十一、欠落

 新宅に寝起きしだして五日。日中しか屯所にいられないというのに、啓之助は近藤に付いて出ていることが多く、五郎は本部棟である書院棟へ入ることもないため、すれ違い様に少し話すこともできない。千歳は宿坊棟へと渡らないように言い付けられていた。

 歳三の言い付けは、日々増える一方だった。特に帰宅時間に関して厳しく、歳三よりも先に帰っていないと、どこで何をしていたのかを問いただされる。

 千歳を早く帰宅させたいのなら、申の刻を過ぎて、翌日晩の座敷を取りに祇園まで行かせることはやめてほしい。朝、せめて昼までに言ってくれていれば、三人で都合を合わせて、祇園社での花見ができたかもしれないのだから。

 さらには、家にいる間に小刀を帯びることも禁じられた。羽織袴も許されず、着流しでいるしかない。やがて、着物すら女物を強いられるのだろう。

 唯一の希望といえば、五日後には歳三が隊士徴募のため東下することぐらいだ。行灯の点けられた表座敷には、歳三の旅装束と荷物が並べられ、荷造りが行われた。

「草鞋は予備を二足、足しておいてくれ」

「はい。買っておきます」

「ああ。銭箱、わかるか? 奥の箪笥、左の小さい引き出しだ。鍵はその右の引き出しに入れてある。特に報告はいらないから、何か家の物で必要だったら、そこから使いなさい」

「わかりました。……あ」

 野袴の裾にほつれが生じていた。千歳は箪笥から針箱と糸入れの巾着を取り出した。

「明日で良いじゃないか、暗いだろう」

「見つけたときにやるものです、こういうものは」

 それらしい理由で返したが、千歳の大切な日中をこの家で針仕事に費やすつもりはないだけだった。明日、歳三は公用方へと出向くため、不在の隙に総司との稽古を予約してある。

 千歳が針を進め、歳三は行李に荷物を詰める。行李の蓋を閉め、顔を上げると、千歳の横顔が、行灯の陰に浮かんでいた。

 やはりよく似ているが、鼻筋だけは違う。志都はもっと真っ直ぐに下りる大人し気な鼻筋だったはずだ。弧を描く鼻筋は、誰譲りの形質か。

 思わず巡る考えを振り払い、歳三は脚絆などにも不備がないかを調べようと手を取った。ふと糸入れの巾着が目に留まる。白地に藍染の撫子模様に、見覚えがあるような気がした。

「その巾着……」

「え?」

「いや……かわいらしい柄を持っているのだなと思って」

 千歳の趣味はよく知らないが、花模様を好むような少女らしさは見たことがない。千歳が手許に目線を落としたまま答える。

「元は女物の浴衣ですから」

 歳三の眼裏に、この撫子模様の浴衣を着た志都の姿が鮮明に浮かんだ。

 あの夏、歳三は生成りに撫子模様が藍染された浴衣地を志都に贈った。志都はすぐに浴衣を縫い上げて、歳三に着て見せた。夕暮れ、不忍池の池端で、似合うかと尋ね、はにかんだ姿は忘れられない。

 あの布が巡って、今、目の前にある。

「……その布は、良い布だよ。俺は昔、反物屋で奉公していたから、布はよくわかる」

「そうでしたか。だから、着物お好きなんですね」

「ああ」

 あの浴衣の端切れで、巾着は作られたのだろうか。それとも、解かれたのだろうか。

 歳三は尋ねようとして、やめた。数少ない母の形見に、歳三の要素があると知ることは、千歳が喜ばないだろうと思った。

 ただ、志都があの布地を千歳に持たせ、千歳がそれを京都にまで携えてきた意味を、運命的な筋書きの下に考えずにはいられない。胸のざわつきは尾を引いて、消えることはなかった。


 ふたり暮らしは打ち解けきらないままに、葉桜の二十一日、歳三は斎藤と共に東下した。その夕べ、千歳は新宅に帰らず、久しぶりに五郎と夕食を食べた。

 近藤を妾宅へと送ってきた啓之助も交えて夜咄は進む。亥の刻の点呼を前に、啓之助と千歳は宿坊棟を引き揚げたが、五郎には点呼後に抜け出して、書院棟の裏庭にある茶室に来るように告げてある。

