二、師範

 勘定部屋の東隣り、資料保管室である六畳間は、千歳と啓之助とは文机を並べて過ごす小姓部屋でもあった。

 千歳は墨を磨りながら、歳三からの指示書きに目を通す。新入隊士名簿と、新入隊士を含めた全隊士の名簿とをそれぞれ清書して、執務室へ提出すること。加えて、勘定部屋にはその写しを、隊服の見積書も添えて渡すこと。

 啓之助への指示としては、新入隊士の隊服に入れる家紋を調べておくこと、砲術師範となる清原清という新入隊士に、砲術蔵の鍵を渡し、中を改めるように伝えることと、ふたつあった。隣の文机を見遣れば、何やら熱心に書き記している。

「三浦くん、今、何書いてる?」

「弥生にお文」

「おい、お主。仕事じゃ、家紋を調べて参れ」

「墨が乾くもん、あとでー」

「あのねぇ──」

「弥生が寝付いてるの。花柳病、わかる? 熱がさ、下がらなくて」

 千歳の小言を受け流す啓之助が、ようやく書き上げたころには、千歳も新入隊士名簿を書き終えていた。

「三浦くんのために、時計が欲しいね、このお部屋。お座敷みたいにさ、はい、お時間ですって」

「やめてよ、それ、義母かあさま思い出す。洋時計を便利な子守番と思ってるんだよ? なんにもわかってない」

 啓之助は伸びをすると、家紋、家紋と口にしながら部屋を出て行った。硯は墨が入ったまま。鍵の一件も説明していない。千歳は口の中で文句を言いつつ、書類仕事を終えて、ふたり分の硯と筆を洗いに出た。

 蔵の隣、井戸端で洗う最中、臙脂色の着物に墨液が跳ねてしまい、啓之助へと八つ当たりする。千歳は袴を脱いで長襦袢姿になり、振袖を洗った。

 見上げる空は、梅雨の曇天。千歳は小石を拾うと、振袖を掛けた物干し竿の足下に、てるてる坊主を描いた。かわいく描けたことに気を良くして、さらに、


I hope it will be a fine wether. It often rains these days.

 (お天気になりますように。最近は雨がよく降ります)


と書き付けると、満足して書院棟へ帰った。替えの着物や稽古着は持ち込んでいなかったので、詫びを入れつつ、啓之助の行李から一着借りる。白檀の良い香りがした。


 勘定部屋から鍵を借り、集会堂へ渡る。堂の東寄りが新入隊士の配置となっていたが、そこは半裸や稽古着のまま倒れる新入隊士で溢れており、近寄りがたい様子だった。

 千歳は庇の欄干にもたれて本を読む一番年若そうな少年を見つけ、手前に膝を着くと声をかけた。

「すみません、清原さんを探しています。呼んでもらえますか?」

「……君は、ここの隊士?」

 一六、七歳の小柄な少年は、怪訝な顔で千歳を上から下まで見た。薫香漂う良い着物をまとった細身な子どもを、隊士と想定しないのは当然だろう。

「副長お抱えの者で、酒井仙之介と言います」

「失礼、酒井くん。小林桂之助けいのすけだ。清原さんね、呼んで来るから待っていて」

 小林は本を閉じて立ち上がり、堂内へ入っていった。千歳も柱と並び立ち待っていると、帳面と矢立を手にした啓之助が近寄って来た。

「どうしたの、着物」

「すまない、お借りしたよ。墨、飛ばしちゃってさ、干してる最中でして」

「良いよー。あ、いけねぇ、硯」

「僕がやっておきました。で、君の硯洗ってるときに跳ねたの、袖」

「あははー、ごめんー」

「あとこれ、蔵の鍵」

 突き出して、清原を案内するよう説明すれば、啓之助は勢いよく受け取り、鍵を軽く手の内で弾ませる。

「よし来た! 昨日さ、清原さん探し出してお話聞いたんだよー。大砲もやるけど、得意は小銃。本当、よく知ってるし、鉄砲大好きだし、藤堂さんには感謝だな。やっと武田先生の調練が終わる!」

「おい、あんまり大きい声でなぁ──」

「あ、清原さぁん!」

 小林に連れられて来た清原に対して、啓之助は礼ではなく、手を振って迎えた。清原も手を挙げ返し、元気だなと軽やかに笑う。背は高いが大人し気な、よく焼けた壮年だった。

 ふたりを見送り、小林に礼を述べると、千歳は表庭に降りた。正門の詰所まで行き、番役の隊士から文箱を預かる。隊や隊士宛ての書状が投げ入れられる文箱は、昼前と夕方の一日二回、監察部屋へと持ち込まれ、検閲が行われるのだ。

 表座敷の監察部屋へ上がり、山崎と共に文を選り分ける。検閲といっても、送り主を確かめるばかりで、開封まではしない。隊士個人宛ての文を除いて、領収書の類いは勘定部屋へ、残りを三長の執務室へと運ぶ。浄土寺からの文があるかと身構えていたが、この集荷分にはなかった。


