九、結縁

 屯所移転を控えて、千歳は歳三、尾形と共に、新屯所の部屋割りのため、西本願寺へ出向いた。初めての隊務同行だった。

 春の日差しが暑いほどの午後。堀川五条を進むと、長い白壁と点在する門の先に、本願寺の太鼓楼が見えた。二層の櫓は、堀の石垣の上に築かれており、ちょうど城郭の隅櫓のように見える。通りには参拝客や商人が多く行き交い、農村の壬生とは全く違う街中の風景を見せていた。

 二百畳は敷けるという北集会所は、これを宿坊として、隊士の大部屋に使う。集会所の西、渡り廊下の先にある小庫裏と書院の付属棟は、執務室などを置く本部棟とすることになった。

 書院棟に上がった千歳は、歳三と尾形の後ろについて、どこを何部屋にするか、どの部屋には何を置くかといった内容を拾い聞いては書き付けていった。

 書院は廊下と中庭を隔てて、表と奥に分かれており、表には勘定部屋、監察部屋、文学師範部屋、書庫などを配し、奥は両長の居室と執務室とされた。

 新しい副長居室は執務室の西隣り、表庭に面した八畳間に決まった。

「酒井くんもここン部屋ば住むとですか。ふたり住まわすには、狭くなかとです? 押し入れもなかとですけど」

「夜寝るくらいしか使わないんだ、かまわないさ」

「そうですか。──酒井くん、残念じゃの。ひとり部屋ならずばい」

「残念ですねぇ、ちょっと期待したんですけど」

 膨れたような顔をしては見せたが、千歳は内心、歳三が千歳の布団を置く想定をしていたことに安堵していた。千歳も新屯所に来て良いらしい。

 しかし、その安堵も束の間。壬生へ戻る道で、歳三は尾形へ先に帰るように言うと、千歳を伴って、仏光寺通を東へ向かった。何の用だろうかと千歳は訝しむが、歳三は黙って足速に進む。菅大臣神社の裏手へ入り、路地の中頃、引き違いの格子戸がはめられた簡素な門の前で留まった。歳三は軋む戸を開き、狭い門をくぐる。

「入れ」

「……はい」

 門の先には、町家の間に三尺ばかりの幅で伸びる道がある。突き当たりも町家。千歳はその意味を理解した。家に入ると、歳三が手前の表座敷の段に腰掛けて言う。

「別宅に借りた。引っ越しのとき、着物とか、刀箪笥の中身とか、普段使わない分はこっちに運ぶようにしてくれ」

「わかりました」

 千歳は入り口に突っ立ったまま、さも新宅に興味がある顔をして、土間にあたる通り庭の先を眺めていた。

「お前、本願寺に移ったら、夜はここで寝なさい。風呂もある」

 そういうことだ。急に隊を出ろと言っても、千歳は聞き入れないだろうから、まず夜だけでも隊から出させる。

 千歳は答えずに、通り庭を進んだ。大火の後に建て直された、新しい家だった。表座敷、玄関の間、台所だいどこの間、中の座敷。坪庭を挟んで、離れの奥座敷が見える。竃の側には、薪が積まれており、いつでも、暮らし始められるように支度がなされていた。

「東下の間、ここを頼む。暮らせるように、物を揃えておいてくれ。この家は、お前の好きなようにしてくれてかまわないから」

「わかりました。ありがとうございます」

 拳を握り込んで出した声は震えていた。この家で少しずつ「千歳」へと慣らされていくと思うと、ままならない身の振りに、悔しさが抑えられなかった。

「帰るぞ」

 肩を震わせる千歳に背を向けて、歳三は先に表へ出た。


 帰営した千歳は、誰かから声をかけられる前に八木邸へ逃げた。二階の納戸が千歳の避難場所だった。しかし、脇玄関を開けたとき、ちょうど雅に呼び止められ、手伝いをすることになった。

