手に負えぬimpulsion

一、帰京

 初夏は過ぎて、梅雨が来た。弱い雨の降る昼過ぎ、本願寺北西の一角を占める新撰組頓所には、太鼓の音が高らかに響いた。一月半前に東下した副長一行が、新入隊士五十余名と共に帰営したことを伝える。

 奥座敷を掃除していた千歳は、啓之助に雑巾を取り上げられて、集会堂への渡り廊下を引き連れられた。

「出しっぱなしじゃ怒られるって!」

「みんな、それどころじゃないさ。いやー、どんな人なんだろう、清原清きよはらきよしさん。父さんとか山本先生とおんなじ、江川塾に学んだとなれば、これは期待できるよー」

 藤堂の伝手で得た新たな砲術師範の存在に、啓之助は浮き足立って落ち着かないらしい。

「わー、いっぱいいるなぁ。お仙くん、あの中の誰だと思う?」

「指を指すなったら!」

 下げさせた指先には、二百畳敷きの板の間の東端、井上と島田の指揮で荷解きを行う新入隊士たち。揃って武張った顔立ちの若人だったが、中には壮年の風格を持った人物もいる。

「え、ちょっと俺、確かめてくる!」

「はいはい」

 群衆の中に突き進む啓之助を、千歳はもう止めはしなかった。

 新入隊士を見物する幾十人もの隊士たちの間には、佐野や加納たち伊東道場の同門に囲まれる藤堂の姿もあった。額にあった包帯は今は取れて、眉間から左の生え際に白い一文字傷が浮く。加納に見せつけると、もう女顔とは言わせないと得意気に語っていた。

 千歳は人垣を掻き分けて、同門生の端に立つ五郎の隣へ寄る。

「やあ、五郎くん」

「君もご挨拶?」

「うん、お礼もね。He has brought me a friend」

 (彼は、友人をもたらしてくれた)

 千歳は悪戯っぽく返した。顔を見合わせながら、声を抑えて笑っていると、ふたりの仲良しさを初めて目にした藤堂が、

「これが、斎藤くんの言ってたやつかぁ」

と何度もうなずいていた。

 五郎は気不味く顔を逸らすが、千歳は素知らぬ顔で、藤堂に向き直る。今後よりは、からかわれても毅然と返すと決めているのだ。

「魁先生。この度は長のお働き、まことにご苦労さまでございました」

「ほぅ、男子三日会わざれば刮目して見よと言うけれど、酒井くんも立派に──あれ? ちょっと真っ直ぐ立ってくれ……」

 千歳の背後にまわった藤堂は背中合わせに立ち、どちらが高いか五郎に尋ねた。

「えーと、どうでしょう、佐野さん。若干、仙之介くんの方が……」

「そうだなぁ、若干だけど……酒井くんの勝ちだな」

 千歳はパッと顔を輝かせて拳を握るが、藤堂は手で顔を覆ってうなだれた。

「馬越にいじめられてベソかいてたお仙坊が、大人になってるー!」

「い、いつの話してんですか、やめてくださいよ!」

 一年以上も前の話を持ち出され、千歳の毅然さは崩れ去った。


 雑談はしばらく続いたが、巡察や稽古に抜けて次第に輪は小さくなる。千歳も書院棟に戻ろうとしたところで、藤堂に呼び止められた。敬助の墓参を請われ、ふたりは傘の下で黙ったまま、壬生への道を歩いた。

 境内の隅、黒々と雨に濡れる墓石へと手を合わせ、肩を震わせる藤堂を残し、千歳は本堂の階段に腰を下ろした。軒先では巣立ちを目前にした雛たちが狭そうに肩を寄せ合う。燕さんと呼びかける敬助の優しい声は、千歳の耳にまだ残っていた。

「お待たせ」

 鼻先を赤くした藤堂が呼びかけた。千歳は首を振って立ち上がり袴の裾を払ったが、藤堂は強まる雨足を指し、雨宿りをしていこうと言って隣に座った。千歳は、ひとつ間を空けて座り直す。いくらかの沈黙が過ぎて、藤堂が若い燕たちを見上げて言う。

「燕は、大人になるのが早いな。人間は二十年生きて、やっと半人前……いや、半人前見習いってところなのに」

「……燕さんは、寿命五年くらいですから」

「寿命、ねぇ」

 尋ねたがるような目を向けられて、千歳は緊張の顔で見つめ返した。千歳だって知らない。藤堂に答えられるようなことは、何もないのだ。

 藤堂は首を振ると、すまなそうに微笑んだ。

「酒井くん、墓石の手配とか全部やってくれたって。ありがとう。お陰で先生とお別れ、ちゃんとできた」

 敬助の死が、現実と藤堂の認識とで一致したのだろう。千歳は未だに街中で似た背格好の武士を敬助と見誤るが、それも、すぐに墓石を思い出して、現実を再認識する。この繰り返しを経て、やがて千歳の中で、敬助の消えてしまったことが確定するのだと思っている。

