十、移転

 花の夕べ。千歳は啓之助と共に、敬助の二七の法要を終えて光縁寺を出た。その道、啓之助は酒屋に寄って清酒を求め、徳利を千歳に持たせて花見酒に誘った。千歳が花見だけなら喜んでと突き返すも、啓之助はヘラッと笑ったきり受け取らない。

「酒井のくせに、酒を嫌うのかい?」

「元は『坂』の『井』の坂井郷を治めていたというよ、よく知らないけど」

「じゃあ、ご先祖に酒豪がいたんだ! それで、酒の字に変えたんだよ」

「ウチのご先祖は君みたいな軽率者じゃない。忠次公に謝れ」

 千歳は酒井忠次の家系などではないだろうが、じゃれあいに正確さは求められはしない。

 屯所に戻っても、ふたりはやる気のない睨めっこを続け、そこに五郎たち井上班が巡察から帰って来た。

 五郎が何の話か問うと、啓之助がすかさず、

「酒の飲めない酒井くんの話」

と言うので、千歳は啓之助を小突き、負けじと、

「からみ酒三浦の助の話」

と応戦する。五郎が笑って挙手した。

「あまり飲めない中村ですけど、参加しても良いですか?」

 三人での花の小宴が決まった。


 薄明かりのなか、厩舎の側に立つ三分咲きほどの桜の木の下に茣蓙を敷く。燭台に火を灯し、厨から膳を運ぶ。座の中心に置かれた盆には四つの杯があり、啓之助が酒を満たし入れた。

「さ、献盃だ」

 三人は杯を掲げ、飲み干した。別れの実感が迫った。

 膳を食べ終えても、暮なずむ空はなお明るい。生暖かい風が時々吹いては枝を揺らすが、花を散らすほどではない。千歳は戯れに俳句を口にする。


「惜しみてか 風もいざよふ 桜かな」


 啓之助が囃し立て、杯を空けると、高らかに続きを詠じてみせる。


「京都壬生村 去りぬかりがね


 発句、脇と続いたら、これは俳諧となる。啓之助は第三句を詠むように、五郎に催促した。五郎はあまり詩歌を嗜まないらしい。季語は春、切れ字を入れる、脇句と情景を合わせるなどの要求を受けて、しばらく唸ったあと、


若柳わかやぎや 腹見せぬる 猫のいて」


と詠んだ。その浮いた視線の先には、膨らんだ腹を重た気に揺らす竹輪が飼い葉の上で寝転んでいた。

 千歳が続ける。


「白き蝶々 鼻先にまで」

「御写経の 机より聴く 田打ちの

「暖かにして 明日は旅立ち」


──────────


惜しみてか風もいざよふ桜かな

 京都壬生村去りぬ雁

若柳や腹見せ寝ぬる猫のいて

 白き蝶々鼻先にまで

御写経の机より聴く田打ちの音

 暖かにして明日は旅立ち


──────────


 啓之助、五郎と続いて、突然に始まった俳諧は終わった。三人は満足気に、照れくさそうにも顔を見合わせて笑い合った。千歳は久しぶりに声を立てて笑ったことに気付いた。

 翌日。よく晴れた春の日に、新撰組は上洛して以来の二年間、屯所としてきた壬生村を離れ、本願寺へ移ることとなった。

 屯所内は、各班に分かれて作業に追われる。東庭の米蔵と厩舎は武田班と井上班の割り振りだった。千歳も啓之助と共に手伝いに加わり、五郎と三人で厩舎に積まれた干し草の山を荷車に乗せた。武田が頑丈に縄を掛け、門から送り出す。

「では、気を付けて。道にこぼしたりしないように。三浦くん、聞いていますか? 中村くんの指示に従うんですよ? 安富くんが向こうで待ってますから。──こら、三浦くん!」

 道を横切る青蛙に石を蹴り当てた啓之助への説教が挟まれながらも、三人は前川邸の正門を出た。桜や菜の花を楽しみながら、ゆったりと壬生川通を南下する。

「初めての場所って、なんか緊張しない?」

「そうかなぁ? 俺は新しい場所好きだけど」

 千歳の繊細な不安を啓之助は理解しないようだが、五郎は共感を見せた。

「良いことあると良いなって期待するからね。不安だけど、でも楽しみだ」

 本願寺にて始まる日々は、すぐに懐かしむものになってしまうのだろうと思うと、既に寂しさを覚える。それでも、千歳は自分に言い聞かせるように、

「うん、楽しみ。楽しみだ」

と重ねて応じて、口角を上げてみた。


 引っ越しは二日に渡って行われた。長持や帳簿の行李が全て持ち出された元勘定部屋にて独り寝した翌朝、千歳はその布団を、菅大臣の新宅へと運んだ。荷運びには、歳三の指示で啓之助が付けられた。

