四、自由

 自分とは何か。古今東西の学者たちが考えてきた題目だが、斯波はひとつの考え方として、ある「rights」を与えられた存在、その「rights」が及ぶ範囲の存在であると示した。

 「rights」とは何か。端的に書かれた一文があると渡されたのは、アメリカ合衆国『独立宣言』が書かれた半紙だった。千歳は集会堂の南の庇に腰掛けて、五郎の稽古が終わるまでを待ちながら、英文を訳していった。


──We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness.


「我らは、保持したり、これらの……truth. truth. T-R-U-T……」

 ひとまずは、英単語を拾い上げて漢文体へと直し、わからない単語に当たれば辞書を引く。斯波より託された『英和対訳袖珍辞書』は、米粒よりも細やかな字で訳が書かれていた。

「信義、信実、信用……信実って真実と同義なのか?」

 to be self-evident は自明なりとの註釈を与えられているので、これらを訳すと。

「『我らは、これら真実どもを、自明なることと保持したり』? ……意味がさっぱりわからないのだが?」

 ようやく一節を訳し終えるころ、五郎が帰ってきて、額を突き合わせての課題解明が行われた。

「でね、ここの全人類all men創作者Creatorってなんなのか、わからなくってさ。寄木細工や土人形じゃないでしょう?」

「うーん……メリケンだから、ほら天主教のアレ……天帝デウス? デウスじゃないか?」

「あー、五郎くん、さすが賢い」

「いやいや、わからないよ? あと、僕も these ここ の前の among の訳は考え付かないです。among these でひとつ、『これらの』でも変じゃないと思うけど」

 字義や語句の解釈を重ね、申の鐘が鳴るころ、訳文はようやくまとまりを見せた。


──我々は、以下の真実を自明ならんと信ず。其れは、全ての人々が等しく作られたること。其れは、彼らが、彼らの創造者によって、確かなる他に渡すべからざる rights を与えられたこと。是れら、すなわち、生命、自由また幸福追求なり。


「斯波先生は、自分とは rights の及ぶ範囲と言われた。だから、つまり、自分とは生命自由また幸福追求する rights の……担い手、ということかなぁ?」

「生命の担い手、自由の担い手、また幸福追求の担い手たる自分。なるほど……」

「……ねぇ、rights って、デウスが与える口分田みたいなもの? みんなに等しく与えられて、譲渡売買不可で。生命の礎だし」

 千歳の突飛な例えに、理解の追い付かない五郎がうめき声を挙げながら、廊下に脚を投げ出して天を仰ぐ。

「君は、えっと……口分田は、ふたりでひとつとか、ひとりに幾人分もは与えられない。それと同じく、rights もひとりの人間に与えられるものだと言いたい?」

「うん。もしくは、柄杓、みたいな。幸福をさ、汲み取る柄杓。自分の意志で、自分のためだけに使えて、入れた分だけ、自分だけが飲める。幸せを感じられる、みたいな」

「例え、逆によくわからない気が……」

「ごめん、ちょっと黙って考えてる」

「いや、いいんだけど。……意志、かぁ」

 五郎が右手を目の前に掲げて、握ったり開いたりしながら、考えを巡らす。

「僕は……意志を持って、この身体を自由に動かせる。だけど、どれだけ念じても君の手を動かせはしない。僕は君じゃないから」

「うん、つまり?」

「……うーん、僕の意志は僕だけのものだ。僕の血液が僕の身体の内側のみを巡るように、僕の rights も僕の内側にあって、僕を動かす……のかな?」

「あー、なるほど。rights を意志と置き換えたらわかる気がする。意志の及ぶ範囲が自分。意志の限界がつまり、自分と他人の境界だ」

「ああ。自分とは、肉体を外殻として、他人の意志と区別される存在。僕の意志を、君は邪魔できない。そう考えると、意志を遂げることとは自由Libertyを全うする行使だ……と思います」

 それでは、rights を何と訳そうか。辞書には利権とあるが、利権では、座や株仲間にて専有される特権のような、排他的な権益が連想されてしまうのだ。

 良い訳語が思いつかないまま、五郎は夕方の巡察に立ち、千歳は書院棟へと戻ることになった。


 渡り廊下を抜けて、脇玄関の上がりの座敷、文学師範部屋をのぞく。期待どおり、本や地図が広がる六畳間の真ん中には、簡素な文机に向かう斯波がいた。

「先生、いいですか?」

「──おや、できたかい?」

 斯波は読んでいた本を閉じて、千歳へと手を伸ばした。千歳は文机に最も近い隙間に座り、書き付けを手渡す。

「五郎くんとやってきたんですけどね」

「うんうん……ああ、よくやったね。生命、自由、幸福追求とは素晴らしい。Perfect」

「でも、問題は rights ですよ、rights。言葉って本当、人間が識別する物事に対して与えられた名だと思いますね。東洋にはない考え方だから、ピタッとくる漢語がない。利権ではなんだか、株とか入会地いりあいちの利用の免許とか、そんなんが浮かびますもん。譲渡売買不可らしいのがなおさら」