 寂しさが胸を占めると、和やかに話せる相手が欲しくなる。千歳は八木邸へ挨拶に寄ることを提案した。

 母屋の奥座敷で、藤堂は源之丞に東国の様子を語った。庄内藩によって、江戸市中の浪士取締が強化されたこと、将軍が来月中頃には再度の長州征伐のために上洛すること。千歳も聞きたかったが、土間にて勇之助の双六相手に動員されていた。

 雨は降り止まなかった。話を終えた藤堂に為三郎が将棋を挑み、源之助が棋譜を録る。勇之助を昼寝させた雅が、お茶と煎餅を出す。千歳は、ここに迎えようと言ってくれた雅の温かさに、改めて感じ入っていた。


 夕方、伊東一門は連れ立って嶋原へ行ったが、千歳は共には行けない。歳三の旅の荷物を抱えて菅大臣の別宅へ帰った。雨に濡れながら、二月振りに風呂屋へ水を入れる。焚く間に、七輪にも火を入れて、白湯を沸かす。沸き上がるころ、歳三が帰った。

 着替えていないことを思い出し、叱られる前に歳三を早く風呂へやってしまおうと、千歳は七輪から顔だけを上げて迎えた。

「おかえりなさいませ。お風呂、どうぞ」

「お前、濡れてるな。先に入って良いぞ」

「平気です。僕には熱すぎますし」

「そうか。荷解きはしたか?」

「今からですが、何か出しますか?」

「土産がある、行李の中に。赤い袱紗に包んだ金平糖の瓶だ」

「わかりました。出しておきます」

「お前に、だぞ?」

「え……?」

 妙に穏やかな口振りで話す歳三が、玄関の間に腰掛けて、通り庭を見渡した。思わず千歳は七輪の側で直立する。

「私に……あの、お気遣いありがとうございます」

「うん」

 刀を脇に置いたままの歳三は、草履も脱がずに竈の辺りを見ていた。

「えっと……お腹お空きなら、配給、もうすぐ来ると思いますけれど」

「いや、そういうわけじゃない」

 歳三はしばらく何かを考える様子だったが、風呂の支度を抱えて、裏庭へ出て行った。

 夜は更けて、就寝の挨拶をすると、歳三より話があると引き留められた。千歳は説教の心当たりを数多く思い浮かべながら、台所の間に座る。初日から家に帰らなかったことは、近藤から聞かされているだろう。それか、國友村行きか。もしくは、この二月間の報告を求められるのか。

「変わりはなかったか?」

「ええ、はい……」

「今回、しばらく日野にいたんだが──」

 今までにないくらい柔らかな口調に、千歳の警戒は強まる。そんな雑談で呼び止められるわけがないのだ。予感どおり、歳三は府中にも訪れたと続けた。

「和尚さまにお会いしてきた。お前、何かお文は届いてないか?」

 千歳は浴衣の裾を握り締めながら息を吐き、平静さを保つように努めた。ついに、隊を出される。浄土寺へ返されるのだ。千歳は涙を堪えて、顔を上げる。歳三と目が合った。

「来ていません」

「そうか、内容を先に伝えておくが──」

 千歳が一筋涙を零せば、歳三の言葉は消えて、代わりに出かけた溜め息が飲み込まれる。しかし、今日の歳三は、それでも千歳の目を見定めて、ゆっくりと語りかけてくる。

「一年、俺が父としてお前を預かると、お話を付けてきた。その先も、お前が望めば京都にいて良いと。それから、これも預かっている」

 懐から出された書状は、読まずとも内容は記憶に克明な兵馬の遺言書だった。

 父に会いたいと何度も訴えたが、和尚は兵馬の方便に過ぎないと許さず、仮に本当であっても迎えに来なかった父など忘れろと諭した。その度に、兵馬が嘘を言うはずがないと泣いて和尚を困らせたが、京都に来て一年半、和尚は正しかったと納得せざるをえない。

「──俺のことは、無理に父さまと呼ばなくていい。これを奉行所に出すかどうかも、お前に任せる。だが、京都にいたいのなら、お前、娘の格好に戻りなさい。和尚さまとのお約束だから」

 迎えに来ず、会いに行けば、後見と言って血縁を認めはしなかったのに、今になって急に父親になると言い、しかし、それはお前の選択だと押し付ける。結局、歳三にとって自分は、喜んで迎え入れたい存在ではなかった。