 雅は千歳を厨の納戸へ引き入れ、蚕を飼うための棚である蚕架さんかの修繕を共に行った。長方形の木枠に敷かれた金網が破れていれば、糸で縫う。

 雅は作業をしながら細々と尋ねた。体調は悪くないか、本願寺へ一緒に行くのか、八木邸に残るつもりはないか。やはり母親のように、千歳を気にかけた。

「ウチな……」

 雅が手を止めて、千歳の肩を抱いた。千歳も手を休めて向き合う。

「お仙さんのこと、八木家に迎えよかて思うてんねん」

「女将さん……」

「ウチの娘になってくれへん?」

 京都に来て、一年半。雅は常に愛しんでくれた。属する家のない千歳に、それを与えるとまで言ってくれる。これほど、ありがたいことはない。しかし──

「女将さん、本当に嬉しいです。そう言ってもらえて。だけど……」

「何え?」

「──少しでも長く、隊にいたいんです。もう、どうせ、あと少ししかないんですから!」

 涙を潤ませた目を受けて、雅は千歳の頭を撫でた。千歳が震え出す。

「副長が家を借りました。僕にそこに住めって。今は夜だけ泊まれと言うけど、すぐに屯所には入るなって言うつもりなんです。そしたら、僕は……どこにも行けない」

「副長はんと暮らすん、ほんまは嫌やねんろ?」

「嫌ですよ、嫌に決まってます!」

「ほんなら、ウチに来はれば良えやないの」

 千歳は袖で顔を覆いながら、頭を振った。千歳は隊にいることを望むのだ。そのためには、歳三に従わなくてはいけない。あの家で暮らすつもりはないと突っぱねて生きていける存在ではなかった。

 何より、あの家は歳三が千歳を思って用意したものだとわかっている。東下の間、千歳の身を守る者がいないから、屯所内には置かない。かといって、急に千歳を隊から引き離さなくても済むように。

 けれども、今の千歳にとっては、その心遣いすら煩わしい。自分の知らないところで、自分について考えられているなど、嫌悪感が抑えられなかった。そのたびに、歳三を邪険に思う自身が何より嫌になる。いかに傲慢で、弁えのない小娘であるか、胸に迫って苦しいほど思い知らされるのだ。

「僕、僕がわがままなんです……! あの人の心遣いが、自分の望んだ形じゃなくて……あれもヤダ、これもヤダ……自分じゃ何もできないくせして!」

 泣きじゃくる千歳を雅が抱きしめた。

「選びたないモンしかなくて、そやけど、選ばなあかんとき……あるよなぁ。ホンに……ホンに……そないなときは、世界が憎うてかなんわ」

 雅は千歳が落ち着くまで、ずっと背中を撫で続けた。しばらくすると、道場から総司と永倉が稽古をつける声が聞こえた。変わらず力強く、活気に満ちた声だった。千歳が顔を拭う。

「……すみません、もう大丈夫です」

「良えのよ」

 ふたりは無言で手を動かした。日が傾き始めたころ、雅が尋ねる。

「お仙さん、月役は?」

「……まだです」

「手当ては知ってはる?」

「ええ、一応」

「そうえ? そいでも、どこにいてもな、何かあったら、すぐに来はり。約束やえ? 良えな?」

「……ありがとうございます」

 千歳は雅に偽りを述べた罪悪感を持ちながら、微笑み返した。

 月役は既にあった。十二歳の終わりから、十三歳の夏にかけて、たった四回だけ。その後はない。女に最も望まれる役目が自身には果たせない証だった。同時に、まだ女でない証であるとも考えていた。まだ「仙之介」でいられるはずだった。

 しかし、千歳が自分自身を何と思おうと、千歳を説明する言葉──娘だとか、十五歳だとか、それらは、千歳を「仙之介」ではいさせてくれない。千歳が仙之介として前川邸にいられたのも、敬助が仙之介を守ってくれていたからだ。千歳ひとりでは仙之介を守りきれない。


 夜になり、雨が降り出した。寝る前に水を飲もうと土間へ降りた千歳は、雨音とは別に厨戸を叩く音に気付き、つっかえ棒を外した。戸の前には、雨と汗を垂らした三木が立っていた。

「すまない、局長はこちらか?」

「えっと、植野のところですが」

「では、副長方は」

 千歳は言い淀んだが、歳三に継ぐと答えて、脚を洗うように床下から盥を引き出した。

 雨夜、笠ひとつで三木は帰営した。兄と下ったはずの江戸で何かあったのだろうかと気にはなったが、今日は泣き疲れて眠かった。三木を副長部屋へ通すと、静かに勘定部屋へ入り、布団に潜った。


 旅装束のまま入室した三木は、執務室の北の襖が閉まっているのを見て、敬助はもう寝ているのかと尋ねた。歳三が襖を開けて見せ、敬助は切腹したことを伝えると、三木は祭壇に手を合わせた。理由を深くは問い返さなかった。

