六、真相

 降っては止む梅雨時が、重い曇り空を見せる昼前。千歳が監察部屋に配分の文を取りに行くと、三木が勘定部屋分の束を差し出した。

「十八通分。月末になってきたなぁ」

「ええ。今月、特に局長のご新宅の支度で細々入用でしたからね」

「身請けの日取りは決まった?」

「それが……大樹公のご上洛後、と予定しているんですけど」

「あぁ、少し遅れているご様子だというね」

「はい。でも、お陰さまで調度品とか下女の手配が急ぎでなくなって助かってます」

「そう。お家探しから何からご苦労さま。じゃあ、こっちは執務室」

「ありがとうございます」

 渡されたのは四通だが、三木はさらに、二通を追加して差し出す。

「これは副長、こっちが君宛て。武州のお寺さんから」

「え──」

 表書きには、志都たちの位牌と同じ筆跡で、土方歳三様方酒井千歳殿と宛てられていた。

千蔵せんぞうくんと読むのかな、これは」

「いえ……千歳ちとせです。向こうではそう名乗ってたんです。ありがとうございます」

 平静な顔を繕って文を受け取り、部屋を出た。

 昼の鐘が鳴っても、千歳は食事に向かわず、厩の隅で飼い葉の山に身を投げ出していた。両腕を広げてもなお余りある長さの文には、心配と説教と安堵がない混ぜになりながら、すぐにでも帰って来るようにと繰り返し記される。

 歳三が和尚の反対を押し切ってまで、千歳を京都に留めたと知る。疎んじて、気にかけもせず、最低限の業務指示以外では話さない、話しても、敢えて目を見てやるほどでもない存在だった千歳を。いつの間にか、歳三は愛するようになったらしい。

 管大臣の別宅を構えたのも、身を案じるのも、娘に戻させようとするのも、千歳の幸せを願ってのことだ。それくらい理解する賢さは、千歳にだってある。

 しかし、嫌悪は抑えられない。額の包帯へ手を遣った。歳三が愛しているのは、志都の面影だ。それをかき消すような、この目の奥より出ずる千歳自身の性質など、まるで愛していない。

「大っ嫌い……」

 思わず声になり、千歳は飼い葉の上で丸まった。どれほど経ったか、軽い足音が近付き、厩の敷居を越えたと同時に悲鳴が上がった。

「び、びっくりするわー! 酒井くん、なんじゃ? 何しとるんじゃ⁉︎」

 安富は胸を押さえながらも、千歳の目が濡れていること、手に文があることに気付き、引いていた身を立て直すと、膝に手を着いて千歳を見下ろした。

「……馬、乗らんか?」

 千歳は目許を拭って、うなずいた。

 安富は千歳を磐城丸に乗せると、手綱を引いて馬場へ出た。湿った風が前髪を揺らす。

「高いとこは、気ぃも晴れるじゃろ?」

 姿勢への注意を繰り返しながら、安富は次第に足を速めて、ぬかるんだ馬場を伴走する。磐城丸が駆け足になったころ、手を離した。

「身体は楽に! 緊張が伝わる!」

 千歳はゆっくりと息を吐きながら、磐城丸の手綱を引き、馬場の角に沿って曲がった。軽やかな振動と風が心地良い。馬上から振り返れば、稽古着の裾を泥に汚した安富が上々だと笑い返してくれていた。


 少し晴れた気も、しかし、すぐに深みへと落ち込む。斯波の講義の間も、講義後に五郎から蛍を見に行かないかと誘われたときも、頭は和尚からの文に占められていた。歳三宛ての文を隠し持ったまま、家に帰り、無言のうちに夕食を食べ終えた。

