てあげなさい、酔ったおじさんのことは」

「斯、波、くん」

 佐野が三十歳に相応く凛々しい顔を作って抗議を見せるが、斯波は微笑みひとつを向けるのみで取り合わず、千歳の隣に座る。

「何を話していたんだ?」

「女は国事を理解するかって話です。僕は女に足りないのは、学問を学ぶだけの知識、素養を得る契機の差だと思います。教育の差です」

「はぁ、なるほど。素養を得る教育の差なぁ」

 斯波の少し籠った低い声に、千歳はもう一度、落ち着いて主張をしてみた。

「例えば、男であっても、農村育ちと武家育ちとじゃ、学ぶ知識の種類が違うはずです」

「農村生まれの知識とは?」

「次男三男は、とにかく読み書き算盤です。これを極めて町方へ奉公に出ますから」

「武家に生まれたら?」

「漢籍ですよね。統治のための学問と心構え。じゃあ、国事をより解するのは? 当然素養の教育がある後者です。でも、農村生まれが武家生まれに元々の素質から劣るだなんて言われません。なのにどうして、同じく家事と芸事を教え込まれる女が相手だと、元よりの素質と斬り捨てるのか。僕はそう聞きたいんです」

「だけど、酒井くん。ここにいる志士は、農村育ちはいようとも、女はいない」

 佐野が真面目な声で言った。講義中の討論の調子だった。

「女には家を抜けてまで、国のために働こうなんて気概を持つ奴は、そうそういない。それが答えだろう」

「それは……だって、女には望まれないじゃないですか」

「そうさ。桜の木に、葡萄を成らせよなんて無茶を願ったりはしないものだ」

「え……?」

「仮にだけど、酒井くんは女に漢学を教えて、国事を解するように育てて、どうしたいんだ?」

 千歳は答えに詰まる。座敷の中は騒めきを取り戻しており、千歳たちの討論へと目を向ける者はいない。議論の流れは、完全に佐野に握られていた。

「算盤を学んで商家に勤めたり、農学を研鑽して田に従事する者がいなくては、世は成り立たない。縫い物をする女がいなければ、家が立ち行かない。国事は尊い学問だけど、他の技能もおんなじくらい尊い。俺は、自身が他の民より有能だから国事に従事しているなんて間違っても驕るなと、常々自身に言い聞かせている。君はどう思うかい?」

 圧倒的な正しさが突き付けられている。女に治世の学を与えて、いつどこの世に役立たせようというのか。千歳には、琵琶湖の舟上で語ったようには、男女を問わない学問の重要性を論じることができなかった。佐野にとって新規な切り口からでなくては、彼の意見を覆せないだろう。

 その一手を捻出できず、斯波を見遣れば、加勢するように肩を叩かれた。思想を抜きに世界を見たいと言った斯波なら、何と反論するだろうか。自由や平等の観点からなら、どう論理を組み立てられるだろうか。

 千歳は戦法のまとまらないままに、再び佐野へと挑む。

「……向き不向きの、天賦の才は、生まれた家とか、男女とか、外からはわからないはずです。同じ学問を一定に与えて、初めて、算盤が得意とか縫い物が得意とか、徳があるから治世に向かうべきとか、判じられる、と思います」

「なるほど、俺も天賦の素質って考え方、嫌いじゃないが、そんなものを求められる職能は極々僅かなものだと思っている。大抵の人間、四則計算ができれば十分さ、暦法の算出まではいらない。だから、大事なのはそこそこの技能者を継続して育てることだ。その子に何を修めさせるかの選別は、本人の好き嫌いとか、ちょっと出来るとかじゃない。世に求められる数に応じて、振り分けるだけだ」

