七、逃走

 堀川端では、飛び交う蛍が水面に落ちる雨の波紋を照らす。千歳は行く宛ても思い付かないままに、柳の揺れる川筋を駆け下った。

 十三歳の秋。壬生村の刈田で稲藁の山に埋まりながら、父さまがいないと泣いた。今は、自身があの男を父として生まれ出でた事実自体に吐き気が生じる。「計算」だなど、気持ちが悪い。千歳の父は兵馬であり、仙之介に父はいないのだ。

 ぬかるみに足裏が滑り、泥だまりに転んだ。梅雨の夜更けは、雨音と弱い虫の音が立つばかりで、千歳を温めるようなものはない。

 生まれてこなければ良かった。そう思った初めは、六つか七つになるころだった。志都に縁談が来た。大先生の友人の息子で、御家人の寡夫だった。志都は、千歳を置いて嫁ぐことはできないと話を断った。自分さえいなければ、明練堂を出て幸せになれたはずなのにと、千歳は泣いて謝った。志都はいつまでも抱き締めてくれた。

 雨に濡れた着物は体温を奪い、身体が震えだした。立ち上がるも、行くべき場所は思い付かない。力の入らない脚で、本願寺の塀沿いに曲がり、唐門の軒下で座り込む。痛む足先を両手で包んで、泣いた。

 歳三がいなければ、途端に千歳は一夜を明かす場所すら失うのだ。身体の震えは、寒さと空腹。昼も夜も食べていなかった。額の傷が痛み、包帯を外した。血の気が落ちる感覚が頭から背中へと流れ、千歳は門柱にしなだれかかるように意識を手離した。

 

 気が付くと、啓之助が目の前にいた。啓之助は木津屋の紋が入った提灯で千歳を照らして、手を差し出す。

「あったかいお風呂とお布団のあるとこ、行かない?」

 千歳は手首を引かれるままに立たされると、傘に入れられて、本願寺の塀を抜け、田んぼ道を横切り、嶋原の亀屋へと入った。

「どないしはりましたん? そないに、あれあれ……」

 千歳も顔馴染みとなった番頭が呆れた声で尋ねた。全身は泥に汚れ、草履も履かず、口を引き結んで泣いているとなれば、訝しまずにはいられない。

「相部屋の相手と喧嘩しちゃってねぇ、気不味くって寝られやしないんだから、逃げて来たのさ」

「ウチは逢引茶屋とちゃいますねんで?」

「わかっているさ。この子には、お風呂の後で一部屋用意してあげて。弥生は?」

 部屋にいると答えられると、啓之助はさっさと足を洗い、二階へと上がって行った。千歳は下男に足を洗われることも、世話役の娼妓も重ねて断り、ひとりで薄暗い湯船に浸かった。

 身体は温まっても、冷静さは戻らない。浴室を出ると、引き戸の前に脱ぎ散らかしたはずの着物は全て消えており、代わりに、浴衣と手拭いが桐箱に置かれていた。羽織れば、薫香が立つ。それも気を落ち着かせず、むしろ胸の奥からの苛立ちを湧かせた。

 部屋の前へと案内され、襖を開けると、啓之助が布団から上体を起こして迎えた。二枚敷きの綿布団は一枚ずつに分けられ、間には屏風が立てられている。

「……弥生のところじゃないの?」

「熱あるから寝かせてる。お仕事できない分、お花代だけでもね、あげたいから」

「そう。もう寝る?」

「うん。お腹空いてたら、なんか頼んでいいよ。じゃあ、おやすみ」

 行燈の灯が吹き消され、六畳間は真闇になる。少しは話を聞いてくれるものかと期待したのだが、すぐに寝息が聞こえた。

 足音を殺して壁伝いに窓際へ行き、中庭に面した障子を開ける。雨は止み、薄らに青い暗闇が見えたが、情事の音までもが漏れ伝わってきたので、すぐに閉めた。

 二年前、売られるとなって道場を逃げ出したが、結局、身寄りもない娘の行き着く先は知れている。耳を塞いで、布団に潜り込んだ。啓之助を起こさないように、浴衣の袖を口に押し当てて震えた。

 両親共に愛し合い、兄弟仲の良い家庭に生まれてこれたなら、それだけで金何万両の価値があっただろう。自分だって、余計な悩みなく、両親の慈しみを全身に受けて、普通の人生を送れたかもしれなかったのに。どうして、こんなにも辛く悲しい思いをしなくてはいけない。