 伊東とよく似た柔和な顔立ちは、薄明かりの中でもわかるほど青く、眉間には深い皺が浮かぶ。歳三は兄弟の母がダメだったのかと察したが、執務室に戻り対面して座った三木は、まず母の無事を報告した。

「それは良かった。ご無事だったから、君だけ帰京したのかい?」

「いえ……今回は大変なご迷惑をおかけしました」

「三木くん。顔を上げたまえ、無事に越すことなどないだろう?」

 歳三が戸惑いながら促すも、三木は顔を伏せたまま、母が危篤との報は義姉による狂言であったと述べた。

「狂言……嘘だったのか?」

「申し訳ございません」

 三木は懐から伊東の文を取り出した。

 重い謝罪から始まった文には、今回の顛末が綴られていた。

 伊東は先代に認められ、その娘、美津の婿として伊東家に婿入りした。先代は既に亡いが、美津との間には、ひとり娘がいた。

 美津は伊東の上洛をその話が出た当初から反対していた。夫の身を案じることはもちろんだが、伊東の上洛は、先代が残した伊東道場の閉鎖を意味する。伊東は美津と離縁して、内弟子の中から新たに婿をとるように言ったが、美津はそれも受け入れなかった。

 結局、伊東の意志は変わらず、美津は娘と共に江戸に残ることになった。出立のさいは、本懐を遂げよと笑って送り出したが、伝え聞く京都の情勢や、天狗党の顛末もあり、不安に思い詰めて、偽りの文を書いた。

 事実を知った伊東は美津に離縁を言い渡し、それでも、隊士徴募の役目は果たすため、江戸に残った。

「ひとり残してきて良かったのかね? 三木くん」

「ご心配、かたじけのうございます。けれども、私が側にいては、兄も気丈に振る舞わざるをえないので」

「それも、そうだろうが……なんというか、ご苦労だったな」

「いえ……」

「伊東さん、鈴木に戻られるのか?」

「伊東のままです。いずれ、娘に婿を取らせるそうで」

「娘さんは、おいくつだね?」

「今年、四つになりました」

「四つか……。伊東さんも大変だな。ともあれ、今日は休みたまえ。まだ、お湯も残っているだろうから」


 千歳は布団の中で、隣室のやり取りを聞きながら、伊東夫妻に対する哀れみに、涙を浮かべていた。

 妻からの文と知った伊東の柔らかい微笑みは、いかに美津を愛していたかを物語っていた。その信頼を裏切った美津が悪いのだろうか。

 千歳には、美津のままならぬ焦燥もよく理解できる。伊東の身を案じ、道場の行末を思い、伊東を引き留めた心。それでも、旅立つ伊東を見送るさいには、泣くのを堪えていただろうこと。

 伊東を送るか、それとも、離縁するか。昨秋、美津に突き付けられた二択は、二択ではない。選べない選択と、さらに選べない選択。選ぶ余地があるように見えて、その実、一択なのだ。

 その点、伊東はズルいと思った。美津に、お前の選択だと選ばせて、自分の選択だからと逃げ道を奪う。しかし、妻に無理を強いてでも、国事に懸けたい伊東の志も、またよくわかるのだ。


 三木を送り出した歳三は、書類仕事に戻った。先月分の会計報告書を確認するため、勘定部屋との襖を開いたが、既に千歳が布団に入っていることに驚いた。

「な、お前……聞いてたのか? おい」

 千歳は動かない。それほど機密にすべき話でもなかったため、怒られはしないだろうが、とっさに寝たふりを図ってしまった。

 千歳の反応がないことを見て、歳三が静かに部屋に入り、長持を開けた。すぐに書類は見つかったようで、執務室に戻ると思いきや、歳三は千歳の枕許に座った。視線の先はわからないが、歳三は確実に千歳に膝を向けて座っている。千歳は動揺を悟られまいと、息を殺して歳三の気配を伺った。

 歳三はただ座っていた。千歳も身動ぎひとつしないように身体に力を入れていた。どれくらい経ったか、歳三が腕を延ばして千歳の布団を掴んだ。何のつもりかと千歳は身を強張らせたが、歳三は千歳の両肩にある隙間を埋めるように布団を上げると、部屋に戻って行った。

 千歳は身体の緊張が抜けないまま、閉められた襖を見つめた。そして、やはり歳三と暮らすことはできないと思い至るのだった。

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