「そうだな。譲渡売買不可の株を持ってると考えていいんだが」

「自由株、僕も持ってるんですか?」

「もちろんさ。その保証するところは、主に三つ」

 斯波が机に身を乗り出して、講義の姿勢に構える。帳面を開けとの合図だった。

 三つの「自由株」のうち、ひとつ目は、精神の自由。考えること、それを公表すること。自分の望みを口にして行う自由だ。

 ふたつ目は、経済の自由。財産は不当に奪われず、どの職に就くかも自由だ。三つ目が、身体の自由。監禁されないし、無理に働かされたりしない。

「みんな、自由なんですか」

「そうだ。自由で平等なんだよ、誰もが」

 斯波は大きくうなずいて見せるが、千歳には疑念が浮かぶ。

「でも、例えば遊郭に自由はありません。メリケン人は、羅紗緬らしゃめんをどう考えているんでしょうか」

 羅紗緬とは、異人を専門に相手取る遊女のことだ。開国時の要求を受けて新設された横浜港崎みよさき遊郭には、多くの羅紗緬が在籍していた。

「遊女が Liberty rights を侵害される存在だと知りながら、その設置を願うとは、自由を尊重しない要求です。正義ではありません」

「なるほど、確かにそうだ。けれども、羅斜面も給与に見合うからと、その職を選んでいるとも考えられないかい?」

「自ら利権の侵害を選んだんだから、侵害じゃないってことですか? 親に売られてきた子もいるだろうに、そんな……」

「rights とは、その侵害を主張し抵抗しない限り、保証は全うされないとメリケン人は考えるからね」

「Liberty rights は舶来の思想で、僕たちは元より識別しないのに? 自分たちの考え方に基づいた行いができる人のみ、平等な利権を有する人間として扱うって、なんか、それじゃあ思想の植民地です」

「ほぅ、思想の植民地。なかなか言い得て妙だ。人同士は平等、国同士も平等。ただし、物事の識別が叶う『大人』であれば。そんな西洋思想からの逃げ場は、もう地球上にはない。だから、俺たちは西洋が支配する世界で rights を主張するために、西洋の識別を学ばなければならないんだろうな」

「大砲だけじゃないんですねぇ」

「むしろ、こっちさ。施政の仕組みとか、学術とか。西洋仕様でなければ、受け入れられない」

「……不自由なもんです。ああ、攘夷してしまいたい」

 大袈裟に嘆いて見せれば、斯波が声を立てて笑う。

「地球がもっと広かったら。うん、蒸気船さえもやって来れないくらいだったら、逃げきれたかもしれないな。残念だが、案外小さかったわけだ、俺らが生きてる天体は」


 夕べの鐘が鳴り、執務室へと退勤の挨拶をして、小雨降る大路へと出る。千歳の傍を、破れた傘を手にした子どもたちが走り抜けて行った。

 彼らは自由なのだろうか。この瞬間、走りたいとの意志が邪魔されていないことは確かだが、自由とは、そんな限定的なものではないように思えるのだ。もっと人間の根底にある、永続するような意志が阻害されないことに思える。

 自分自身は自由なのだろうか。

 思うことは自由にできている。述べることも制限を受けていない。では、行うことは──?

 胃が痛んだ。ここ数日、夕方になると気が鬱ぎ、身体も重くなる。寺子屋に行きたくなくて腹痛を訴える子どもの話は聞いたことがあっても、家に帰りたくなくて具合を悪くする娘の話は聞いたことがない。

 歳三は、いつか北野の座敷で、千歳が本を読んで過ごしたいなら、そうして良いと言った。しかし、千歳の人生は、本さえあれば満たされるとは思えないのだ。

 友人がほしい。五郎、啓之助のような本を読んで語り合う友人。もしくは、敬助や斯波のような師匠。そして、彼らの側にあるためには、やはり、本を読む仙之介でなくてはならない。

 けれども、自分の学びとは一体、何のためのものなのだろうか。五郎も啓之助も、斯波も皆、今の学びは彼らの未来を作り出すが、千歳の学びはどこまでも自分のためのものでしかない。

