十四、未練

 将軍を老中の影響下から引き離した上で、公武一和と長州征伐を叶えるため、将軍上洛を叶えたい一会桑と、それを拒否する老中方との対立は、一会桑の退京という形で幕引きがなされるかと見えた。

 それが、三月終わり、朝廷側の強い意向が通り、将軍家茂の上洛が決まった。伴って、容保ら一会桑も京都に残留することになり、およそ二ヶ月続いた新撰組の帰属問題も、会津へと決した。

 安堵のなかで迎えた四月。改元がなされ、年号は慶応と改められた。藤の咲きだすころだった。

 同じころ、歳三と斎藤は江戸へ到着した。文久三年の春に発って以来、二年振りの故郷だった。市谷の試衛館では、近藤の養父である先代や、門弟たちが歳三の帰還を待っているだろうが、歳三たちは、市谷とは城を挟んで反対側、深川の佐賀へ向かった。今は閉鎖された伊東道場を拠点に隊士徴募を触れてまわる伊東と藤堂へ、まず会いに行くのだ。

 隅田川に架かる永代橋で、歳三は重たい足を留めて、潮風に吹かれながら、江戸湾を行き交う船を見た。隣を歩いていたはずの歳三がいないと気付いて戻って来た斎藤が、欄干にもたれて言う。

「だから、先にあらましだけでも、文で伝えておきましょうって言ったじゃないですか」

「こういうことは、対面して説明するもんだろう。文面だけで、済ませられるか」

「そりゃ、そうですけど。なぁ、土方さん。気が重いってんなら、俺から言いますよ?」

「そこまで、世話にはなんねぇよ」

 歳三はため息と一緒に、欄干から手を離し、脚を進めた。

 敬助と伊東道場で待つふたりとは、同門だった。伊東と敬助とは学士同士よく交わり、藤堂は敬助を兄と慕っていた。ふたりが側にいれば、思い悩む敬助の心に気付き、支えとなっていたかもしれないし、また、ふたりもそう悔やむかと思うと、自身の不甲斐なさが込み上げる。

 結局、新撰組は京都へ残る。天狗党の助命嘆願は、越前侯春嶽が行ったものの叶わず、武田耕雲斎の妻子や幼い孫までも処刑された。ならば、隊の存続か、天狗党の助命かと、天秤にかけさせるようなことをせずにいれば良かったと、歳三の中には後悔が生じていた。敬助が求めたのは、結果ではなく、行動そのものだったのだから。

 伊東道場の裏門を叩くと、すぐに藤堂が出て来て長旅を労いつつ、歳三たちを引き入れた。座敷に上がると、伊東が自ら茶を運び、歳三たちの前に出した。百五十坪はあるだろう屋敷地内に人の気配は、この部屋の四人と、厨に残る若い下男ひとりだけだった。

 着座するなり、伊東は離縁に関する一連の報告と謝罪を述べた。歳三が隊として咎めるつもりがないことを伝えると、伊東は頭を下げて礼を示した。

 歳三は、屯所の移転や、京都の情勢を話してから、敬助の死を伝えた。伊東も藤堂も言葉を失い、目を潤ませた。しかし、歳三はただ遣るせない話のみを持ってきたわけではない。

「──伊東さん、平助。どうか、山南さんの分まで、新撰組とこの国の行く末とのために、力をお貸し願いたい」

 深く頭を下げる。この人の分までと、残された者たちは奮い立たせ合って、例えそのときは無理やりにでも、前に進んで行かなくてはいけない。応じて、ふたりも手を着き返す。

「土方くん。我ら及ばずながら、力を尽くして参る所存でございます。向後とも、日本国のため──」

 伊東はそこで、涙に言葉を詰まらせた。藤堂がゆっくりと息を吸って、言葉を継ぐ。

「日本国のため、新撰組の一員として、共に働く覚悟を、今、新たにいたしましてございます」

 悔しさや無力感が怒りへ変わり、組織へと向かう前に、悔しさを結束のために用いる。そのために、嘆きに任せた素直な弔いを口にする機会は、伊東たちから奪われた。歳三は心の中で幾重にも詫びながら、敬助の死を利用するのだった。

