九、不具合

 千歳は午後を文机に伏して過ごした。啓之助は近藤と共に外へ出ていて不在。勘定方は給与日の午後を半休とするため、西隣の部屋も空だった。

 蒸し暑い日で、稽古を終えてしばらく経っても、微熱のような重怠さは消えない。朝には左腕のみに見えた紅斑も、胸を越えて右手にまで至った。八つの鐘が鳴り、執務室へとお茶を運ぶころには、顔にまで及んでいたらしい。気付いた伊東が、麻疹はしかではないかと案じた。

「重くなるかもしれませんから、すぐに帰って休みなさい」

「平気です、特に悪くありません」

「今はそうかもしれないですけどね。──土方くん、帰るように言ってください。用心に越したことはないんですから」

 歳三が千歳を見た。六日ぶりにかけられた言葉は、帰って寝ていなさいとの一言のみだった。伊東が加えて、水を飲むこと、医者を呼ぶことなど、あれこれ指示を出した。歳三へも帰って看病するように言ったが、歳三は仕事を理由に千歳だけを帰らせた。千歳にはむしろありがたい。側にいられては、治るものも治らないだろう。

 千歳は別宅の離れ座敷で、本の一冊でも持ち帰るべきだったと考えながら、することもなく膝を抱えていた。庭の枇杷の木は、産毛の生えた赤い実を風に揺らす。風に乗って、大火で焼けた菅大臣の本殿を建て直す人足の声が聞こえる。あくびをひとつして、横に倒れた。

 まどろみは一瞬に過ぎて、身体を揺すられ目覚めた眼前には歳三がいた。外は暮れ始めていたが、まだ帰宅時間には早い。着替えもせず、医者にも罹らず、畳の上で寝ていたことを怒られると身を硬くするが、歳三はすぐに立ち上がった。

「医者呼んで来るから、着替えてなさい」

 通り庭へ降りて、玄関を出て行く。部屋には布団が敷かれ、浴衣も置かれていた。歳三の気遣いを鬱陶しく思う自分に対して、さらに気が滅入った。


 往診に来た四国言葉の老医師は、診察を終えた離れ座敷へと歳三を入れて、見解を告げた。

「麻疹、風疹の類いやありません。ほれはご安心を」

「そう、か。では……」

「心労ですかな。こん年頃の娘さんは繊細ですけん、急に目ぇの見えん、耳の聞こえん、ほうなることも珍しいないんですわ。父さま、お心当たりあらしませんか?」

「ああ……ううん」

「母さま、おいでられんえ?」

「ええ、まあ」

「はあ、父さまひとりで大変やなぁ」

 歳三が答えるたびに、布団の中で千歳が殺気立つが、老いた医師は気付きもしない。

「心労かけさせず、良えモン食べさしたってください。もし、熱の上がったいうことあれば、また来ます」

 歳三は医師を玄関先まで送ると、七輪で湯を沸かし、包丁とまな板を苦心の末に見つけ出して、帰り道に求めた瓜を切った。

 千歳の心労が自分に帰するものとは、歳三も自覚している。とはいえ、千歳が歳三を好いていないことは十分に承知していたから、兵馬の遺言書をどうするかは千歳に任せた。君菊を置くことも千歳に確認を取ったし、千歳の男装を禁じたりもしていない。

 千歳には拒絶を示されるばかりで、何が気に入らないのか、どうしてほしいのかを知ることは叶わない。そもそもの話し合いが成立しないのだ。

 盆の上に、枇杷とお茶も併せて乗せて、離れ座敷の障子戸から差し込んだ。一言添えようかと思ったものの、頭から掛け布を被って微動だにしない姿を見ては、声を聞くことさえ嫌がられている気がして、何も言えなかった。

 暮れ六つ、巌は配給の岡持ちの他に、玉子を落とした粥の土鍋と五郎からの見舞いの文を持って来た。差し止めるか、あるいは検分するか、歳三は迷う。

 五郎は、まだ少年とも言える面立ちの若人だが、伊東の門下生らしく賢く、礼儀正しく、勤務態度も真面目だ。人物評に文句はない。千歳と良い友人関係を築いていることも認める。だからこそ、千歳との交流を持たせたくないのだ。五郎が側にある限り、千歳は娘として生きる楽しみに目を向けることができない。

 千歳は五郎と対等な友人だと思っているだろう。しかし、あの娘が自身をどう考えていようとも、やはり千歳は女子なのだ。五郎と並び立てはしない。いずれ彼との差を突き付けられて、余計な傷を負うだろう。

 傷といえば、額の傷は思いの外、深かったようで、生涯残るかもしれない。あの少年と、友人として振る舞っているばかりに。

(……もしや、本当に恋ではないよな?)

 まさかとは思うが、一度浮かんだ疑念は払い去れない。啓之助は千歳が娘だと知っていた。五郎にも知られているのではないか。ふたりの仲の良さは、伊東からも斯波からも、総司、六兵衛、その他あらゆる者たちから聞かされている。それが、実はただの友情ではなかったとしたら。

 歳三の手は、文を結ぶ紙縒こよりを荒くも取り払っていた。体調を案じる言葉から始まり、本日分の斯波の講義内容の要約──米国の独立宣言から読み解く人民による不自由への抵抗とか、より良い政府を樹立する利権などで、実に学徒同士で交わすに相応しい堅い内容だ。取り分けて、恋情を隠しているような文言も見当たらない。

