五、嫁入り

 結婚したい、と原田が近藤を訪ねたのは、まだ前川邸にいた三月のある夜のことだった。好いた娘がいるから、家庭を持ち、添い遂げたいと思う。そう言って、原田は頭を下げた。

 結婚は好いた惚れたで決めるものでないと諭す近藤に、原田は照れくさくも笑った。

『だけど、こっちは浪人上がり、お真佐まさは商家の下の子。背負うもんのねぇ同士が結婚するには、好いている以外に良い理由がないんす』

 屯所の引っ越しを機に、原田は祝言を挙げ、本願寺の南の町家にて真佐と暮らし始めた。

 それから、数ヶ月が経ち、近藤が大坂から太夫を見受けすることに併せて、千歳は町家探しを依頼された。ちょうど原田が近所に良い空き家があるというので、紹介を受けて、無事に契約となった。


 太夫を迎える前の支度として、千歳は非番の五郎を駆り出し、醒ヶ井にある新宅の掃除へと出向いた。真佐も手伝いに来てくれた。十八歳という真佐は、新造の髪型である先笄を高く結い上げる。祝言に出た近藤から聞かされていたとおり、背の高い京美人だった。

 雨戸を開けていけば、野原に面した南の縁側から、畳や間仕切りのない邸内に、梅雨らしからぬ涼やかな風が入る。

「気持ち良い日ですねー」

「へぇ、ほんに。随分、暑うなってきて。──あ、燕さんですえ!」

 軒先には、膨よかな胸をひしめかせて、五羽の燕が並ぶ。今にも飛び立ちそうなほどに張りのある囀りに千歳が口笛を吹けば、五郎も縁に出てきて、共に見上げる。

「仙之介くんって、燕好きだよね」

「ああ。僕、実は小燕子しょうえんしとの雅号を持ってるのさ」

「あれ、酒井さんは、お歌詠まはるん?」

「いえ、いつか使おうと決めているばかりです。ですから、まだ一度も」

「あれ、ふふふ! ご用意のよろしいことですわぁ」

「よっ、小燕子。何か書けたら見せてよ」

 千歳は照れ臭い思いを、大仰にして得意気なうなずきで誤魔化すと、ハタキを掛けに部屋へと入った。雑巾掛けも終えると、真佐は休憩のお茶を用意するため、家へ戻って行った。その間、千歳と五郎は、納入された畳を敷いていく。新しい藺草の香りが家に満ちた。

「良いよねぇ、新しい畳って」

「副長のお宅も新しいんでしょう?」

「あぁ……うん。でも、畳敷いたの、建て直してすぐだし、もう匂わないんだよね。よし、持って。せーの」

 掛け声と共に、畳を持ち上げる。畳は表座敷、玄関の間、台所、奥座敷と二十枚以上運ぶ必要があった。すぐに暑くなり、五郎は諸肌を脱いで作業に当たるが、千歳は襷掛けをするのみだった。

「暑くないの? 仙之介くん」

「暑いけど、脱ぐほどじゃない」

「汗かいてる」

「そりゃかくよ、暑いもの」

 襟で首の汗を拭うと、土間に降りた。竈の前に積み上げられている青畳の端を持ち上げて五郎に持たせると、自分は反対側を持つ。それとなく、話題を逸らした。

「お真佐さん、きれいな人だね。すてきなご新造さん。原田さんが惚気るのもわかる」

「本当に。良いなぁ、僕、結婚できるのいつかなぁ」

「え、したいの?」

「え?」

 向こう端を持つ五郎が、驚かれたことに驚く顔を見せた。

「仙之介くん、結婚考えたりしないのか?」

「……君、恋はしないのに、結婚はしたいの?」

「だって──あ、そっち、先に下ろして」

 六畳敷きである玄関の間に、最後の一枚が入れられる。畳を馴染ませるために、部屋を歩き周りながら、五郎は続きを話した。

「妻を迎えてこそ、一人前じゃないか。まあ、それくらい身を立てたいってのもあるけど、両親みたいな仲の良い夫婦になりたい」

「ああ、鴛鴦夫婦って言われてたんだよね」

「うん。母上は父上が外出している間、家を出ないんだ。出迎えるために。たまに食事の支度中とかに帰って来ると、父上の方から厨まで来てたね。母上が出掛けるときも、そう。帰って来たときに、一番に会いたいんだってさ」

「いやぁ……君から聞く家族の話は、いつも微笑ましいよなぁ」

「そうかな」

 五郎がおかしそうに照れ笑う。いつもなら千歳もつられるところだが、今日は努力なしには笑顔を繕えない。

 昨晩の夕食時、歳三はいつもどおり、今日は何をしたかだとか、呼んだ本の内容だとか興味もないくせにつまらない質問を繰り返して千歳に口を開かせようと試みてきていた。それだけなら、まだ我慢出来るが、歳三は最後、五郎をどう思うかと尋ねたのだ。

