三、配役

 少し待つように言って、堂内へと上がっていった斯波は、下駄を履き、小冊子を携えて戻ってきた。開いて見せられると、頁ごとに英文と対訳が力みない端正な筆で書かれている。

「先生が書いたんですか?」

「そう、主人が演芸好きでさ。台詞の抜き書き集を作ってくれたから、それを和訳したんだ。シェイクスピアという英国の作家が多いよ」

 斯波は、どこにしようかと呟きながら、ある頁を開いた。下半分を手で隠したまま、千歳へと見せた。


──Life's but a walking shadow, a poor player.


「そんなに難しい単語はない、だろ? 訳してみなさい」

「え、えっと…… life は、生命じゃないな、人生? ですね。で、この but は、否定じゃなくて限定ですから……shadow, a poor player. よし」

「はい、どうぞ」

「人生は、ただの歩いている影法師、すなわち貧しい役者です。……意味はわかりません」

「はは、十分さ。この poor は貧困よりも、品質の低いことを指す。だから──」

 斯波が手の下に隠した和訳文を現した。

「『人の一生は、ただ歩き回る影法師。哀れな役者なめり』──と訳されるね」

「へぇ、僕たち、哀れな役者なんですかぁ」

「役者はどれほど熱く台詞を語ろうと、出番が終わればそれきりだからね。人間も、どれほど志高く生きていても、死んだらそれまでだろ? 出番のうちに、志を果たし切って死ねる者は、そう多くない」

「なるほど、そのとおりです」

 斯波の手が頁をめくる。身体を傾けて、見やすいように開く。説明する時々、千歳の理解を確認するように、目を合わせて微笑む。千歳は懐かしさを抱きながら、斯波からの講義を受けていた。

「──先生、コレとコレ、なんの記号ですか?」

コレは、Colonコロン。漢文でいうところの『すなわち』だ。こっちは、semicolonセミコロン で、比較とか対比に用いるな」

「漢文でいうと、何になりますか?」

「そうだなぁ、あ──」

 思案に顔を上げた斯波の目線は、千歳の後方にて留まる。振り返ると、本堂の影、四間ほど離れた白州から、帰り支度を済ませた歳三がこちらを見ていた。斯波が立ち上がり一礼すると、歳三は会釈して、千歳を手招く。その動きは、ただ一度、素早く指先を引いたのみで、説教の長さが予見される気迫があった。渋々と立ち上がる。

「……ごめんください、先生。また明日」

「うん、これ読んでみるかい?」

 差し出された小冊子を拝して受け取ると、千歳はさらに二度、お辞儀してから歳三の方へと足を向けた。

 夕影に暗い歳三の顔を見ないように、頭を下げる。

「すみません、もうお帰りですか」

「ああ。お前、もう帰れるか?」

「えっと、まだちょっと、片付けとかが残っているので、どうぞお先に──」

「いや、稽古場にいるから、支度が出来たら来なさい」

 帰り道での説教が確定したと思ったのだが、道中の歳三は速足ながらも、その背中は怒っているようには見えない。説教はなしかと安堵した。

 あちこちから、甘い醤油の香り、焼ける魚の匂いが漂い、人々は店仕舞いや、帰路に着き忙しい。駆けて遊ぶ男児の四、五人とすれ違った。千歳が思わず目を取られていると、昨晩の夕食時のような柔らかな口調が話しかけてきた。

「斯波くんに英語、教われたかい?」

「あ……はい」

「何を教えてもらったんだね?」

「……作文の決まりとか、です」

「そうか、良かったな」

 居心地が悪く、胃まで痛むような気がする。執務室にて「仙之介」に指示を出す歳三は、もっと無愛想で必要最低限の要件しか述べないはずだ。

「なぁ、お前、さっき三浦くんの着物着てたが、譲り受けたのか?」

「いえ、少し借りただけです」

「着物、足りてるか?」

 案じるように振り返られては、二階の箪笥に仕舞い込んだ片喰かたばみ紋の振袖が思い出されて、千歳の口調は強くなる。

「墨に汚れて洗ってたんです。替えを置いておかなかっただけですから」

「そうか」

 その後は、菅大臣の家に着くまで、言葉が交わされることはなかった。


 夕食の間も、千歳は歳三から投げかけられるどうでもいい質問にいくつか答える他は口を開かず、食べ終えれば早々に食器を洗い、自室へと引き上げた。

 行燈を点けて、文机に寄せる。大きく息を吸って気持ちを落ち着かせてから、斯波からの冊子を開いた。


──All the world’s a stage, And all the men and women merely players: They have their exits and their entrances; And one man in his time plays many parts.