 どこに反論したら良い。どこにも矛盾はないように思える。気を削がれて口を閉ざす千歳の肩を、斯波が慰めるように叩いて、

「ところで、佐野さんは私の講義に出てくれていましたけれど」

と、話題を変えた。千歳の未熟は、知識量と論理に適う話し方、そして、感情を乗せずに話すこと、いずれも顕著に現れていた。


 宴会は終いとなり、銘々の速さで帰り道を行く。千歳は一番後ろを遅々と歩き、佐野との議論の流れを五郎へと説明し直していた。

「僕が言いたいのは……なんか。女は、漢学の技能者としては育てられない。その現実と、女が漢学に向いているかどうかの判断? は、全然違うと思うんだよ。違う?」

「うーん……教育の差、なぁ」

 五郎は頷きながら聞いてくれてはいたが、腕を組んで首を傾けるばかりで肯定は示さない。

「なるほどな、とは思うけど。でも、漢籍の堅さと女子生来の柔らかさは合わないからなぁ」

「検証……されたの? 誰が女に漢学与えて、それを検証した?」

「実際の検証は、たしかにされていないかもしれない。だけど、事実として、女はそんなに深く物事を考えないだろう? それに、向き不向き以前に、女子に望まれることは、漢籍を論じることじゃない」

 理屈を考えるのは男と相場が決まっている。千歳もそれを否定できないから、反論に窮するのだ。

 前を行く他の隊士たちの話す判然としない声と蛙の声とが、しばらく聞こえていた。蛍もまばらに飛んで、水田に光る。

「……女子に望まれることとは何?」

 千歳のぶっきらぼうな声にも、五郎は怯まず、冷静な声で考えを述べる。

「男を受け入れる心と、家族を慈しむ心だろうか。前者に秀でた者は良い女、後者に秀でた者は良い妻と言われる」

「君もそういう女を愛したい?」

「え、もちろん。君は違うの?」

「僕は……愛する、その……かわいいねぇと撫でるような愛し方、を、当たり前に受け入れる女は、嫌だ。それは、幼児を愛でる愛し方だ」

 女とは、子どもと大人の間にいる。大人とはすなわち、様々な利権を有する男であって、女は成人しても、大人ではない。利権を行使しうる「一人前」になれない。

「女って、虚しくないか? 学問を与えられず、考える言葉を持てなくて……着物の仕立て方と男を褒める言葉さえ頭に入れておけば、生きていける。そんな……うらなり・・・・みたいな、不完全な存在。それを、男は愛でるんだよ。わかる? 愛し合うんじゃなくて、愛でるの」

 かわいがられるように、笑顔で受け入れることを求められる。自分の流儀を主張しては、扱いにくいと嫌がられる。千歳はそんな不自由な娘には、なりたくないのだ。

「……僕はね、黙って生まれを受け入れられないんだ」

「うん? 君自身の?」

「そう。学問は、武家と富裕の者で独占される。戦わなくちゃ手に入れられないんだ、生まれに恵まれない者は、家とかいろんな定めとかと」

 五郎はもう一度腕を組んで、千歳の言葉への返答を考えた。以前、千歳から聞いた生い立ちを踏まえれば、たしかに、生まれに抗わなくては学問を手に入れられない育ちであったと思い至る。そして、自らの希望を叶えるために行動するとは、 rights の獲得であるだろう。

「君は…… liberty rights を論じているの? 学問する自由」

「どちらかというと、equalityイクアリチィ……な気がする。平等」

「学問する平等か」

 千歳は頷くと、空を見上げた。重い曇天に蛙の声が閉じ込められ、四方から責め立てられている心地がした。

「僕、ダメだな。メリケンの外交を思想の植民地だなんて言ったのに、自分だって、メリケンの思想を日本に当てはめようとしてる」

 突然、千歳は畦道を速足に歩き出した。

「つまんないんだよなぁ。じゃあ、どうしたらいいか。それが言えない。使えそうなとこを抜き出すとか、そういうことができなくちゃ、つまんないんだよ! 僕の議論はつまんない!」

 ほとんど走るような速さで、千歳は前を行く講義生の背中を追った。

 仙之介を奪おうとしてくるのは、歳三だけではない。千歳自身の女である部分もが、気を抜くと仙之介を追いやろうとする。この一月間、千歳はまさに、感情に流されて、深い思考ができていない。身体も次第に丸みを帯びてきている。それら全てが認めたくないことだった。

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