『もし、お前が彼を良いと思うなら──』

 ついに千歳の箸が箱膳に叩き付けられた。

『友人です。やめてください、気持ち悪い』

 歳三がどんな顔をしたか、見てもいない。膳ごと身体の向きを変えて、歳三に背を向けると、残りの麦飯をほとんど噛まずに飲み込んで土間に降りた。

 しかし、これだって千歳は悪くない。ただ仲良くしているだけで、恋心があると勘繰って、婿に迎えようかだなど飛躍させる歳三がおかしい。歳三は、千歳のことをちっとも理解していないし、考えていない。親らしいことをしたいだけなら、養女でも迎えればいいだろう。

 畳を敷いて、襖や障子をはめ終えるころ、真佐がお茶と茶菓子を持って戻ってきた。お茶片手に語られる真佐の惚気を、五郎はにこやかに聞き、うなずくが、千歳には真佐の幸せそうな姿が、自身に課せられた義務への催促に思えてしまう。


 夕方、八木邸へと足を向けると、竹輪が五匹の仔猫を連れて千歳を出迎えた。白猫、茶虎、三毛。仔猫たちは、北庭を走っては戯れ合う。千歳は針仕事をする雅の隣に座り、気怠く縁側から脚を下ろしながら、膝に乗せた竹輪を撫でた。

「女将さんは、いくつで結婚されたんです?」

「十六の春やなぁ」

「……十六」

「早いやろ。お父ちゃん亡くならはって、兄ちゃんの代、固めなあかんいうて、縁談、進めることになってなぁ」

 八木家とは姻戚だった。前妻を亡くした源之丞は三十二歳、娘盛りの十六歳で後妻に入るとは、内心嫌ではあった。

「お父ちゃんとの方が年近かったくらいやさかい、旦那はん、初めは子ども扱いしてきはって……まあ、小さいころから会うてたしな。なんや、嫁にいうより、養女にきた気分やったわ」

 その結婚生活が幸せであったかは、柔らかな微笑みをたたえた横顔を見ればわかる。手の中にある着物は、千歳へと肩揚げをして渡してくれた若草色の振袖だ。千歳が衣更えに合わせて返しに来たものを、勇之助に着せるために、腰上げをしていた。

 雅は良い母親だと思う。雅の慈しむ八木家は良い家族だ。

「……想像できません、私が……そうなるのは」

 竹輪を抱きしめた千歳の声は、悔しさを押し殺して、今にも泣きそうだった。雅が手を止めて、答えに迷う声で応じた。

「今すぐ、どないかしよなん、考えはらへんと良えんよ? そうやなぁ……お仙さん、お裁縫得意やし、なんでん作ってあげれるよに、お針のお稽古続けるんが良えんとちゃう?」

「お裁縫ですか……」

「あとは、副長はんに任せてはったら良え。あん人、きっと良えよにしてくれはるわ。な?」

 腕の中の竹輪が甘えた声で鳴いて、撫でるように要求した。千歳はその背を撫でながら、いくつもの不満を飲み込む。押し殺す葛藤は雅にも伝わったらしい。

「なぁ、お仙さん。あんさん、痩せはった?」

「……そう、ですか?」

「気ぃ詰めて考えたはったり、したはらへん?」

「してませんよ、大丈夫です」

 微笑んで見せれば、雅はそれ以上、踏み込んで来ないと知っているのだ。雅は小さく眉間を震わせたが、自身を納得させるようなうなずきを繰り返して、手許へと目線を戻した。千歳は申し訳なさに苦しくなる心を、竹輪を撫でることで誤魔化していた。


 翌朝は寝覚めが悪く、伊東の講義に出ても交わされる議論に入れず、聞き手に周ってばかりだった。

 表座敷の広間にて、小円ごとに海上警備の方策が語り合われる。どこに砲台を築くか、どのように警備に当たるか、その財源は。

 構想図の中で、五郎たちは当然に自分の役を探し、身を置くことを想定しているだろう。千歳には、どれほど学ぼうと、世界情勢は教養に留まるものでしかない。彼らと同じ熱さで語り合えない自分が、虚しく感じられてしまう。

「仙之介くん、体調良くない?」

 講義終わりには、五郎からも心配されたので、千歳は梅雨のせいにして、気を晴らしたいからと稽古に誘った。

 夕方の誰もいない文武堂で、襷掛けをする。中段に構え合い、相手の気を読む。剣を握っているときは、余計なことを考えなくて済んだ。

 掛かり手と元立ちを交代しながら形を繰り返すうちに、少しずつ声も明るくなり、身体も軽くなっていったのだが。一撃、五郎による面への打ち込みを払いきれずに、左こめかみに当たった。