 四畳半座敷の中央に洋燈を置いて、三人は話し続けた。厨の納戸には、賄い方の六兵衛たちが寝泊まりしているので、気付かれないようにと声を潜めて交わされる会話が、大人の目を忍んでの行動だと強く意識させた。

「──で、俺もマセてたからさ、お佐奈さまの袖に文なんか差し入れて」

 啓之助によって始められた初恋談義は、まず千歳が指名された。千歳は、五つの夏に近所の神社で、一緒にシャボン玉を吹いた少し年上の「お姉さん」と仲良くなったが、地震の後は行方が知れないという思い出を話した。

 啓之助は千葉道場の佐奈子との話を明かしていた。

「お佐奈さまも優しいから、決して笑ったりしなくてさ、丁寧にお返事くれるんだ。もちろん、『この字がお上手になりましたね』みたいな、のんびりした内容なんだけど。そんなわけだから、俺はもうずっと年上好み。はい、以上。じゃあ、次。中村くんの初恋」

「いやぁ、だから僕はないんだったら」

 五郎は苦笑いで後ろ首を掻く。啓之助が、良いなと思っていた子と譲歩するが、それもまたいないと答えた。

「中村くんー、嘘はいけないよ。男のくせに、今まで一回も女の子を良いなと思ったことがないわけない」

「僕はない」

「かわいいくらいは思うだろ? 京都だぞ? 道行く娘たち、みんな華々しくてかわいいじゃないか」

「不躾な。見たりしないさ。僕は修行中の身なんだし、恋愛事はいらないよ」

「つまり、君は食わず嫌いなんだな。知らないから、いらないなんて言える」

「誰もが君みたいに、色事を好むわけじゃないったらぁ」

 五郎の訴えにも啓之助は納得を見せず、呑ませば口を割るかもと、勇んでにじり口から庭へ降りていった。千歳は呆れた顔で、同時におもしろそうに、

「君、あれは面倒くさいぞ。話すまで、寝かせてもらえやしない」

と意地悪く笑った。五郎が渋い顔で視線を逸らして、ため息をつく。

「飲んでも出ないものは出ないんだ」

「かわいいと思う芸妓のひとりくらい話して、さっさと許してもらえば?」

「だから、それがいないんだって」

「ええ? 女の子見て、本当にかわいいと思わないの?」

 千歳が思わず前傾して尋ねるが、五郎は観念の目線と共に返す。

「思わないんだよ」

「えっと、顔の美醜がわからない……?」

「美醜はわかるよ。君菊、あれは美人だ。でも、それは分類、判断であって。美人とされる顔立ちだな、均整取れてるもんな、っていう……。それだけなんだ。そこから、どうこうとかがない」

「あー、色恋としては男の方が、とか……?」

「そういう意味じゃなくて……恋の相手として、女を欲しない」

「うん? だから、恋の相手は男ってことじゃないの?」

「うーん、その」

 五郎が言いあぐねながらも、千歳へと目を向ける。眉根に浮かぶ困惑に、千歳は一年前に恋愛を拒絶していた自分を思い出した。

「……色恋は、嫌いか?」

「嫌い、とは少し違う……と、思う」

 少し迷ってから、五郎はため息をひとつして、語り出した。

 幼いころから、親戚の家に養子へ出されることが決まっていた。養家の夫婦は、他の親戚筋から養女の約束もしていて、ふたつ下のその娘は、正式な関係ではないながら、五郎の許嫁だった。何かにつけて会わされていたが、お転婆で気の強いその娘のことを、ついに好きにはなれずにいた。

「大人たちは、お似合いだなんて言うし、向こうは好いてくれてたから、一緒に遊んでた。この子のこと好きにならなきゃ、別な誰かを好きになっちゃいけないって、心抑えてさ」

 両親のように、仲睦まじい夫婦になろうとしていた。その抑制が習慣となり、身に付いたころ、養子先に男児が生まれたことで、縁組の約束は解消となった。それでも、習慣は離れない。