 昼食後に物干し竿を確認しに行ったが、臙脂の振袖はいまだ乾いていなかった。曇天も相変わらずで、てるてる坊主を書き足しておこうかと足下に目を遣ると、先程書いた英文の側に見知らぬ筆跡で新たな文が書き出されている。

 しゃがんで見れば、「a fine wether」の上に、「close, but weather」とあった。

「クローズ、閉じる──いや、近い……惜しいってことか。weather だったもんな、正しくは」

 千歳は少し悔しい思いで、礼を書き足す。


Thank you for teaching me


 しかし、誰だろうか。清原かとも思ったが、小姓部屋に戻るとすぐに、啓之助から隊服の見積書を手伝うように頼まれ、尋ねられないうちに、執務室からは新たな隊編成の下書きが持ち込まれる。書類を提出し、確認を受け終えるころには、空はすっかり晴れて、夕映に赤らんでいた。

 千歳は硯と筆を携えて、再び蔵脇の井戸へと洗いに出た。物干し竿では、臙脂の振袖が乾いた音を立てて、風に吹かれる。

「……結局、あれ誰なんだろう」

 自身の影に暗む英文を見下ろすと、そこにはさらに新たな一文が書き込まれていた。


By whom have you been taught English?

 (君は誰から英語を教わったの?)


 千歳は硯も筆も置き去りに、胸の高鳴るまま、執務室へ走った。新入隊士の中に英語を使う者がいる。しかも、修練度の高い者が。

 枝折戸を開け放ち、表庭を駆け抜けて、奥座敷の廊下へと上がれば、ちょうど近藤が退出するところで、驚いたような笑顔で千歳を迎えた。

「どうしたね? 走るものではないよ」

「申し訳ありません、あの……!」

 息を弾ませて、そのまま用件を口にしようとするのを制して、近藤は入室を促した。執務室には、にこやかに振り返る伊東と、筆を持ったままに小言の数々を顔に浮かべた歳三。千歳は廊下に正座して一礼すると、歳三を視界に入れないように、伊東を見据えた。

「割り入りまして、失礼いたしました。私、あの、お尋ねしたいのですが、新入隊士の中に、もしかしたら、英語を得意とする方がいらっしゃるのではないかと思いまして、えっと、ご存知ないかと思いまして……」

「ふふっ」

 口許を隠した伊東が、思わずこぼれたような笑い声を挙げたので、千歳は耳が熱くなるのを感じ、重ねて詫びを入れると同時に、頭を下げた。伊東は笑い声を抑えながら答える。

「いえ、かまいませんよ。君は、そう、英語をやりましたものね、先に伝えてあげるべきでした。ええ、新しい文学師範の斯波良作しばりょうさくくんです。横浜のメリケン商館に勤めていたから、よくできます」

「わかりました、ありがとうございます! ──近藤先生、お気を付けてお帰りください、失礼いたします!」

 額が床板に打つかるほど勢いよく礼をした千歳は、再び庭へと駆け出た。近藤と伊東が温かに笑い合う声も、落ち着きないとため息をつく歳三の小言も、聞こえていなかった。


 白洲を跳ね上げて、集会堂の軒へと走り寄る。欄干にもたれて本を読む小林を見つけると、呼びかけた。

「ごめん、小林くん、たびたび。あのさ、斯波良作先生って、どなたかご存知?」

「君は僕んこと、呼出役だ思ってんな?」

「すまぬ、木村庄之助殿」

「それは、行司だべ」

 小林は笑いかけると、堂の中へと入っていった。千歳は背丈程の高さにある縁側の端に手を掛けて伸び上がり、談笑したり、将棋を指したりと銘々に仕事終わりを過ごす隊士たちを割って進む小林の背中を、落ち着かずに目で追った。

 清原や武田のように鋭い眼光をした学者顔の壮年者を想像したが、意外にも、小林が声をかけた隊士は、斎藤と変わらないくらいの青年だった。白絣に藍の襟をしっかりと閉め、黒髪は均整な髷に結い上げる。眉根には理知に富んだ慎みが見えた。

 斯波の歩み来る足音に、千歳は身体の重心が迫り上がってくるような緊張を覚え、思わず後退る。斯波が欄干に手を掛けて、千歳を見下ろした。

「どうも、斯波ですが」

 少し籠った低い声には、東北の色があった。微笑みを向けられても、千歳にはぎこちなく頭を下げ返すことしかできない。耳許にうるさい心臓の響きを消すように、大きく息を吸って、斯波の大きな玉の目を見上げる。

「斯波先生、Nice to meet you」

 斯波は一瞬の驚きに見開いた目を、すぐに喜びに細めて、欄干から身を乗り出す。

「What is your name?」

「My name is 酒井仙之介」

「仙之介?」

「はい」

「そうか」

 斯波は鷹揚にうなずくと、欄干に右手を添えて、千歳の目の前へと飛び降りた。深い着地から立ち上がった斯波の背丈は、やはり見上げるほどだった。剣ダコの浮かぶ大きな掌が、差し出される。千歳が戸惑いを見せると、

「Take my hand」

とさらに促した。斯波の硬い手が、千歳のあかぎれた手を包んだ。緊張の中で斯波の目を見れば、溢れんばかりの歓迎に満ちていた。

「I am glad to meet you, Sennosuke. And I never expected I would speak English with you!」

 (はじめまして、仙之介くん。まさか君と英語で話せるなんて、思ってもいなかったよ!)

