十三、罣礙

 夕暮れには、蹴上に続く峠に至ったが、街道はにわかに騒がしくなった。

 京都方面からは旅装束も整えない人々が流れて来ており、幾人かは着物が煤け、火傷を負っている者もいる。祇園の辺りで火事が起きていると言い交わされる声に耳を澄ますと、山向こうからは半鐘が響き、黒煙が立っていた。

 尾形は清水坂の方へ周ろうと提案したが、山本が、人が逃げ来るなら街道筋には延焼していないだろうと言うので、そのまま進むことになった。

 薄暗くなった街道を一行は人の流れに逆らって進む。千歳は逸れないように、啓之助のすぐ 後ろを歩いた。進むにつれて半鐘の音は大きくなり、逃げ来る人も増える。道脇では、親と逸れた子どもが泣き、転んだ老婆を立ち上がらせることができずに助けを求める娘もいた。千歳は夏の大火を思い出し、嫌な汗が流れた。

 山本の予想通り、蹴上には延焼が及んでおらず、一行は白川通を抜けて黒谷に着いた。山本の宿坊まで送ると、小高い山である黒谷からは祇園一帯が明々と見えた。今日は風があるため、燃え広がるかもしれない。

 丸太町通を西へ行く道中、啓之助が山本の目が悪くなった理由を話した。昨夏、禁門の変事に蛤御門にて長州勢と交戦したさい、近くに着弾した砲弾が大量の砂利を跳ね上げながら、山本を襲ったという。その外傷が元で、今は物の形がぼんやりとわかる程度にしか見えていない。

「……それでも、砲術に携わるんだね」

「誇りをお持ちだもの」

 千歳は銃を手にする山本の目が、啓之助と同じように輝いていたことを思い浮かべた。

 千歳も砲術談義を聞くことは好きだ。しかし、無邪気に楽しむ自分の心を、また別の心が諫めるような気もしていた。良い銃とは、すなわち殺傷力の高さに結びつく。砲術の研鑽は、人に傷を負わせ、街の荒廃を生み出す。

 山本もその犠牲者であることに違いはないが、それでも、山本は家業とその魅力から逃れることができないのだろう。

 四条大路を越えるとき、啓之助が足を留めた。道の最奥には炎が立ち、祇園社の赤い楼門が揺れて見える。

「せっかく、大火からも残ったっていうのになぁ」

 火事は明け方まで続いた。鴨川により夏の大火から守られたはずの祇園界隈は、一年を隔てず洛中を追って焦土となった。

 新撰組も出動していたので、屯所の厨では、賄い方が夜を徹して炊き出しの飯を炊いた。千歳も六兵衛たちと共に握り飯を作り、三条河原にて隊士や罹災者へと配った。

「去年の変事も、こんな感じだったのか?」

「いや、もっと……もっと、混乱してたな」

 配給を終えて、千歳と五郎は隣り合って麦飯を食べる。千歳は、少し川下の河原にて同じく握り飯を食べる芸舞妓を指し、

「あんな呑気ではなかったよ」

と言って、彼女たちのおしゃべりに耳を立てた。三味線を持ち出せなかったとか、あの帯が焼けてしまったとか、口々に言い合う。火事を、どこか天災のように捉えているように見えた。戦争の飛び火とは、状況が違うのだ。

「今じゃもう慣れたけど、砲声をあんな間近に聞いたことはなかった。しかも、途切れないんだもの。とにかく、必死で火から逃げた」

「え、君は洛中にいたの? 隊とは別に……?」

「あ……うん、そのときは……僕、町方で奉公に上がっていた。そのお店が焼けたから隊に戻ってきて、そのままいる」

 千歳は華やかな着物を煤けさせた芸妓たちへと顔を向けたまま、大きく息を吸った。一夜を明かしたのは、あの辺りだったはずだ。

「これまでは僕、自分を守ってくれる人を求めていたと思う」

 志都を亡くし、兵馬を亡くし、父と示された歳三を頼って上京した。しかし、歳三は千歳に自立しろと言い付けて、町方へと出した。その判断は間違っていないと、千歳も認めてはいるのだ。

「都合良く自分を守ってくれる人なんかいないって、今はわかる。自分を守るのは結局、自分自身だ」

「守る……て?」

 自立する術を持たない者は、誰かの庇護下で生きなくてはならず、庇護してくれる者の意志に逆らって生きることはできない。千歳は仙之介などではなく、歳三に属する娘、歳三に依存した存在なのだ。

 もちろん、そんなことは口に出せるわけもない。千歳はしばし考えてから、自分を守るとは、自立を侵されないことだと述べた。

「自分で人生を選択できること。そのためには、身を置く状況の『今』を正確に把握する必要がある。同時に、今後を予測するための知識も。状況と知識をすり合わせて、選ぶべき行いを判断する──把握、予測、選択。この一連の流れを、自分自身で出来ることが自立だ」

「それは……君、前に言ってた、君は自分の意志に従って生きられない、という話?」

「うん」

「君は、ときどきよくわからない。なんで、君ほど物事をよく考える人間が、そんなにも……不自由だというの?」

 いつになく不安気に見つめてくる五郎の目を、千歳は好ましいものとして受け取っていた。五郎は千歳の寂しさに共感し、心底から案じてくれているとわかるのだ。自然と微笑みが浮かぶ。