「道徳は置くとして、ほら、男ってモテる奴ほど偉いだろう? モテずとも、好きな娘がいて当たり前、手に入れて一人前。なのに、僕はいない。だから、一人前とは認められなくて……人が当たり前にする恋ができない自分は、欠けた人間なんじゃないかとも思う」

 五郎が立てた膝に頬杖をついて、洋燈の揺れる炎を見つめる。深夜に明かされる秘密に、五郎の面立ちは、昼間とは全く別のものに変わっていた。

 愛されて、真っ直ぐに育ってきたと思わせる五郎が、自分を欠けた人間だと評する。しかし、恋とは、人間に必須なものではないはずだ。恋愛の結末は大抵、悲惨なものなのだから。

 千歳の胸が寂しさに痛み、自然と手が五郎の背へと伸ばされた。

「恋と愛とは別物だ。恋を知らずとも、人を愛することはできる。一時の情動より、愛し抜く真心が大事なんだと思うよ」

「……君は、君菊とはどっち?」

 千歳は考えるような顔を見せて手を引く。贈ったかんざしを両手に握りしめて、満面の笑みを浮かべた君菊が思い出された。


『仙之介はん、おおきになぁ! 一生、大切にするわ!』


 もし許されるのなら、その丸い頬に触れたいと思った。もっと、君菊に自分の名を呼んでほしい、笑いかけてほしい。軽やかな君菊の声を思い出すたびに、くすぐったさが生まれては、不思議なほどに胸が高鳴る。

 仙之介と君菊の恋愛は、初恋の逸話としてはありきたりなほどに、瑞々しい心の機微を描いて進んでいた。ただ一点、千歳が「千歳」であることを除いて。


『仙之介はん、挿して?』


 君菊は珊瑚の玉かんざしを抜くと、背中を向けた。手を添えて、銀の細い脚を髷の根へと挿し入れる。

『君菊はきれいな黒髪だから、銀が良く映えるね。……とても、きれいだ』

 君菊の細い首は、うなじの生え際まで薄らと赤みがかる。振り向かないままに、君菊が小さく尋ねた。

『……他に、かんざし贈ったりしたはるん?』

『しないよ』

『うちだけ?』

『……選ぶのも初めてだった』

『うち以外には、嫌やえ……?』

『……しない』


 あの高揚が恋でないのなら、千歳は一生、恋を知らなくてかまわない。「仙之介」の心は、確かに君菊を恋した。

 けれども、仙之介などいないことは、千歳が一番よく知っている。鏡像のような、実体のない思いに惑わされる自分こそが、欠けた人間に思えるのだ。

「……まだ結末を迎えていないから、愛だと言い張っても許されるかもね」

 千歳は皮肉そうに鼻で笑うと、すぐに神妙な顔へと戻した。

「ともあれ、君だよ、五郎くん。三浦くんをなんて納得させるか。絶対理解しないよ。まだ『その人』に会っていないだけだって言うさ」

「許嫁、まだいることにしておこうかな」

「うーん、それよりも……」

 千歳が作戦を伝え、五郎と練りあっていると、啓之助が戻ってきた。焼酎の土瓶と、厨から借りてきた茶碗が三つ、肴の煎餅を抱えている。

「お仙くん、堅物くんは何か言った?」

「うん、聞かせてもらったよ。好きな人はいないけどね、可憐で大人し気で、朗らかな女が好みだってさ。夕顔の君みたいな」

 千歳は啓之助から土瓶を受け取り、茶碗に注ぐ。その間、五郎は「夕顔の巻」での夕顔がいかに理想の女であるかを語った。『源氏物語』に登場する女人の中で、夕顔を一番好きだとは本当のことなので、啓之助も疑いは挟んでいないようだった。

 夜は更けて、気付くと三人は茶室で寝ていた。朝の鐘に目覚めた千歳の目の前には、消えた洋燈を挟んで五郎の寝顔があった。

 歳三に知られたら叱責だけでは済まされないと思い至るが、それすら何か愉快な気がした。ふたりを起こし、茶室を片付けると、千歳は書院棟の長い廊下を覆う雨戸を開けていった。

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