 歳三のせいだ。全ては、あの男が身勝手なのだ。千歳はたしかに、あの男の血を引いているかもしれないが、親とは生まれ出でるためにのみ必要な存在で、この世に落ちた自分自身は、誰とも他人だ。だから、歳三は他人なのだ。千歳には関係のない人物だ。

 勝手にすればいい。歳三は今までどおり、志都のことも千歳のことも考えず、勝手に色事に興じ、千歳と関わりのない家庭を君菊と築けばいい。

 歳三は今、千歳が血を分けた唯一の子どもで、それは撫育せねばならぬ存在だと思い込んでいるから、妙に千歳に拘っているだけだ。いずれ君菊との子が生まれ、その子が父さまとでも呼んだなら、千歳のことなど再び気にかけもしない存在に変わるに決まっている。

 歳三と君菊との家庭で、千歳は邪魔者だ。翡翠の玉簪を一生大切にすると誓った君菊さえ、「仙之介」のことなどすぐに忘れてしまうだろう。


 翌朝、啓之助は起きたくないとグズる千歳から布団を引き剥がし、亀屋によって洗って返された袴に着替えさせた。嶋原を出てからは、青空を映した水田の間、何度も脱走を試みる千歳の襟首を掴み、引き歩く。

「さっさと歩けー!」

「嫌だー!」

 千歳が声を挙げて抵抗しても、啓之助に手心はない。さらに襟首を深く握って、脚も緩めない。

「だいたい、ちょっと喧嘩したくらいでなんだよ。物飛び交ってからが本番だっての」

「喧嘩なんてもんじゃない!」

「うるせぇ」

 啓之助が面倒くさそうなため息を大仰に吐き、千歳はさらに気を立てて噛み付く。

「君はなぁ、さんざ僕に世話になったろう。少しは恩を返せ! 少しは慰めろ、馬鹿!」

「やっぱ、根性ねじ曲がってるよなぁ。慰められたかったら、しおらしくしてろよ。ホント、かわいくねぇ。強欲モンが」

「かわいさなんか、要ったもんか。ばーか、ばーか!」

「叫ぶな、耳に悪い」

 襟首を掴んでいたはずの手に後頭部を叩かれ、千歳は反撃を試みるが、その手は全て啓之助に塞がれた。

 本願寺前の堀川通へ出る。瑞垣の内は、日も昇りきらないうちから、数珠を手にした門徒衆であふれる。ある者は振り売りにて蕎麦を食べたり、ある者は花売りから供物の百合を求めたりと、それぞれに忙しい。

 人目を受けた千歳が大人しく歩きだすと、啓之助も遅々たる足取りに合わせてくれて肩を並べた。しかし、楼門が近付くと千歳の脚は再び地面に縫い付けられたように進まなかった。

「もうー、早くしろよー。近藤先生のお迎え遅れるだろうが、俺」

「どうせ、遅刻常習のくせに!」

「最近はちゃんと行ってますー、最近は君の方が不真面目さんですー」

 啓之助はもう振り向きもせずに千歳の腕を掴み、有無を言わさぬ力強さで引き歩いた。

「兄さんが一緒に謝ってやるからさ」

「謝るとか、そういう話じゃないもん。そも、誰が兄さんだ。僕の血縁は、もうこの世に──」

「はいはい。とりあえず謝っとけったらって、君が前に言ったことだろう?」

「うるさい、馬鹿!」

「うるさいは反論にならないそうでーす、残念でしたー」

 過去の発言を引き合いに出され、千歳はますますその場に踏ん張り抵抗する。帰る帰らないの応酬に、門番の隊士たちも呆れつつも遠巻きに眺め、誰の差金か、気付けば未だ浴衣姿の五郎が差しやられていた。

「えっと……仙之介くんは、どうかしたの?」

 困惑に呼びかけた五郎へと、勢いよく振り返った啓之助は、駄々をこねて涙まで浮かべた千歳を投げ付けた。

「こいつ、ホント面倒くさい! 俺、もう十分頑張ったから、中村くん、あとは頼んだ!」

 啓之助は一瞥も残さず、堀川通を下って行った。状況を掴めない五郎だが、両手で受け止めた千歳から、甘く重たげな香りが立つことに気付いた。

「え、嶋原でも行ってたの……?」

「……ごめん、迷惑かけた」

 千歳は俯いたまま、乱暴に涙を拭うと、五郎の手から走り出た。啓之助にはわがままを言えても、五郎には言えなかった。

 集会堂前の白洲を駆け、渡り廊下をくぐって、通用口から書院棟の厨へと入る。六兵衛たちに混ざって朝食をとったが、やはり箸は進まない。六兵衛が特別だと言って、麦飯の上に海苔を刻み、ごま塩を振りかけてくれた。