「不自由かもしれないけどね、この先は。でも……だからこそ、今が幸せと思えるんだ。君と話しているときは、特に」

「そう……」

「うん」

 気丈さを見せようと、千歳は止まっていた麦飯を握る手を口許に持っていった。少し硬い麦粒を噛む。晴天を映した鴨川には、桜の花弁と共に、材木を積んだ筏が下って来ていた。祇園もまた、再建されていくだろう。

 三条大橋を見上げ、橋桁の向こうに落ちる陰へと目を移す。あそこで新堀と会った。考えろと繰り返す声が思い出される。

「──僕、賢い人間になりたい」

「君の求める賢さとは?」

「物事をよく考えること。……実践につながらなくても、考えることは続けたい」

 歳三は、千歳の英語を遊びといい、政治への関心をただの興味という。遊びや興味の何が悪い。おもしろさを知り、さらにその向こうにある脅威──西洋列強のもたらす差し迫った海防の必要性や、その方策に対する国内での軋轢をも、併せて知るに至ったのだ。

 千歳は女故に、世の現実に携わって生きていけない。けれども、関わりなきことと何も知らずに平穏に生きていたくはない。知りたいと思う心からは、逃れられない。

「前は、政治はお上が行うことと思っていたけど、ともすると市井の民にも厄災となって降り掛かってくるものだと、身をもって知った。だから、我が身を取り囲む状況を作り出す政治を知りたいと思う」

「我が事として、か。君のその姿勢、なんとなくわかる。君が政治を語るとき、末端の民草の生活に目が向けられているから」

「五郎くんはもっと、国として、というような、大きな指針をどこに向けるか、そんなことに着目しているよね」

「うん。僕たち、物事に対する見方、だいぶ異なってると思う。それが一層、おもしろい」

 目を合わせ、いつものように笑い合った。千歳は手に残っていた麦飯を全て口へと入れると、ゆっくりと噛んで、飲み込んだ。

「僕、君と話しているときが一番好きだ」

「ありがとう、僕も」

 他人の好意を素直に受け取る五郎の飾り気のなさが、千歳はまた好きだった。


 三条河原から引き上げる道中、千歳は啓之助と並んで賄い方の大八車を押す。五郎はその後ろを歩きながら、若草色の振袖を着た千歳の背中をぼんやりと見ていた。

 千歳は自身のことを開示したがらない。母は亡くなったというが、父の話は聞いたことがない。歳三の許に身を寄せることも、いずれ隊を出ると言っていたことも、たまに見せる寂しそうな顔も、五郎はその理由を知らない。

 彼を知りたいと思う心があれこれ聞きたがるが、単なる興味から踏み込んではいけないと別の心が制する。これまで何度か踏み込みすぎて、泣かせそうになったことは反省しているのだ。自分は時に、執拗に答えを求めてしまう。

 隊の残留が告げられた日の夕方、千歳が自分を避ける理由がわからず、あの背を追いかけてまで問いただそうとしてしまった。

 千歳が自分を好いてくれていることはよくわかっているし、自分も彼を一番の友人だと思っている。それなのに、何か隠されるような振る舞いをされると感情的になってしまうのだ。

 友人だろうと、全てを明かして付き合う必要はないとわかっている。千歳が自ら自分のことを話すときまで、五郎は待つことが望ましいはずだ。

 けれども、前を歩くふたりは時折、軽く小突いたり、からかったりと、気の置けない距離感でおしゃべりに興じる。五郎との間にはない砕けた雰囲気に、わずかな嫉妬心を認めた。

 新屯所に移転してから、五郎は自身と、千歳や啓之助の立場が異なることを実感させられるのだ。

 五郎は、ふたりが普段過ごす書院棟へは渡らない。五郎が巡察、稽古に講義と日々変わらず過ごす間にも、啓之助は近藤に付いて最新の情勢を見聞きし、千歳は文学師範部屋の書庫に籠もって本を読む。たまに連れ立って光縁寺への法要に局長の名代として出向いたり、尾形に付き従って国友村へと足を伸ばしたりするのだ。

 千歳と啓之助とは、五郎が入隊したときには既に仲が良かった。自分はそこに迎え入れられた三人目なのだろう。

 その日の夕食時、宿坊棟の庇の角で、ふたりは一泊二日の出来事を五郎に語って聞かせた。琵琶湖に降る夜雨の中で眠ったこと、湊町として栄える長浜。試射を終えた後、しばらくの自由時間があったので、ふたりで国友の鍛冶屋を見て廻ったこと。

「──それで、ちょうどカンカン叩いてるところ見てたら、お仙くんが急に腕引っ張って歩いていくの。路地に入ってね。つけられてるって怖い顔して言って」

「怖い顔にもなるさ。南禅寺の一件、一生忘れないよ、僕」

「でも、そのついて来てるの、十二歳の子どもだったんだよ?」

「刀持ってたんだから」

「脇差だけな。で、その坊やがね、中村くん、新撰組に入りたいんだって。それを、お仙くんが元服してから出直してこいって」

「そんな言い方、してないったら! 十五になったらおいでなさい、それまで、文武共に励みたまえと、優しく、gentleジェントル に言いました」

「どちらかというと、motherマザー だったけどな。君、小さい子には良い顔したがりさんだもん」

「馬鹿」

「馬鹿じゃないもーん」

 五郎は自分の顔が不自然ではないかと、汁椀へ何度も目を遣りながら、楽しそうな顔を作って話を聞いていた。

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