八、断絶

 この数日間で、千歳の不機嫌さとその理由が歳三に由来することとは、隊士に周知のこととなっていた。近藤以下、書院棟に詰める面々は、そのことに触れずに接してくれるのだが、一度集会堂へと渡れば、からかい好きな兄者共の口がうるさい。

 昼食時、南西角の庇にて少し五郎と笑い合ながら話をしていただけで、斎藤のヤジが飛んでくる。

「相変わらずの鴛鴦夫婦だね。そのかわいさ、ちょっとは誰かさんにも分けてあげな」

 千歳は苛立ちのままに、箸を置いて睨み付けた。怖い怖いと逃げる斎藤の背中へと、腹立たしさのままに悪態を吐く。

「本当、ここの人たちって、子どもだと思って好きにからかって!」

「落ち着きなって、仙之介くん。気持ちはわかるからさ。ほら、ご飯粒まだ残ってるよ」

 宥めにかかる五郎の冷静な、しかし、照れを抑えきれない声音が、いつも以上に腹を立たせた。

「からかわれてもだんまりな人に言われたくない」

 しかし、不躾な嫌味も、五郎には効かない。呆れたため息とともに、汁椀と箸が箱膳に置かれた。

「仙之介くん、ねぇ。その人への苛立ちは、その人との間だけに留めておいてくれないかい?」

「……君は時々、説教臭いんだ」

「君は時々、物事をごちゃ混ぜにする。君を本当に悩ませているのは、僕じゃないし、斎藤さんでもないだろう?」

「うるさいの、もう!」

 至極真っ当な反論を受けて、千歳はまだ食べ切らない膳を下げると、書院棟の奥座敷まで逃げた。幼い自分が恥ずかしい。五郎を前にすると、いつも恥ずかしくなる。気は落ち着かない。厩まで走り、稲藁に寝転んで泣いた。気の荒い牡馬のような感情を手懐ける方法など、わかりもしなかった。

 いつのまに寝ていたのか、気付くと梅雨空は暗み始めていた。本をめくる音に目を遣れば、稲藁の足許には、馬房の前柵にもたれながら本を読む斯波がいる。

 五郎に告げられたのか、もしくは、また安富に見つかったのか。午後の仕事に出なかったため、探されていたのか。屯所にいる限り、誰かが千歳を気に掛ける。ひとりになりたくもあるが、文字を追う斯波の見識に落ち着いた目許を見ていると、自分も冷静さを取り戻せるような気がした。

 もし、この青年が敬助だったなら、きっと抱き締めて慰めた後に、部屋へと連れ戻してくれただろうに。今は、自分で自分を落ち着かせて、日常に戻っていかなくてはいけない。

 寂しさに泣きかけて、鼻を啜ると、斯波が気付いて顔を上げた。千歳が善良な生徒の役柄を呼び出すよりも先に、斯波が千歳を呼びかける。

「困るよ、仙之介くん。給与日は明日だってのに。君は勘定方の一員なんだから、ちゃんと働いてもらわないと」

 咎める気配はない。千歳が一言詫びを入れれば、すぐに迎え入れてくれるだろう柔らかさがあった。身体を起こし、斯波を見つめる。優しく受け止めてくれている目を見ていては、千歳は仙之介を守れない。泣き崩れる子どもになってしまう。低頭して、眼差しから逃れた。

「……申し訳ありません、ご心配をおかけしました」

「うん」

 斯波はうなずいたきり、何も言わない。さらに言葉を重ねるべきか。言いかねていると、斯波もまた本を捲り始めた。厩には、馬たちの息遣いと、藁を掻く音ばかり。気不味さに、斯波の様子を伺えば、斯波は本に目を落としたまま、口を開いた。

democracyデマクラシイ は無駄に世を乱すと思わないかい?」

「え……? デマクラシイ、はい」

「人民は無知で従順な方が良い。不自由への抵抗とか、我々により良い政府を樹立する利権などと言って一揆を起こされては堪らないから。君はどう思う?」

「えっと……たしかに、名君の下命をそのまま民が受け取って従ったなら、世は泰平に治ると思いますけど……」

「そうだ。だけど、常なる名君なんて、そうはいない。だからこそ、人民の意見を代弁する場、議会が求められるんだ。異論を押し込めるより、意見を吸い上げて折衷し、より善く改めていく必要がある」

 唐突に始まった講義の意図を測りかねていると、斯波の大きな目が千歳を捉えた。妙に胸が騒ついて、緊張が走る。千歳は今度こそ、斯波の生徒たる仙之介の顔を作って、続きを願ってうなずいた。斯波もうなずき返す。

「君は、君の先生と、デマクラシイが出来ていないから大変なんだろうな」

 千歳と歳三とが上手くいかないのは、意見交流の仕組が作用していないということだ。千歳は歳三に意見できず、歳三は千歳の意志を押し込める。歳三は千歳が考えたり、それを口に出したりすることを嫌うのだ。従順で無知な娘を望まれる。

「……この国が、この国の人たちが、デマクラシイを受け入れる日なんて、来るのでしょうか」

「さあ、あと百年は先だろうな。──じゃあ、また明日」

 斯波は立ち上がり、千歳を見遣ることもなく、細かな梅雨の降る前庭へと出た。その背中が何ともに慕うべきものに見えたが、千歳は後をついていくために立ち上がることができなかった。

 啓之助は弥生の見舞いに出かけて留守、五郎とも気不味くて夕食を共にできない。千歳は、厨の小上がりの端で少しの麦飯を汁で流し込み、晴れない心のままに浅い眠りに就いた。