 友人を大切にと、敬助は言い遺した。思い出は、ひとりで生きるときの慰みとなるから。

 英語も世界情勢も、世界地図の知識もやがて、十五歳の日々の思い出の品々に変わっていくのだろう。縫い物をする老婆が懐かしの童歌を歌うように、千歳も英語を口ずさむのだ。千歳の学びは、未来の慰めのためなのだろうか。いずれ娘として生きていくときのために、仙之介としての今を生きているのだろうか。

「酒井さーん」

 もうすぐ家へと着くころ、思案を破って、陽気な声が後ろから呼びかけた。振り向けば、賄い方で新しく雇われたいわおだった。千歳よりひとつ年上で、いつも別宅へ配給を運んでくれている少年は、蓑笠を着けて、岡持ちと汁桶を両手に提げながら、小走りに寄って来ていた。

「考えごとしたはりまっしゃろ? 歩くの遅いですわ」

「はは、うん……ちょっと、さっき読んだ本が難しくてさ」

「熱心なことですわ」

「そうでもないさ。ありがとう、ここで受け取るよ」

「いえいえ、雨ですし、お宅まで運びますって」

 巌は首を振って、両手の桶を掲げて見せるが、千歳も引かずに傘の下から手を伸ばす。今はひとりになりたい気分だったのだ。

「君だって早く戻って、夕飯にしたいだろう? 六兵衛さんの美味しいご飯が冷める前に早くお帰り」

「えー、良えんですかぁ?」

「もちろんさ、ほら」

 繕った笑顔に見えないように、目を細めて巌の手から岡持と汁桶を受け取り、両腕に通す。巌は重ねて膝を深く曲げて、また明日と挨拶すると、仏光寺通を駆け戻って行った。

 息を深く吐いて、千歳は背を向けて歩き出した。細い小路に入り、傘を閉じる。板壁に半間幅のみ据えられた格子戸をくぐり、人ひとりがすれ違えるような板塀の間道の突き当たり、やっと玄関に行き着いた。ほとんど真闇の通り庭へと桶を置き、そのまましゃがみ込む。

 巌が敬語を使うのは、「仙之介」が歳三の小姓であるからだ。「千歳」であっても、それが歳三の娘ならば、やはり敬語で話すだろう。歳三の存在こそが、千歳を規定する。胃がまたさらに痛んだ。

 どれほど経ったか。玄関の格子戸が開いた。千歳が顔を挙げずにいれば、歳三の声はすぐに飛んで来る。

「おい、どうした、具合でも悪いのか?」

「いえ、お帰りなさいませ」

 立ち上がり、大刀を預かるため手を差し出すが、歳三は渡さない。一言、着替えてくるように言うと、玄関の間を上がって行った。

 歳三の許にあって、千歳は身なりさえ自身の意志に依らない。生活か、自由か。自由の先にある人生は、思い描くことができなかった。一息をゆっくりと吐き出して、自室へと戻った。

 着流しになり、配膳する。自身の器にはあまり飯を盛らずにいると、はたまた歳三の声が掛かる。

「少なくないか? 朝もお前、そんなに食べてなかったろう」

「今日は稽古も講義もなかったですし、そんな日はいつもこれくらいでした」

 風邪をひいてもご飯は美味しく、そも風邪すらここ五年ほどひいていない千歳だが、近頃は食が進まない。理由は、共に暮らすこの男──ひとりのみに帰するものでないことくらい、千歳にも分別が付いていた。

 わがままな自分が悪いのだ。一度でも役を降りたなら、二度と「仙之介」としての舞台には上がれないからと、自分のものでもなかったはずの役名にしがみつく。恩知らずな小娘だ。歳三の庇護下にありながら歳三の意に背き、本来の人生には無駄な日々を、自分の満足のためだけに費やしている。

「……おい、やっぱり具合悪いんだろう?」

 箸の進まない千歳に、また案じる声が投げかけられる。平気だと、なぜ答えられないのか。団欒の夕食に、なぜ応じられないのか。ただ微笑み、父と呼びかけることが、なぜ出来ないのか。

 箸を叩き付けたくなる衝動に耐えて、千歳はひたすらに夕飯を口へと運んだ。汁で流し込み、全てを飲み込めないままに席を立ち、食器を洗う。

 やはり、歳三が悪いと思わずにいられない。千歳の父を名乗りたいのなら、あの秋、千歳を抱き締めていれば良かったのだ。千歳を家に留めたいのなら、その手配は一年前にはなすべきだった。

 奉公ではなく、町家に置かれたのなら、千歳は新堀とも出会わず、世情を知りたいと言うこともなく、啓之助や五郎との友情も、liberty rights も「仙之介」としての自我も知ることなく済んだはずだ。自分の不完全さに気付かず、故に求めることもなく。

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