 自室に下がろうとしたところで、話があると呼び止められた。歳三の居室の六畳間に入れられ、正対して座らされる。千歳は前髪が顔を隠すようにうつむいていた。

「額はもう痛まないか?」

 顔を気にかけられ、一層下を向いて浴衣の裾を握った。歳三が宥めるように話しだす。

「お前、和尚さまからお文届いてるだろ? 渡しなさい」

 なぜ知っているのかと、顔に出たのだろう。歳三が小さく息を吐いた。

「三木くんが案じていたぞ、何か悪い報せだったんじゃないかって。いいから、出しなさい。怒らないから」

 半日の間、懐に入れていた文はよれ曲がり、包み紙には毛羽立ちも生じる。千歳は無言のまま、歳三宛ての文を差し出した。

「うん。和尚さまも心配されていたから、早めにお返事を書くんだぞ、いいな?」

 千歳は息を吐くが、一息程度で気は紛れない。腹の底から形容しがたい幾重もの怒りが沸き、肺を揺さぶる。父親面で千歳の行いに指示を出すこの男の全てに、虫唾が走るほどの嫌悪感を覚える。

 歳三を見れば、冷静を装った目に苛立ちが浮かんでいた。千歳は怖くもなかった。求められる姿を演じてなどやらない。娘姿で微笑みながら旦那さまやら、父上さまやらと呼ぶことを望まれるのなら、千歳の取る行動はその反対。若衆姿のまま笑いかけず、副長と小姓を徹底することだ。

「……お話は以上でしょうか、先生・・

「お前は……よっぽど……」

 ため息と共に、歳三が顔を背けた。

「よっぽど、俺が父親になるのが嫌みてぇだな」

 聞いたことのない、悲しみをにじませた声だった。歳三を悲しませた自分が悪いのか? そんな、勝手なことはない。奥から突き上げる衝動は、もう抑えられない。

「預かり子って言ったのは、先生の方です。いまさら、なんだっていうんですか!」

 畳を叩き付け、裸足のままに通り庭を駆けた。自室の二階に立て籠り、翌朝は歳三が出掛けるまで、部屋から出なかった。台所の間には、既に洗われた食器が伏せられた箱膳と、菜の盛られた箱膳が一式。料理に罪はないと自身に言い聞かせて、多めに盛られた麦飯を食べ切った。


 一日の遣り取りは、仕事を書き付けた紙切れの受け渡しと、成果物の提出のみ。夕方、ゲベール銃の納入に上った國友の和泉屋一行をもてなすため、嶋原へと向かう支度を済ませた歳三は、裏玄関にて見送る千歳へと、帰ったら話があると言い付けた。千歳は、ただ座礼だけをして見送った。

 戌の刻過ぎ、鉄砲談義が止まらない主人と清原、啓之助を残して、三長と尾形は座敷を下がる。木津屋橋で近藤と別れ、堀川通を上り、正門の石橋にかかったとき、伊東が足を止めた。

「おや、土方くん、屯所に何か?」

「酒井は別宅に帰っていないでしょうからね」

 伊東と尾形が顔を見合わせて、何とも言えない労いの表情を浮かべる。歳三は千歳の反抗的な態度が周知であることに鼻で笑うと、門番を勤める斎藤班へ一礼して、足早に前庭を進んだ。細かな雨が降り出していた。

 別宅の竃の傍に積まれた薪も炭も、歳三の出発からほとんど減っていなかった。家の物を揃えるようにと用意した金も。歳三不在の間、千歳はあの家で過ごさなかったのだろう。六兵衛からは、啓之助が夜中に三人分の器を持って茶室へ行ったと聞いている。同席のふたりは、千歳と五郎に違いない。

 近藤の送迎はしっかりと勤めていたらしいが、その裏では隠れて悪事を働く娘だ。素直に見えて頑固で、従順な振りをして言い付けを平然と破る。買い食いを止めないことも、宴会帰りに送ってもらうように渡す駄賃を着服していることも、歳三は知っていた。