「怒ったあとはな、気持ちがいっちゃんお腹空いたはんねん。食べなあかんえ」

「……聞こえてたんですか? 昨日」

「中身までは聞こえてへん。ああ、なんややってはんなぁ、て」

「すみません……本当、夜遅くに……」

「ええねんて。うちの兄ちゃんも何枚、障子戸蹴破ったはったか。全然珍しぃも、悪い子やいうわけでもあらへん。それに、なぁ? 副長先生に怒鳴らはるなん、普通の隊士さんにはできひんで? みんなに見上げられたはるわ。はははは」

 傍から見れば、少年期の矮小な、よくある癇癪に過ぎないのだろう。かわいいものだとみなされる。誰も千歳の繊細で複雑な機微など理解してくれないのだ。


 書院棟の表座敷で開かれた三長および各組長が集まっての報告会では、じきに行われる将軍上洛に向けての警戒が中心に話し合われる。会議後、銘々に解散していくなか、井上が歳三を引き留めて、昨晩の顛末を尋ねた。歳三は今朝から千歳とのことで、伊東に気遣われ、啓之助には文句を言われ、六兵衛からは労われと、そのたび弁明に忙しい。

「すみません。最近、態度が悪くなるばかりで。説教の内容なんかは、大したことではないんですけど」

「そうかい。まあ、あの年頃は難しいからね」

「いつまで続くもんですかねぇ……」

 歳三がため息とともに腕を組めば、井上も思案顔を作り、側で斎藤と立ち話をする総司へと目を向けた。

「あの子は十六歳か、背がグッと伸びたころから癇癪起こすようになったなぁ。それで、十九の終わりか、落ち着いたのは」

「あ、僕の話してる」

 総司が寄って来て、輪に首を突っ込む。その背丈は、平均より高身長である歳三をさらに越していた。歳三が、総司の怒り癖の話だとからかうと、総司はツンと澄まして見せる。

「もうありませんもーん」

「ほほう? どうですか、土方副長?」

「上がってきてるさ、苦情。お前、稽古が荒いって」

「どうせ、三浦でしょう?」

 総司は開き直るが、井上は豊かな眉毛を残念そうに下げて首を振る。

「いやいや。その他、新入隊士諸君からも」

「あー、聞こえない、聞こえない」

 総司は耳を両手で塞いで、素早く輪から外れた。井上曰く、末っ子は説教の気配に敏くなるらしい。

「まぁ、総司にも手を焼かされたけど、そんな時期も気付けば過ぎてた。そんなもんさ」

「だといいんですけどねぇ」

「そうだよ。あ、歳さん。別宅構えただけで、女迎えてないって」

「ええ、色々重なって」

「下女だけでも早く入れなよ。そしたら、あの子も洗濯なんかしなくて済む。うん。ちょっと、あんたたちは近すぎるんだ。あんたは細かいし、酒井くんも真面目だから、それに応えようとするけど、一日中お小姓させられてちゃ、息が詰まるよ」

「……そうですね」

「あの子は優秀な子だよ、一人前の隊士として扱ってなんら不足ないんだから。歳さん、あんた、かわいい子こそ手離してやりな」

 歳三が息を吐いて、顔を背ける。それが否定ではなく、これからの苦労を思ってのことだと、井上には伝わっていた。励ますように肩を叩く。

「あの子は良い子だ。今は少し、自分自身が手に負えないだけだよ」

 良い子であることには違いない。大切にしたいとは思うのだが、千歳の頑なな態度と突然の癇癪とを前にすると、うんざりさせられてしまうのだ。

 千歳は歳三へと無言を貫き、仕事の遣り取りは文面で済ませる。歳三が別宅へ行けば、千歳は屯所に残り、歳三が残れば、千歳は別宅へ泊まる。別宅で風呂を焚かせておいても、歳三が入浴している間に、着替えと湯冷ましを用意して、帰ってしまう。

 徹底しているが、最後の礼節だけは守るつもりなのか、一日の始めと終わりだけは、挨拶を述べた。歳三もなるべく声をかけないようにしていた。

 歳三には、千歳とのこの先が全く見えない。それでも、今度ばかりはあの琥珀色の目から逃げずにいようと心に定めた。

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