 自身の勘繰りに呆れながらも、多少の安堵を得て、文を包み直す。土鍋と共に盆の上へと乗せて、奥座敷へと運んだ。

 ひとりでの夕膳を食べ終えるころ、千歳が土間へ降りて来て、歳三に背を向けたまま食器を洗いだした。

「おい、こちらでやるから休んでいなさい」

 歳三の声かけに振り向きもせず、千歳は土鍋まできれいに洗い終えると、岡持の隅に返書を置いて、無言のまま部屋へ戻っていった。明かりはすぐに消えた。

 歳三は今更、渡しておいてくれの一言もないのかとは思わないが、渋い思いで文を手に取る。五郎に宛てたと思われる文の表書きは英字、長々綴られた本文も横書きで、何ひとつ読めるものはなかった。先程の文を検分したことへの反抗だろうか。暗号に転用できる英語など、与えるべきではなかったと苦々しく思いながら、文を岡持へと戻した。

 翌朝、離れ座敷へと呼びかけても返事は返ってこない。不安に思い襖に手をかけても、つっかえ棒がなされているのか、戸はてられていた。体調を知りえないので、歳三は医師へと朝夕の往診を頼んだ。幸い発熱には至らず、三日目の昼には紅斑も引いたらしい。

 その三日、歳三は千歳の姿を見ることすら適わなかった。この家に千歳を置くことは難しいと改めて判断せざるをえない。部屋に籠もっていては、いずれ本当に病気になるだろう。例え男装して隊士たちと交わろうとも、外に出て話す相手がいる方がまだ良い。

 三日目の晩、襖越しに明日から出仕するよう伝えた。翌朝には千歳から朝の挨拶をしてきたので、歳三はやはり、現状維持以上の選択がないように思われるのだった。


 啓之助は千歳の三日ぶりの出仕を上機嫌に迎え、実弾での調練がいかに楽しかったかを聞かせた。

「馬場の角に盛り土作って、角場にしてさ。的まで十間だからね、割と当たるよ。六、七割くらいかな。やぁ、清原さんはやっぱりすごいよ、調練の仕方を心得てる。あ、君もフランス語一緒にやろうか、号令がフランス語なんだけど──」

 語りながら、千歳を火薬蔵に引っ張り、弾薬作りをする清原と阿部を共に手伝った。阿部は師範ではないが、小銃の腕を買われて入隊している。

 千歳の前には計量用の細い竹筒と、配合済みの火薬壺が置かれた。摺り切り一杯を、薬紙の上へ小山としていけば、啓之助が引き取り、油紙の上に立てた紙筒へと詰める。火薬の筒を紙で包み、先端を捻って封をする。捻った紙を少し開いて、銃の口径に合わせて鋳造した鉛玉を入れ、さらに先端を捻って弾を固定する。これで一発分の弾薬──早合ができた。

「お仙くんも出ればいいのに。楽しかったでしょう?」

「そうだけど……許されはしないもん」

 弾一発に、大層な手間がかかっているのだ。千歳が遊びで撃つことなど、許されない。清原が検品した早合を胴乱ポーチへと入れていった。

 弾を詰め終えると、試射が行われた。撃ち方は阿部が勤め、啓之助が記録を執る。千歳はその後ろで眺めていた。清原の号令に合わせて、阿部は手早く弾込めを行う。啓之助の命中率は七割といっていたが、阿部は十発中九発を的中させた。

 清原と阿部が的を検分する間、啓之助は明智光秀が鉄砲遣いであったこと、小銃は槍衾やりぶすまと同じく数を揃えなくては意味がないことなどを話した。

「的は動かないし、打つときは自分も動かない。だけど、戦場じゃそうはいかないさ。人にはよっぽど当たらないんだ」

「ああ、そう……」

「でも、弾の傷を受けた人、たくさんいたでしょ? 去年の戦争で。あれは狙って当てたんじゃなくて、数撃って当たったの。たったひとりで敵に銃を放つだなんて、信長公を狙撃した杉谷善住坊くらいだよ。それも、失敗しているしね」

 啓之助は、捕らえられた杉谷が鋸引きという残酷な刑死を受けたことを嬉々として話し、古今の拷問法などを語り始めた。千歳は適当に返事をしつつ、聞き流す。清原たちは火薬量をもう少し減らすべきかと相談しあっていた。

「ねぇ、お仙くん、聞いてる?」

「聞いてない」

「そう。まあ、いいけど」

 啓之助は自分の話したいことがようやく終わったのか、矢立の筒を手の中で回して遊びながら、千歳の三日間の休日について尋ねた。

「暇すぎて中村くんと文通してたって?」

「だって本とか、ほとんどこっち置いたままだったし。算術とか英訳とかの問題作ってもらってた」

「言ってくれたら、持ってったのに」

 流行り病かもしれないために、見舞いは謝絶としていた。実のところは、髪も結わず女物の浴衣を着せられた姿など見せられないとの理由だったが。千歳がため息をつくと、啓之助が肩を叩く。

「大変な親のとこに生まれてきちゃったね、君」

 啓之助は大抵いつも他人事な口調で話す。千歳も話題を続ける気がないので、啓之助の父親ほどではないと返した。

「天下その名を知らぬ志士はいないでしょう?」

「そうだけどね。でも、死んじゃった人はお小言も言わないから」

「……お説教はありがたく聞くもんだって言った仕返し?」

「違うさ。まぁ、文句は言っておいた方がいいってこと、生きてるうちにね。届かなくなった人に恨み言言うの、虚しさしかないからさ」

 ちょうど、巳の刻の鐘が鳴った。千歳は良い返答が思い付かず、伊東の講義があるからと馬場を離れた。

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