 翌朝、井戸で顔を洗う最中に、左手の甲から肘にかけて、赤いアザが浮いていた。打ち付けたにしては鮮やかな赤だったが、腫れた様子はなく、痛くも痒くもないので、気掛かりはすぐに、食後に迎える新編成初の給与配布の忙しさに変わった。

 給与金の配付は、表座敷の西の縁側を受付として行う。尾形と斯波によって、庭先に待つ隊士へと包みが渡された。千歳も文机を並べて、隊士名簿へと受領を書き入れる役を担った。

 人の波も落ち着いたころ。遅れて総司がやって来た。受け取った包み金を手の中で弄びながら縁に腰掛けて、千歳の文机に肘を掛ける。

「やぁ、聞かん坊くん? 副長先生やご友人を、だいぶ困らせてるそうじゃないの」

「……総司さんには関係ありません」

「おやおや、お年頃だぁ。ふふん、僕も一応、君の師匠だから言うけどね。そのお口、良くないよ」

 口をつぐむ千歳に、総司はわざとらしく息を吐く。

「変わっちゃうもんなんだねぇ、あんなに素直だったのに。──斯波さん、お仙くん、ください。稽古です」

 斯波の答えより早く、千歳はまだ掃除をしていないことを理由に断りを述べるが、総司は、包帯が巻かれた千歳の額を人差し指で軽く弾いた。

「掃除一日しなくったって、死にはしないけど、甘い稽古してたら死ぬからね」

 永倉班と武田班が稽古する文武堂の隅で、千歳は総司の剣に突き飛ばされては、打ち込むように怒鳴られていた。

「──しっかり握れ! なんだ、そのへろへろした剣は!」

 防具を着けない総司が千歳の左小手を打つ。左手首から先の感覚を失い、千歳は間合いを取ろうと試みるが、総司は攻めの姿勢を緩ませる気配すらない。打たれるままに後退し、ついに壁と総司の竹刀に押し挟まれ、息も吸えなくなった千歳の脚は崩れた。

「もう一本!」

 床に倒れた千歳が咳き込もうと、総司は元の位置に戻り、竹刀を構えた。千歳はこの半月間にあった全ての腹立たしい出来事を思い返しながら、待ち構える総司の顔を歳三のものにすげ替えた。怒りによって気を奮わせ、立ち上がる。

 打ち込んでも、竹刀は届かない。避けられ、流されて、一瞬の隙を突いて、鋭い一撃が下される。疲労して重くなった身体では、応じることができない。

「ほら、雑念ばっかり! わかるぞ、余計なことしか考えてない!」

 隊士たちの稽古が終わっても、総司は千歳に防具を外させなかった。既にほとんど打ち返せなくなっている千歳を見兼ねて、永倉が総司の肩を叩いた。

「あんまり詰めてやるなよ。酒井くんも反省してるさ」

「してませんよ、この子は。自分が間違ってるなんて、ちっとも思ってませんもん」

 当然だ、間違っているのは、歳三の方なのだから。千歳は床にうずくまり、痛む上腕を押さえながらも、総司を睨んだ。面金越しにも伝わる鋭利な眼差しに、永倉は苦笑いしながら膝を着き、千歳の面金の紐を解きにかかる。

「君も無駄に頑固だもんなぁ。しかし、今日は終いだ。……全く、首にまで痣作らせて。これ以上は、お前が土方さんに叱られるぞ、総司」

 自身が歳三の権限下にある存在と示された千歳は、なお気を立てて永倉の手を払った。永倉はその無礼を咎めないが、代わりに総司が不満気な顔を永倉に向けて座る。

「じゃあ、お仙くんは、なんのために土方さんと一緒に暮らすんです? いざってときに、身を盾にしてでもお守りするためでしょう? なのに、夜ひとりにするし、まるで弱いし」

「夜ひとりなのは、近藤さんも同じだろうが」

「ひとり? 女が側にいるじゃないですか」

「おいおい、彼らを盾扱いするなんてなぁ」

「だけど、それ以上の役が果たせますか? お梅、あの女も飛び出して来ましたよ。先生、逃げてって」

「おい、総司──」

 永倉が緊迫した声を挙げるが、千歳はふらつきながらも冷ややかな目で総司を一瞥すると、壁際の棚へと防具を片付けに運んだ。

 あの夜、芹沢の側には情婦がいた。総司の言うとおり、芹沢を逃がそうとして立ち塞がり、一刀に斬られたという。

 事件の前後を思い返してみれば、総司は確かに、芹沢への葛藤を抱いているように見えた。それが今や、眼前を飛ぶ蚊を殺したと報告するような当然さで、人間の生命を奪った話を口にする。変わってしまったのは、総司の方だ。

 礼もせずに道場を出ようとすると、総司の声はさらに千歳を追い詰める。

「君、なんのために剣を習うのか、もう一度考え直したら? 今のままじゃ、ただの盾にしかならないよ」

 総司の剣は、隊のため、近藤を守るために振るわれるのだろう。自分のいた場所が、気付いたら新撰組になっていた男だ。私がないゆえに、悩みなどもないのだ。

 千歳の剣は、兵馬が残してくれたものだ。それを忘れないために稽古するのであって、歳三のためなどではない。千歳のものだ。歳三に取り上げられる謂れもないというのに。

「……総司さんには、わかりませんよ。奪われる側の気持ちなんて!」

「わかりたくもないね、弱い奴は嫌いだ」

 永倉が何かなだめるようなことを言っていたが、聞きもせずに道場を走り出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る