 離れ座敷の雨戸を開けると、軒下からは水仙が香り、裏庭には枇杷と柿の木が見えた。最近植樹されたのか根元の土の色は新しく、下草も生えていなかった。実のなる木が植えられていることに、千歳は歳三が本当にこの家に長く住むつもりでいることを察した。

「お仙くーん!」

 歳三の部屋となる座敷へと行李を運び入れていた啓之助が、中庭に面した格子越しに呼びかける。

「押入れの箪笥、中もう入ってるよー、着物」

「着物? 僕のも副長のも、今持って来たので全部だけど?」

「いいから来て、見てー」

 通り庭へ降りて中座敷の障子戸を開けると、啓之助が畳紙の上で辛子色の小振袖を広げていた。裾にかけて笹の葉模様が刷られ、丸に片喰紋が染められた娘らしい絹の一枚だ。

「お仙くん、君、女の子に戻るの?」

 千歳は答えもせずに座敷へ飛び上がり、箪笥の中を改めた。袷の振袖と襦袢、帯に留まらず、腰巻や足袋などの肌着類まで細々と揃えられている。

「こんな、の……こんなの、僕──!」

 引き出しの縁を握り込み震える千歳の肩に、啓之助がうろたえながらも手を置き、

「君が女の子の格好したって、俺は変わらず仲良くするよ」

とぎこちなく慰めた。千歳は払い退けると同時に、振り返った。

「君は──! なんで、知ってるんだ、なんで!」

 戸惑いと恐れと、嫌悪と。負の感情を剥き出しに宿した千歳の視線には、殺気すら感じられた。

「お、お仙くん。落ち着いてよ、怖いったら」

「聞いてるんだ! なんで、知ってる!」

 掴みかかる千歳の手首を抑えて、啓之助は初めから気付いていたと弁明した。

「言っただろ、『こんな女の子にも、小姓の仕事できるのか』って!」

「でも、君……今まで一度だって、僕を──!」

「別に何も変わらないだろうが! 君が女の子だろうと、どんな格好しようと、一緒に写真撮って、モールス打って、雪の結晶観た僕の友人! 違うって言うのか⁉︎」

 千歳の目に涙が張り、力は抜けて座り込んだ。啓之助はゆっくりと手を放すと、振袖を畳みにかかる。

「着ないって言うんなら、仕舞っておこうよ。僕だってまだ、『お仙くん』といたいんだから」

 着物は一式、二階の箪笥へと仕舞い込み、引越し作業も程なく終わった。

 千歳は七輪で湯を沸かし、啓之助が急須に茶葉を入れる。

「君さ、ここに住むの?」

「いずれね。しばらくは、夜だけここに来る」

「君は副長の……えっと、なんなの?」

「なんなんだろうね、わかんない」

 沈黙が続き、ふたりは無言のまま煎茶を飲んだ。秋に啓之助の義母とも、お茶を飲んだことを思い出す。千歳は啓之助の家庭事情を知っている。ならば、自分も話すべきであるような気がした。

「……母さま、昔、副長と恋仲だったんだ」

 父親を知らされずに育ったこと。兵馬は歳三を父と遺したが、歳三は認めていないこと。十五歳になったら、隊を出る約束をしていること。

 啓之助は別段の驚きも見せずに聞いていた。

「君、本当にわからないの? 父さまかどうか」

「わからない」

「副長も君を娘とは──」

「思ってない。後見。あくまでも、他人」

「でも、君……」

 啓之助がまじまじと千歳を見る。千歳も怪訝に見つめ返した。

「なあに?」

「似てないよね。どっこも、副長に」

「そうだよ、母さまにそっくりなんだから」

「え……?」

 啓之助が息を呑んで、手を掲げる。

「副長は、君に母さまの面影を見て、側に置こうとしてる、みたいな?」

「……気持ち悪いこと言うなよ、馬鹿」

「いやいや、若い娘を囲うって、そういうことでしょ。だって、あの人モテるのに、今まで別宅持ってこなくて、なのに今、君に家を持たせた。え、むしろ、妻にする以外だったら、何さ?」

「僕は恩知らずな人間だから、全くわかりゃしないね」

 千歳が苛立ちまぎれに息を短く吐き、両手で湯呑みを握り込む。これほど面倒を見てもらっている男の意向に沿わない自分は、恩知らずもいいところな小娘なのだとわかっている。