 愛しみたい思いを、ままならない苛立ちが超える。泣かれることは参るが、太々しく睨まれるよりは、よほどかわい気があったと思えた。

 裏玄関を開けると、やはり千歳の草履があった。

「ほら、帰ってない」

「まあまあ、土方くん。夜遊びに出たわけでもないんだから」

 伊東に宥められながら、廊下に上がり、襖を開ける。千歳は暗闇の中で正座をしていた。お手柔らかにとの伊東のささやきを背に受けて、襖を閉めた。

「灯くらい点けなさい」

 歳三が大刀を刀掛けに置き、羽織を脱ぐ間に、千歳は火打石を手に取った。八畳間を行灯が照らす。

「夜は帰る約束だろう、守りなさい」 

 志都とは全く似通わない凄みをもって、千歳は歳三に対面して座った。謝罪や弁明の気配はない。このまま話を進めても、無駄だろう。しかし、今はひとつ部屋を隔てて伊東がいるので、激昂しないはずとの期待があった。歳三は気を落ち着けて、向かい合う。懐から文を取り出して、話を進めた。

「昨日の続きだ。和尚さまと約束している、お前を俺の子として京都に置くと」

 袴の下で小刻みに動かされる千歳の手が苛立ちを表していた。不機嫌を隠そうともしない千歳に、歳三は口調を柔らかくして挑む。

「君菊とは、だいぶ仲が良いみたいだな」

 しかし、千歳に話す意志を持たせることは叶わなかった。

 歳三は一息をつくと、姿勢を崩した。歳三と千歳との関係は行き詰まりを見せている。だから、あの家にはもうひとり、置いておく必要があるのだ。千歳が帰りたくなる相手──

「君菊をな、身請けしようかと思っている」

 千歳が怪訝に眉を寄せた。

「お前さえ良ければ、だが。あの家に迎えようと思う。だから──」

「好きになさったらいいじゃないですか、そんなこと」

 冷ややかな目付きが歳三を刺す。千歳の目に浮かぶのは、涙ではない。静かで激しい怒りだった。

「……嫌なのかい?」

「副長のご勝手です」

「勝手なものか。あの家はお前の家だ、お前の気が進まないんだったら──」

「勝手に親を気取らないでくれませんか!」

 高い叫び声と共に、千歳の右手が畳に叩き落とされた。歳三はその目に見覚えがあった。追い込まれた敵が、最期の一太刀に賭けて斬り込むときの殺意だ。

「……落ち着け」

「うるさい! うるさい、うるさい!」

「話し合いができないんなら、もう終いだ」

 歳三は立ち上がって、南の障子戸を開け放つ。

「帰れ」

「話し合いもしないで、母さまから去ったのは、あなたの方でしょう⁉︎」

 歳三の手が震えた。昔、あの目は歳三に笑いかけ、あの唇は愛を語った。思わず目を逸らす。

「……それが、なんだ。母さまとのことは、今──」

「関係ないわけないじゃないですか!」

「関係ないだろう! 今の話をしているんだ、俺は。お前が家に──」

「話逸らさないでください!」

「一体、なんなんだ! 何が気に入らないっていうんだ、お前は!」

 歳三が障子戸の枠を叩けば、千歳も応じて立ち上がる。畳を踏み付けた衝撃に行燈の油が波立って、天井の影を揺した。

「あなたが母さまを捨てたことですよ!」

「お前に何がわかる! だいたい、あれは──」

「裏切り者!」

「裏切ったのは向こうだ──!」

「母さまが裏切るわけない! 兵馬先生も、あれは人の女だって!」

「白々しい! 人の女奪ったのは、そっちだろうが!」

 訪ねると約束していたあの春の日、時間より早く明練堂に着いた。裏の柴垣から廊下掃除をする志都の背中が見えた。兵馬と唇を重ねていた。汚らわしい。心の中で何度となく斬り捨ててきた場面だ。