 堪えても、涙があふれてきた。嫌いだ。何もかも。父であってほしかった師匠は、全く別の男を父だと示した。その男も嘘を受け入れて、父の顔をする。


『ねぇ、お母さま。お父さまいないのって変?』


 まだ七つのこと。寺子屋で父親の職業が話題になったとき、話に加われない千歳に向かって、幼くも残酷な言葉が投げかけられた。頬を赤くして涙を堪える千歳を、志都は優しく抱き締めた。


『千歳にもお父さま、ちゃんとおるんよ』

『だあれ? 兵馬先生?』


 志都は答えなかった。「ちゃんと」父親がいるとはどういうことなのだと、志都に問いただしたい。ちゃんといたのなら、今更、千歳に父親が現れるはずがないのだ。

 目の前の男は、哀れむように千歳を見ていた。

「何をそんなに泣くんだい、千歳」

 千歳とは誰だ。一度だって、歳三がその名で呼んだことなどない。望まれなかった子、愛してくれる者はもういない。

(嫌だ、嫌だ、嫌だ──!)

 膝前に広げられた書状をなぎ払った。荒い息のまま、浴衣の袖で乱雑に涙を拭う。

「おい、千歳……」

「千歳じゃ、ない──!」

 刺し殺す勢いで、歳三を睨みつける。今の千歳にとっては、歳三の困惑する顔が何よりも憎らしかった。

「仙之介に父親なんかいない! 父さまなんか、いらない! ──大っ嫌いだ!」

 廊下に飛び出す。離れ座敷の障子戸を開け放ち、二階へ駆け上がると、襖につっかえ棒を掛けた。桐箪笥から、着物を引き出して包まる。あの日、血に染まった辛子色の振袖は、いつの間にか染め直されて、血痕のくすみもない深い栗色に変わっていた。涙が滲むと、布海苔の磯臭さが立った。

 そのまま、板の間に眠り、目を覚ますと外は随分と明るかった。足音を殺して居間を覗いたが、人の気配はない。台所の間には、一人前の膳が用意されており、もう一人前は既に食べ終えて脇に寄せられていた。千歳は心を無にして食べた。

 歳三が関わると、平静を保てない。柔らかな態度に腹立たしさが抑えられない。気遣いさえ鬱陶しい。

 そして、自身の感情が噴き出したあとは、決まって自分のことが嫌になる。自分のことを嫌いにさせるような行動を取らせる歳三が嫌いだ。このうえなく嫌いだ。

 

 歳三の旅装束を洗濯し終えてから、千歳は重い足を本願寺へと向け、書院棟の裏玄関を上がった。廊下を曲がり、南庭に面して副長居室の六畳間、次いで執務室の八畳間。声をかけると、伊東が応じ、中へ入れた。前川邸のころと同じく、部屋には証文などの重要書類を入れた長持が重なり、文机が三つあった。

 歳三が千歳の顔を見ずに、机の端に書き付けを差し出した。

「仕事だ、今日中に頼む」

「承知いたしました、ご無礼いたします」

 千歳は低い声で答えると、すぐに部屋を下がった。世間話や仕事の説明を挟もうと思っていた伊東が拍子抜けして、

「何かあったんですか? 酒井くん」

と尋ねるが、歳三は澄ましたまま答える。

「お年頃なんですよ、十五ですから」

「あぁ、あの素直な子が、ねぇ」

「頑固者ですよ。気に食わなければ、口も利かない」

「おやおや、なるほど。わかりますよ、うちの愚弟も大変でしたから」

「三木くん? 彼こそ、穏やかなもんでしょう」

 歳三が振り返ると、伊東は神妙な顔で首を振る。

「あの子はもう、小さいころから、村一番の悪ガキと名高くてですねぇ」

 血の気の多さから、喧嘩が絶えなかった三木は、長じてからは飲酒を好んだため、品行はさらに悪くなり、養子先からも離縁されるほどだった。

「それでも、人は成長しますね、本当に。人並みの優しさと落ち着きを、まあ、得たようですから」

「彼は優秀ですよ、決して人並みなんかじゃ収まらない」

「恐縮です」

 伊東は兄の顔をして下げた頭を、上げながら忍び笑いを漏らした。

「失礼。酒井くんは口を利きませんか、ふふふ。おもしろい──ああ、外から見ている分には、ですけどね」

「困ったもんですよ、ええ」

「どうします? 酒と女に溺れて、アレな浪士と交わり始めたら。いえ、三木のことですけど」

 くすくすと笑う伊東の冗談に、歳三は苦笑いで返す。無愛想になるくらい、かわいらしいものだと、寝不足の頬を叩いて、仕事に戻った。

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