 何度も自身の名を呼ばれる中で、意識が戻る。五郎に抱えられ、額に手拭いを当てられながら、千歳は歳三に怒られることばかりを考えていた。

「五郎くん……」

「仙之介くん! ごめん、大丈夫か? どうしよう、血が……!」

「大丈夫。ちょっと休めば──」

「いけないよ、掴まって。勘定部屋行く」

「やだ、大丈夫だから!」

「馬鹿、動くな」

「汚れる……!」

 五郎は拒む千歳に耳も貸さず、肩に腕を回させて、勘定部屋へと向かった。垣根の枝折り戸をくぐり、南庭に入る。

「斯波先生、斯波先生!」

「ちょ、大きな声で──」

 千歳は制止するが、斯波まで驚きの声を挙げるのだ。西廊下に座らされると同時に、斯波は晒し布で止血にかかった。

「仙之介くん、大丈夫か? クラクラしないか? ちゃんと見えてるか? 肝冷やされるなぁ!」

「大丈夫です……! 五郎くんが大袈裟なんですよ」

「仙之介くん、動くなったら!」

 自分で止血しようと伸ばす千歳の手は、五郎に捉えられてしまう。肝が冷えているのは千歳の方だ。執務室を見遣れば、廊下にまで歳三が出てきていた。千歳が弁明を述べるより早く、歳三がいつにない凄みをもって五郎の名を呼んだ。

「中村くん! 説明したまえ、何があった」

「申し訳ございません! 木刀を当ててしまい……」

「木刀? なぜ防具を着けていない、木刀での稽古には着用を命じているだろう」

「私が未熟でございました。立ち合いではなく、形稽古だったのですが、力加減を誤って」

「顔に──」

 歳三を遮って、千歳が低い声で返す。

「たかが、顔の傷くらい、なんだって言うんですか」

 五郎が息を飲み、斯波が落ち着かせるように肩へ手を置くが、千歳は歳三を睨み付けて口を止めない。

「後ろ傷ならともかく、男子の向こう傷で叱られる理由がわかりません」

 やはり、この男は千歳の顔ばかりを愛しているのだ。痛む額すら、胸のすく思いに変わる気がした。千歳と歳三との間で静かにも激しい視線が交わされる。五郎が青ざめた顔を恐々と上げ、斯波を伺えば、斯波は小さく息を吸ってから、千歳の顔を自分の方へと向かせて、処置の続きを再開した。

「親にもらった身体だろ、傷付けさせたら誰だって焦るさ。しかし、幸い縫うほどではない。五郎くん、今後はよく気を付けなさい」

「本当に申し訳なかった、仙之介くん」

 五郎が深く頭を下げる。しかし、受けが甘かったのは千歳の責任で、五郎が謝ることではないのだ。

「いいんだよ、僕が集中してなかった。気に病むことはない」

 和解が述べられ、斯波は歳三に総括を求めて顔を向ける。歳三はいつもと同じく少し無愛想にも見える冷静な顔で廊下へ座った。五郎は両手を着き、深く頭を下げて歳三の言葉を受ける。

「形稽古といえど気を抜かずに取り組みたまえ。自身と相手の実力をよく測ることを忘れるな。……それから、傷口を洗う必要があるようだから、水を汲んできてあげなさい」

「ご教示、肝に銘じます」

 五郎は一層深く頭を下げると、急ぎ足で表庭を出て、蔵傍の井戸へと向かった。歳三は斯波に会釈すると、執務室へ戻っていった。すぐに千歳の口には小声ながらも非難が溢れる。

「副長らしくもない。これが他の隊士だったら、部屋から出て来もしないでしょうに」

「部屋子が特別かわいいのは、君だって理解できるだろう?」

「かわいいんじゃないですよ、くだらないんです。たかが顔の、目鼻の付き方に感情振り回されて」

「たかがって……君、冴えない男を総代して言わせてもらうが、喧嘩売ってるな?」

「売ってませんよ。ていうか、先生は十分、良いお顔立ちじゃないですか」

「君に褒められるとは嬉しいね。はいはい、強情さん。Take care of yourself. お大事にするんだよ」

 斯波の大きな手が千歳の鼻先を越えて両頬を掴み、念を押すように指先に力が込められた。斯波の黒い目に、夕焼けに赤い自身の赤毛が映る。見ていられず、目蓋を伏せた。

 その日は、夕食が冷め切るまで長々と歳三の説教が垂れ流された。総司との稽古も止めさせるだとか、五郎と話しに集会堂に渡るのも禁止だとか、守らなければ講義にも出させないだとか。顔も身体も、もう少し大事にしろだとか。鬱陶しい限りの内容だ。

 千歳が一切の返事をせずに押し黙っていれば、歳三も諦めたのか、もうよいと言って箸を取る。千歳は一口も手を着けないまま、礼もせずに部屋を下がり、布団へと潜り込んだ。

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