 それでも、自分を抑えられないし、どうしようもなく歳三のことは嫌いだった。時折、自分を見遣っていることは知っている。執務室へとお茶を運ぶとき、布団を敷くとき。無視を決め込んでいるものの、考えは止まらない。

「副長、僕のこの面は好きなんだろうね、本当。だけど、僕自身の性格は絶対好みじゃない」

「性格?」

「素直でかわい気のある女が好きなの。側においてホッとするような。……ふん、どこが? かわい気の欠片もない、強情で傲慢で、聞き分けがなくて、すぐ泣いて──鬱陶しいことこのうえないよ!」

 歳三がこんな自分を愛したいというのなら、志都の面影を慕ってのことに決まっているのだ。


 夕刻。本願寺北集会所の前庭では、屯所移転の祝杯が上げられていたが、千歳は新宅の離れ座敷にひとり寝転んでいた。言い付けられた風呂焚きは終えたので、隊からの配給と歳三の帰宅をただ待つのみだった。

 千歳に与えられた自室は押入れ付きの六畳間。押入れの左脇にある階段を上がって、十畳分の板敷の屋根裏も千歳が使って良い。真冬の納屋で寝かされていた明練堂での生活と比べたら、あまりに恵まれた待遇だ。

 しかし、女郎屋に売られた末に囲い者となっていた行く末と、これからを比べても、大した違いがないように思えた。

(嫌だ……)

 雨が降り出したのか、開けられた障子戸からは、水仙の甘い香りと共に、土の湿る匂いがした。千歳は裏庭に背を向けて、うつ伏せになる。押さえ付けられた胸に鈍い痛みが広がった。

(嫌だ、嫌だ……!)

 最近、胸の痛むことが増えた。肺病などではない。単純に成長だ。手をやると、硬いしこりを包んだ小さな膨らみがあった。

 千歳の心ばかりを残して、身体も身を置く場所も、「仙之介」から離されていく。抗えないうちに、自身が違う何かに変えられてしまう心地がした。

 朝になっても雨は止まない。千歳は昨晩洗った髪をこよりで低く束ねると、傘をさして庭の裏戸を抜け、天満宮へ向かった。境内には誰もいない。本殿は大火で焼けて、今は簡素な仮殿が建てられている。千歳は柏手を打つと、深く頭を下げた。

「学業成就、それ以外いりません」

 そのあとは、軒に座り込み、懐に入れてきた『地転窮理論ちてんきゅうりろん』を読んだ。啓之助より借りた西洋地理学の翻訳本だ。図録にある「月から見た地球の絵図」を千歳は気に入っていた。

 地球上の地理について、五郎と話すときは、海防や外交を話題とするが、啓之助と話すときは、特産物に現れる気候や地質の違いなど、地理学の要素が強くなる。五郎と話すとき、外国とはすなわち主権国家であり、渡り合う相手だが、啓之助と話すとき、外国とは地球上の一地域だ。千歳はどちらの捉え方も好きだった。

 明け六つの鐘が鳴り、千歳は自身を励まして家に戻った。表座敷では着替えを済ませた歳三が髪を結われており、台所には隊から配給された朝食の菜が入った岡持ちと米櫃、汁物の桶が置かれていた。

 歳三の膳を整え、整髪を終えた歳三と入れ替わりで髪結の前に座った。伸びかけた前髪を切ってもらい、髪を結い上げる。髪結師を送り出した千歳が台所の間に戻ると、歳三は膳に手を着けずに待っていた。

「な、何か不足でしたか……?」

 箸はある。食前の白湯かと思ったが、歳三は米櫃を指して、お前も、と促した。共に食べようとの意味だ。

「いえ、そんな……。後でいただきますので」

 敬助とは共に夕食を食べたりもしたが、歳三とふたりで食事をするなど、北野での気不味い半刻を除いて、一度もなかった。

「いいからつけなさい。隊の中でもねぇんだから、そんな仕事らしく構えなくても」

 千歳としては、仕事の一線を引いた方がよほど気が楽なのだが、大人しく膳に品を取りだした。

「お前、どこ行ってたんだ?」

「えっと、表の神社にお詣りしてきました」

「そうか。かまわねぇが、髪も結わないで外を歩くのは、だらしがない」

「はい、すみません……」

 歳三は口を開けば、まず小言なのだ。仕事の伝達以外でまともに会話した記憶がない。五郎たちとの朝食を懐かしみながら、千歳は歳三と斜向かいになって膳を食べた。

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