「伊東さん、あなたには山南さんの跡を継いで、副長職に就いていただきたい」

「私などでは、到底務まりません……」

「近藤さんとも話したんです。山南さんの跡目を継げるのは、学識にも人望にも秀でたあなたしかいない」

 伊東はなおも二度辞したが、三度目には、副長職に並ぶのではなく、副長補助の役ならばと受け入れた。


 その日は、伊東道場に宿を取り、翌日に揃って試衛館へ出向くことになった。

 夜、歳三が寝る前に厠へ行こうと庭に降りると、奥座敷の縁に伊東が行灯を出して座っていた。縁から脚を下ろし、その視線はわずかに花の残った桜の木へと向けられていた。

 歳三が歩み寄ると、伊東は目元を拭ってから、歳三に微笑みかけた。

「花はもう終わりですね。名残と思って。どうです? 君も」

 伊東は杯のふたつ用意された盆を指して、歳三へ座るように促した。歳三は一礼してから、盆を挟んで伊東と並んだ。伊東が歳三へ杯を持たせ、銚子を傾けた。

「君はあまり呑まないと聞いたけれど」

「ええ、何か機会がなければ、わざわざは呑まないですね」

「そう。では、今宵はその機会ということで」

「謹んで」

 これが、伊東の弔いなのだ。歳三は伊東と共に乾杯した。

 夜風はまだ寒かった。歳三は伊東を横目に見た。頬の辺りが少しやつれ、目元には影が浮かんだ。視線に気付いて、伊東が苦笑いする。

「恥ずかしい、平気ですよ」

 歳三は何とも答えられず、目を逸らしてしまった。五日の月は既に軒に隠れ、庭の桜は、葉陰が満開の姿にも見える気がした。

「きれいなものでした。毎年、お花見をしていました、皆で」

「そうですか」

「君は、和歌は詠みますか?」

「和歌は……あまりかな。俳句は少し、あと漢詩も」

「どうも僕はね、感情に浸るときには、歌が浮かんでしまうんだ。見てやってくれたまえ」

 伊東は側の硯箱を開けると、中から歌を書き付けた懐紙を差し出した。


──────────


真心のもとの色香のかわらずば

 立ちかへり来ん春に会わまし


国の為おつる涙のそのひま

 見ゆるもゆかし君の面影


いかにせん都の春も惜しけれど

 馴れしあずまの花の名残りを


──────────


 心変わりがなければ、再会できていただろうに。国事に奔走する合間に、あなたと逢引できる喜び。華やかな都の花も良いが、親しんだ東国の花も良い。

 いずれも、恋の歌に見せつつ、妻子を詠んでいる。愛し合っていたはずの美津と、いつの間にかすれ違っていた悲しみ。娘への愛。妻子と過ごした家屋敷にひとりでいる寂しさ。未練の塊に思える内容だが、伊東にとっては、詠うことで供養となり、執着ではなくなるのだろう。

「馴れし東の……」

「ええ、『花や散るらむ』では、なかったんです」

 本歌は、能曲『熊野ゆや』。平宗盛に寵愛される白拍子の熊野は、東国の母が危篤との報を受けていた。それでも、熊野を離さない宗盛に対し、平忠度が彼女の心境を代わって歌ったものだ。

 「馴れし東の花や散るらむ」と、美津より報された伊東は、江戸へと走ったというのに。

 伊東は離縁に至った経緯を改めて話した。三木から聞いた話では、伊東が美津へ離縁を言い渡したことになっていたが、伊東によれば、離縁は美津から申し出たことだという。

「僕はまさか、妻に嘘をつかれるなどとは思ってもいなくて。泣いて詫びる妻を前に、何も言えなかったんです」

 美津は常に気丈で、父の葬式でも毅然と顔を上げながら、静かに涙を流すような女だった。その美津が畳に突っ伏して泣く様を見て、いかに自身が美津に無理を強いていたかを知った。