 (この世はひとつの舞台、人は皆役者。彼らは、それぞれ出番と引きとがあり、そして、人生のうちで何役も演じる)

 

 いつか、四条大橋の上で、自分は自らが生み出した酒井仙之介という役を演じなくてはいけないのだと考えた。歳三とは関わりのない仙之介でなければ、八木邸に置いてもらうことができず、生きる術もなかった。しかし、昨晩の歳三は、自身が父だと、確かに言ったのだ。仙之介たる役名はもう必要ない。

 けれども、一年半を経た千歳の心はもう完全に「仙之介」となってしまっていた。

 千歳は近頃、自分が「千歳」である方がおかしいような気がするのだ。皆が仙之介と呼び、自分も仙之介として振る舞い、恋もする。ごく自然に、少年として過ごしている。

 それなのに。着物の合わせから手を差し入れる。表着、襦袢、前面に厚く綿を縫い当てた帷子。その下には、僅かな膨らみがある。指先に力を込めれば、薄い脂肪に包まれたしこりは鋭く痛んだ。

 身体も状況も、千歳へと戻れと訴えてきている。仙之介の登場は、この先には用意されていない。

「わかってるよ……」

 悔しさに声が抑えきれなかった。

 自身の定めを理解しているからこそ、千歳は可能な限り抗いたかった。一度でも役を降りたなら、二度と「仙之介」としての舞台には上がれないとも、わかっているのだ。


 翌朝、新編成の名簿が張り出され、新撰組の各組、各部署には新入隊士と幾人かの転属者が迎えられた。

「勘定方は、医薬方ば兼ねとるばってん──」

 業務を説明する尾形は、飾り棚の下から薬箱を引き寄せ、開けて見せた。二層の箱箪笥の上段には薬の分包が詰められ、下段には金創へ対応する包帯や脂薬があった。

「こいは胃薬。熱冷まし。あと副長がご在家の万能薬、風邪にはこの散薬ばい。薬ば渡した隊士が名ぁは、台帳に記しとくと」

 側面に提げられた帳面を指先で弾くと、薬箱を再び飾り棚の下へと戻す。

「薬は上、天袋に在庫のあっと。分包は気付いたら補充してくれ。さ、そいじゃ本業、算盤ばい」

 尾形は天袋の中から算盤を三丁取り出すと、新たなる勘定方へとひとりずつ手渡した。

「三浦くんは砲術家ばってん、暗算もお手のもんたいね。よろしく頼むぞ」

「頑張りまぁす」

「──はい、斯波くん。斯波くんも蘭塾出身じゃで加減乗除なごたぁ、恐るることもなかろうがい?」

「いやぁ、はははは。随分と久しぶりですからねぇ」

「良かよか、心配いらん。──はいはい、では酒井くん。君、算盤は如何程のもんとや?」

「お、お役に立てるか……あの、加減しか出来ないんですが、私」

「良かよか、君が根性ばありよるとは知っとっと。三浦くんが鍛えてくれるばい」

 なぜ千歳にも算盤が割り当てられるかというと、啓之助によって小姓部屋の文机がふたつとも勘定部屋に移されてしまったからだ。

 歳三に怒られる、仕事を押し付けるつもりだろうと抗議しても、啓之助は取り合わない。

『だって、俺、月末だろうと局長がお出かけなら付き従うんだよ? お仙くんがいた方が安心だし、君も今までだってお手伝いしてたでしょ? それに、良いの? ひとりじゃ寂しくない? こっち来たら、斯波先生とお隣さんになれるんだよ?』

 相変わらずの弁舌に丸め込まれて、千歳は斯波と共に勘定部屋へと迎えられることになったのだ。

 帳簿の見方、予算の算出法、給与の付け方など一通りの説明を受けて、斯波が早速に新入隊士の隊服作製の予算を計上する傍ら、千歳には啓之助が付けられて、算盤塾がなされていた。

「でも、九九は出来るのに、割り算は寺子屋でやらなかったの?」

「だって僕、そんなに行ってなかったもん」

「あー、そっか。まぁ、大丈夫。例えば、そうだな、隊士ひとり当たりの給与が三両、掛ける……八十六人だとして……三八で二十四、三六が十八」

 算盤へと伸ばされた手が、あっという間に珠を弾いて、答えは二百五十八だと出してしまった。千歳はすぐに盤面を戻す。

「待って、もう一回やって! まず、最初の三はどこ?」

「掛けられる数は、算盤には置かない。覚えておく」

「えー、じゃあ、つまり……三掛ける、八十と六と、それぞれの答えを順に置いていくわけか?」

「左様、結構なご理解でございます」

「出た、象山先生」

「だから違うって」

 啓之助がたまに見せる講師口調は、象山の真似に違いないと千歳は睨んでいるのだが、指摘するたびに啓之助は断固認めなかった。


 昼食後には、総司直々の稽古へと引きずられていく啓之助に、さらに引きずられて、千歳は啓之助と共に総司の特別稽古を受けることになった。けれども、千歳と一緒ではやはり啓之助が本気を出さないからと、早々に同伴をクビになる。勘定部屋へと戻ると、尾形と斯波はそれぞれ、講義の支度をしていた。

