八、受容

 朝食を用意する六兵衛たちの声で、歳三は目覚めた。勘定部屋の真ん中に布団を敷いての独り寝だった。

 起き上がり、雨戸を開ける。前川邸に来て、初めてのことだった。常には千歳が開ける音で、目覚めている。千歳がいないときは、敬助が開けてくれていた。千歳も敬助もいなかった数日は、まだこの部屋に総司たちがいたので、おそらく、早起きの井上が開けてくれたのだろう。

 敬助の訃報は、守護職邸にての会談中、尾形によってもたらされた。屯所へ走り帰ると、敬助の遺体は浄められ、光縁寺へ送られたところだった。弔う暇もなく、監察方と共に遺書の開封を行った。

 敬助の遺書には、身勝手に対する謝罪と、これまでの感謝が述べられていた。天狗党への言及はわずかだった。きっかけに過ぎなかったと、歳三はわかっている。

 敬助は幾度も副長の役を降りることを望んだ。そのたびに、歳三は留めた。仕事を減らし、内務に専念させた。それが、敬助に責任を果たせていないと思わせていたことは知りながら。

 敬助にとって、自身の立場は道理にかなった役職ではなかったのだ。焦りと自責が、敬助を常に緊張させ、体力を削らせていたのだろうと、今となっては理解できる。

 それでも、副長の職務とは、ひとりで担うには重かった。

 歳三は最後の雨戸を仕舞うと、執務室の障子を開けた。襖は全て取り払われ、北の広間までが続いて見える。新たな畳と襖は、発注済みだと遺書にあった。葬儀の金も、小さな墓石を建てる金も、敬助は用意していた。

 障子の枠を握る手が震えるのを見た歳三は、勢いよく閉めると、勘定部屋へ戻った。

 朝食の席で尾形を呼び止め、

「本願寺との話し合い。今日で決めるぞ」

と言い聞かせた。

 思い出にひたってはいられない。敬助が担っていた分の副長職務も、今や歳三が全て担うのだ。

 朝食を食べ終えるころ、啓之助と五郎が千歳を連れて厨に入ってきた。血色は冴えないが、倒れそうな顔色はしていないことに安堵した。


 あの日、歳三は遺書の開封が終わってから、隊士を文武堂へ集めるように言い残すと、着替えと称して副長部屋へ戻った。目の端に、襖の開いた勘定部屋の隅で、血まみれの千歳が倒れている姿を捉えたとき、歳三は引いた血の気がさらになくなる心地がした。

 思わず敬助を呼びそうになり、堪えた。

 厨で桶にぬるま湯を入れてもらってくると、歳三は手拭いを絞り、千歳の顔を拭った。青い頬が現れた。頭の中では、淡々と今夜の通夜式の段取りを追っていた。

 歳三が去年、千歳に見立てた辛子色の振袖には、元からの染め柄のように、赤茶まだらが浮いていた。染め直さなくては、もう着られないだろう。袖をまくり、腕を下り、指先を浄めた。足袋は、吸い込んだ血が既に乾き始めていて、肌から剥がすことに難儀した。

 爪の隙間にまで入り込んだ血痕を拭う間、歳三は努めて、葬式に呼ぶ弔問客を思い浮かべていたが、思考の隙間を突いて、敬助が生きた最期の証がこの娘の全身を染めていた実感に迫られ、涙がこぼれた。削ぎ落とすように、千歳の足を丹念に拭い続けた。

 着物を脱がせ、布団を掛けると、歳三は一年半振りに千歳の髪を撫でた。心労は察して余りあるものだった。


 そして、昨日の晩遅く、啓之助が執務室を訪れた。千歳と離れの一室に寝ることを告げ、手拭いや着替えを持って行こうとしていた。歳三は止めようとしたが、啓之助は、何度も「わかってますから」と繰り返して、千歳の行李を探った。