 急に突き放された。理由など聞かずともわかる。志都は元から兵馬を好いていたのだ。そんな情けない話を聞かせるつもりなどないが、歳三には今、新たに得た証拠があった。

「お前の先生は、酷い謀り者さ。読んでみろ!」

 和尚より送られた文を懐から出し、千歳に突き付ける。志都が明練堂に引き取られる前に身を寄せていた道場の師範が、嘉永四年二月に和尚へ宛てた文の抜き書きだった。

「お師匠さんが、お志都さんの子に会ったと。お前だ、正月二十八日に生まれた赤ん坊……計算が合うんだよ、俺の子として! お前の母さまは、お前を身籠ったまま──」

 兵馬に鞍替えしたと口に出かかったところで、理性が優る。歳三は昂ったため息と共に、生え際の髪を掴んで間合いを取った。千歳を見遣れば、頬に大粒の涙を流しながら、声を漏らさないよう唇を噛み締めてわななく。

「……すまない。だが、お前は俺の子だ。紛れもなく」

 歳三が座ろうと進めた一足に、千歳は不確かな足取りで後退った。

「おい……」

「私……は、先生の……兵馬先生の──!」

 嫌悪と困惑に揺れる目が、呆然と歳三を捉えていた。震える両手は襟を締め上げている。千歳の足はふらついたまま、廊下との襖に当たった。

 首を振って泣く姿に、歳三は千歳の次の行動を察した。落ち着かせようと両腕を向けるが、千歳は嫌だとの叫び声を残して、襖を開け放ち、裸足のまま玄関から飛び出した。


 歳三は追うこともできず、家にも帰れず、気を落ち着かせるために、執務室より仕事を持ち込んだ。一時立替していた旅費の申請書に手を着ける。算盤を弾き、検算を行うも、結果は額面と合致しなかった。舌打ちとため息を隠すように、両手で顔を覆った。

 なぜ敬助はいないのだろう。歳三と千歳、ふたりきりでは互いに冷静さを保ちえない。敬助がいれば、激昂する千歳を宥めただろうし、宥めてくれたなら、歳三まで声を荒げて罵倒することもなかったはずだ。

 志都と兵馬の口付けを見てすぐ、兵馬に明練堂へと呼び出された。道場で試合になり、歳三は負けて──


『ウチのお嬢さんのところには、もう来るな』

『……お志都さんに会わせてください!』

『お嬢さんが怖がってる。さっさと帰れ。あれは、俺が迎え入れる娘だ』


 そのまま志都とは会っていない。

 養嫡子と下女とでは身分が釣り合わない。志都も弁えていたから、兵馬を諦めて、歳三と付き合いを持ったはずだ。それを、兵馬が養父と話を付けて、志都を佐藤家の「お嬢さん」として迎え入れ、志都も兵馬を選んだものだと思い込んでいた。

 五年後、兵馬に抱き上げられる千歳を見たときは、疑いもなく、その父は兵馬だと思った。千歳の父が兵馬ではないと聞かされてからも、千歳とは、結婚を許されなかった兵馬と志都が私かに設けた子だと思っていた。

 しかし、志都も兵馬も、千歳の父を兵馬とは認めていない。それは、千歳の誕生日が示すとおり、その父は歳三であるから。

 若き日の兵馬が、歳三から志都を奪わんと仕組み、目論見通り、歳三は志都の許を去った。それでも、志都は兵馬から人の女と言わしめるほど、歳三を思い続けてくれた。千歳にその父を秘匿したのは、歳三が何も言わずに去ったから。

 そう考えると、全ての辻褄が合った。

 兵馬を恨むだろうか? 自身に問いかけると、やはり、何も思わずにはいられなかった。それでも、歳三が幼かったように、兵馬も若かった。志都亡き後も千歳を守り、最期には千歳を歳三へと返した兵馬に、今、向ける心は感謝が勝る。

 志都へは──と考えたところで、涙がこぼれた。どれほど傷付け、苦労を強いたか。到底、謝り足りない。

「どうして、あんたを信じてやれなかったんだろうな……お志都さん……」

 つまらない意地を張って、黙って去らなければ、そのあとでも、会いに行くことを避けなければ、親子三人で話すことができたかもしれなかったのだ。後悔が嗚咽となって押し寄せた。歳三は袖で口を抑え、文机に覆いかぶさるように、声を殺して耐えた。

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