 斯波は二十五歳、最年少の文学師範で、尾形も二十六歳、二番目に若い漢学教授だった。千歳が算盤の復習をしようと席に着くと、尾形が思い付いたように手を叩いた。

「斯波くん、講義の出来は準備が九割たい。生徒役ば置いて練習してみらんとや? ちょうど良か子ぉば、ここに暇しよっと。なぁ、酒井くん」

「え、はい」

「生徒役」

「そ、そんな、僕なんかじゃ……」

「何がどうわからんか、詳しく教えてやれ。そういう素の質問、講義中にぁ、なかなか拾われんけん」

「ぜひとも頼むよ、仙之介くん」

 謙遜に辞退したが、斯波からも直々に願われたなら、千歳は断る理由がない。算盤の復習も忘れて、喜んで文学部屋へと連れ立った。

 八畳間には、各国の国旗絵図や星図、宇宙図までもが広げられていく。その中の一枚、世界地図が目に留まり、手許に引き寄せた。海軍操練所にあった大きな一枚では、日本は図面の右端に描かれていたが、これは大西洋が切り分けられて、図面中央に日本が位置していた。

「珍しいですね、FarEastの島国が、世界の中心にあります」

「太平洋航路だね。主人はここを使っていたから、俺にはこの地図の方が馴染みあるかな」

「先生のご主人、本領はどちらだったんですか?」

「ケンタキ州、ここだ。特産は綿花と煙草」

 斯波の指先が静かに滑り来て、薄紅に色付く国土の内陸部を指した。

「ここで作られた煙草が、日本にまで?」

「そうさ。荷馬車に詰められて、西の果て、サン・フランシスコ、この港まで。さらに海を渡って、横浜と上海に。空になった船には茶の葉を積んで帰るのさ」

「商いは、本当に遠い国々を繋ぎますね」

 ふと坂本を思い出す。会社companyを創ると言っていた土佐言葉の大男は、今どこにいるのだろう。

「……先生、商いと戦争は、どちらが勝りますかね? 利益が生じる限り、盛んな商いは戦争を抑える力となりうるでしょうか」

「ふむ、なるほど。おもしろい疑問だ。たしかに、商いは人々を交流させるから修好につながる。だが、一方のみに利のある商いは、戦争を引き起こす原因になるからな」

「あー、まさに我が国、というか長州が、それに起因して戦争吹っかけてたこと忘れてました。friendship は難しいですね」

「そうだな、利益が生じると人間は欲を出してしまうから」

 斯波はそのまま腕を組んで宙を見上げると、二、三言を口の中でつぶやいてから、千歳へと向き直った。

「初回の講義は、色々迷ったけれども、やはり世界というもの──思想とかを抜きにして、ただ実際の土地としての世界を扱おうと思う」

「えっと、地理学の知見ってことですか?」

「そう。じゃあ、地理学からじゃない、思想のある世界の見方って、なんだと思う?」

「し、思想……? だから、例えば、仏典の説く亀と蛇の世界とか、支那の天文でいえば四神とか?」

「あとは、『記紀』とかも。論証できたり、算法で証明できたりしないのならば、科学ではない。つまり、存在を認められない」

「なら……」

 亡き母は、兵馬は。死んだなら幽冥界から皆を見守りたいと言った敬助は。芹沢は、志都たちが見えると言ったが、やはり慰めに過ぎなかったのか。祈りは届かないのだろうか。

 言い淀みを遠慮と見た斯波が、質問を促す。

「いいよ、聞かせて。それが、君の役目だろう?」

「……はい」

 なるべく、感情を乗せないように。学問としての純粋な疑問として。

「その……幽冥界も、ないんでしょうか?」

 けれども、目が潤んでいたことは誤魔化せなかったようで、斯波は、いくらか困ったように視線を逸らし、口許に手を添えて考え込んでしまった。

「あの、すみません。その、明日は伊東先生の講義で、先生、篤胤先生のこと、やるって言ってらしたので……」

 千歳が手を方々に振って取り繕うと、斯波も仕切り直すように自身の膝を叩いた。

「言い直そう、学問としては、わからないことのあるなしを断言すべきでない。けど、俺自身、ひとりの人間としては、あってくれたらと思うかな」

 他者への配慮と学問への誠実さとが垣間見える微笑みだった。千歳は己の未熟さとを引き比べて、とても恥ずかしくなる。

「そういう……論じる立場というか、前提の切り替えって、難しいです。僕、ひとつの見地からしか物事を考えらませんもん」

「そうだな。自分、自我から離れることは、どうしても難しい。だからこそ、それが難しいと気付けたことは、すばらしいことだ。自分を知り、しかし、自我に捉われず。普遍を求め、相手を理解しようとすること。自分との付き合い方も、人付き合いも国付き合いも、結局はこれが大事になるんだろうな」

「……もう一回言ってください、書き留めておきますから」

 せめて字ばかりは綺麗に書こうと、斯波の優しくも冷静な声の一音ずつを帳面へと写した。

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