「僕は熱中すると、周りのことを忘れてしまう。だから、妻に詫びたんです。自分の至らなさが、あなたを苦しめたと」

 しかし、伊東に謝らせるとは筋が違うと三木が美津を責め、美津は夫に頭を下げさせたのは妻の不徳だと離縁を願った。伊東は当然に離縁を拒んだ。それでも、美津は翌朝、屋敷地や菩提寺に関わる文書をまとめて伊東に託すと記した誓文を、離縁状と共に渡してきた。伊東も受け入れたが、向島の辺りに一町半ほど有していた土地の利権書だけは美津に持たせた。

「せめてもの化粧料です。入婿の僕に、育った家から何もかも、明け渡すのですから」

「……お嬢さんは? いずれ、婿を迎えてこちらを継がせるおつもりなのでしょう?」

「娘は常陸の母の許へ送りました。──かわいいんですよ、本当に。父さま、父さまと笑いかけてきたら、もう目に入れても痛くないとは、こういうことを言うのだとね。……なのに、ひどい父親です。母親を取り上げ、側にも置かないだなんて」

 伊東が自嘲して笑った。普段の伊東とは似つかわしくない仕草に、歳三はもしやと思い至る。

「お嬢さんとは、もうお会いにならないおつもりかい?」

「ええ、会いません」

 先代から継いだ道場も、妻の孝心も、伊東は犠牲にして京都へ上ったのだ。このうえは、何も持たざる者でなくてはいけない。

「ああしてやりたい、こうしてやりたい……娘への思いは未練になる。私は国へ身を捧げるのですから、断ち切らなくてはならないんです」

「……心中お察しします」

「ありがとう。幸いにも、隊からのお給金のお陰で、母と娘には、不自由ない暮らしをさせられます。情けないけれど、僕が与えられる最大の幸福は、これであったと信じています」

「きっとお嬢さんも理解してくれます、時間はかかっても。あなたの愛は確かなんだから」

 伊東は目を閉じて大きく息を吸うと、杯を空けて、しばらく黙っていた。歳三も手許に目を落とし、伊東の涙を気付かないものとした。

 懐紙は数枚続いており、最後の一枚には、四首が認められていた。紙の右上には表題として、「山南氏を弔ひて」とある。


──────────


春風に吹き誘はれて山桜

 散りてぞ人に惜しまるるかな


吹風にしぼまんよりは山桜

 散りてあとなき花ぞ勇ましき


すめらぎのまもりともなれ

 黒髪の乱れたる世に死ぬる身なれば


雨風あめかぜによしさらすともいとふべし

 常に涙の袖にしあれば


──────────


 散ってしまうからこそ、惜しまれる桜。跡形もなく消える花影の勇ましさ。自らの死が、帝の護りとなれば幸いだ。今後よしんば、雨風に身をさらすことも厭わない。勤皇の心と、それに殉じた敬助への弔いと、これらの涙で、既に袖は濡れそぼっているのだから。

 歳三は伊東が涙を隠さないことに、内心驚きながらも、その心中に深く同情していた。

「伊東さん、これ、写させてもらっても良いかい?」

「もちろん。どうぞ」

 伊東から硯箱を手渡され、歳三は懐紙に敬助への弔歌を書き写す。伊東はこの先、敬助の死に対する悲しみを口にはしないだろう。歳三がそれを阻んだのだ。弔歌に寄せられた敬助への心は、歳三こそが受け取らなくてはいけないと思った。

 

 翌朝、試衛館に出向き近藤の養父である先代や、江戸に残った門弟たちへ挨拶をする。昼からは道場にて新入隊士選抜試験が行われた。

 歳三は試験を斎藤たちに任せ、自身は新撰組の後援者である日野の関係者へ顔を出してまわった。久しぶりに義兄に会い、姉のところへ泊まる。皆、新撰組の活躍を心から喜んで、知り合いや親戚で武道に覚えがある者があれば、こぞって入隊試験に送ったという。

 農兵隊の調練のことや、銃の性能について語り合いながら、十日ほどを日野で過ごし、滞在最後の日となる十六日は府中へと訪れた。隊務を終えての私用だった。

 歳三は浄土寺の門をくぐった。

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