 速すぎて聞き取れなかったが、斯波に揺らされるまま、右手が上下するたびに、緊張が解けていくのを感じていた。


 仙台にて小野一刀流を修めた斯波は、蘭学を学ぶため医者を志し、十七歳で江戸に出た。横浜開港にさいして、英語を学ぼうと塾を抜けて、異人街へ潜り込んだ。前の雇い主に拾われたのが、二十一歳のころで、以来、用心棒と通詞を兼ねていた。

「──主人は、煙草を扱っていたさ。端から端まで、一日歩いてもたどり着かないくらい広い農園を持っているなんて言っていた」

 斯波の薄い目蓋は、西日を受けてまぶしげに細められる。その目尻の皺にも、垣間見える東北の平坦な発音にも、千歳は親しみを覚えた。ふたりは縁側を支える貫木に背を預けて、基壇の縁に腰掛けていた。

「その畑が、戦争で荒れてしまってね。商館は閉じることになったんだ」

「戦争ですか、どこと?」

「内乱だ。禁門の変の比ではない、百万対百万の軍勢が、国を二分して争っているんだ」

「何を巡ってです?」

 千歳が矢立と帳面を出すと、斯波は少し考えてから、アメリカの南部は農業が、北部は工業が主産業だと述べ、ゆっくりと説明を試みた。

 農業奴隷と対外貿易。南北は、このふたつの在り方で利害が一致しない。南部は奴隷を維持したいが、北部は廃止を目指す。南部は自由貿易を行いたいが、北部は保護貿易を行いたい。

「奴隷とは小作人と考えて良いのですか?」

「小作よりも下、牛馬と同じさ」

「広い農地……だから、それを保つには、奴隷が必要なんですね」

「そうだ。一方で、北部は工場が盛んだ。蒸気船は見たことあるかい? ──うん、機織り機も製鉄の機械も皆、蒸気で動くから、奴隷に頼る必要はないんだ」

 工場の機械化によって、求められる人手は教育と訓練を受けた工員へと変わった。人権意識の高まりもあり、北部で奴隷解放運動が起こったのだ。

「では、もうひとつの自由貿易? とはなんですか?」

「運上所、あるだろう。異国からの品を荷揚げするところ、運上金を支払わせる」

「はい、港の関税ですね。確か二割です。食品は五分で、酒は三割五分」

「よく知っているね!」

「三浦くん──局長の側勤めですけど、お酒も食品だから五分に下げろって言ってました」

「俺もその意見に一票。もう少し気軽に葡萄酒を呑みたいものだよ。関税があるために、舶来品は値が高くなる。しかし、対して、関税の利点、保護貿易の利点とはなんだい?」

「税収源になる。あとは……安い海外製品が、国産品の……」

 千歳はここで言い淀むが、斯波は目を輝かせて、続きの言葉を待つ。千歳の鼓動は速まるが、思考は落ち着いていた。

「安い海外製品が国内に入り込むと、自国産の製品が売れなくなる。そこで、差額としての運上金を上乗せすることで、商いの均衡を保つことができます」

 蔵の側で干されている臙脂色の振袖は、歳三によって買い与えられた和泉木綿の品だ。あのときも、主人は洋物の品が安く入ってくると言っていた。

「日本でも、布が……えっと、英国製の綿布は安い、です。僕たち買い手は、南部の言い分。安い方が当然良いから、運上金は下げて欲しい、自由貿易を求める。だけど、例えば河内や和泉の人たちからしたら、関税をなくされては困る、これが北部。売り手を守る、保護貿易」

「ああ、そうだ。すばらしい」

 褒められて、千歳の顔は赤くなった。誤魔化すように、帳面を書き付けていく。斯波が重ねて熱心なことを褒めた。

「君は、英語も勉強しているし良いね。そう、重要なのは、相手を知ることだよ。憎まず恐れず、相手を見極める目が必要さ」

「……先生はそれが攘夷に繋がるとお考えなんですか?」

「え?」

「あ……」

 思わず顔色を伺ってしまった。しかし、斯波の目には、確かに動揺も浮かんでいたが、千歳に対して構えるような警戒は見て取れなかった。千歳は一層強く、斯波の目を見る。白洲の照り返しに赤い目に、自身の影が映っていた。

「僕、攘夷とは、異国の技術を取り入れて、我が国を強くすることだと思います。国同士の駆け引きに負けないくらい、強く」

「うん、俺もそう思う。学んで、取り入れて、自立を守って。だけど、何も異国とは、すなわち敵というわけじゃない。あちらの国でも、民が暮らしを営んでいる。俺は、彼らとfriendship を得られるとも思っているよ」

「異国の friend ですか」

「俺にとっては、前の主人がそのひとり目さ」

 はにかんだような笑顔を向けられて、千歳はこの若者を自らの師範となすことを定めた。

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