『……わかっているとは、どういう意味だね?』

『うーん、よく知りませんけど、大事な人なんですよね? 副長の』

 要領を得ない回答だったが、房楊枝入れを見つけた啓之助は立ち上がると、

「俺は弥生に一筋ですし、好みは年上です」

と言い切って、部屋を出て行った。

 歳三はしばらく動けずにいたが、その日は眠ることにした。考えることが多過ぎて、とても対応できなかった。


 一夜明けて、今。三人で朝食をとる様子を見るに、千歳がふたりに信頼を置いていることは感じ取れる。

 五郎は席を取ったり、膳を運んだりと世話を焼くし、啓之助による話しかけに対する反応は乏しいが、千歳も受け入れているようだ。関係性に問題はないはずだ。例え、啓之助が千歳を女と知っていたとしても。

 歳三は自身に言い聞かせると、汁椀の最後の一口を飲み切り、箸を置いた。湯呑みを手に取り、千歳を見つめる。

 これから、ひとりでこの娘を守らなくてはいけない。

 たしかに、千歳を幸せにする役は自分が担うと、月初めには誓いもしたが、業務が増すこの状況で、いきなり、一対一で向き合えるかと問われれば、無理だと言わざるをえない。敬助に頼れない今、この娘の処遇をどうするかを考え直さなくてはいけないだろう。


 歳三からの険しい目線を受けて、なお、千歳は顔を伏せていた。昨晩、部屋に帰らなかったことは咎められるべきことと心当たりがある。啓之助も、また、今夜あたりに呼び出しを食らうことを予想して、近藤の会合が長引くことを祈っていた。

 祈りに反して、今日の折衝相手は、近藤の妾宅を訪問するらしく、啓之助は夕方前に屯所へ帰ってきた。すぐに、監察方の島田に呼び止められ、北の広間にて敬助の私物の形見分けを行う千歳を手伝うように言い付けられた。

 広間では、千歳がひとり、行李の中身を広げて、涙を流していた。

(かわいそうに、誰か一緒にやってあげれば……って、その誰かが俺なのか)

 啓之助は千歳の向かいに座ると、広げられた遺品を見る。箱入りの扇子や未使用の手拭いなど、要らなければそのまま売れるような小物ばかりだった。

「君は何か先生のいただいた?」

「ううん」

「じゃあ、何かもらっておいたら?」

 敬助の刀などは、幹部隊士に分けられていた。蔵書は隊に寄贈され、着物は平隊士へと下げ渡されている。

「……いらない」

「山南先生も、お仙くんに使ってもらえたら嬉しいと思うよ?」

 千歳はちらと硯箱へ目線を向けたが、手を伸ばしはしない。

「じゃあ、俺、お仙くんの分ももらっておこう。欲しくなったらあげるよ」

 啓之助は硯箱から、小振りな硯と水差しを取った。

「良く整理されていったね、山南先生」

「そうだね」

「父さんのときは大変だったからなぁ」

「うん」

 三条木屋町の佐久間邸に比べると、敬助の遺品の数は、人がひとり生きていた所有とは思えない少なさだった。

 千歳は居室の祭壇と、その向こうに見える執務室の文机に置かれたままになっている紙入れを見た。

 昨日、あの料紙は確かに不可解な動きを見せた。

「……君は、人は死んだらどこに行くと思う?」

 千歳の問いに、啓之助は行李の中へ扇子の箱を戻しながら考える。

「うーん、俺……あんまり考えたことはないかなぁ。まあ、父さんは……地獄にはいないことを願うよ。お浄土にいるもんだと思ってる」

「そして、お盆に帰って来るの?」

「そうかなぁ」

「……五郎くんは、死んだなら魂は消滅して、なくなってほしいと言った」

「へぇ、意外。彼、そんなこと言うんだ」

「うん」

「俺はこの世から何かを完全に消すことはできないと思っているよ。魂でさえも。何らかの新しい形に変遷するはずだ」

 恐らく、啓之助の答えが、一般的な見解なのだろう。魂が消滅するとは、聞き慣れない感性で、恐ろしくも思える。

「……消えたりしないよね?」

「魂? さぁ、どうかなぁ」

 啓之助は、魂の行方にはあまり興味がないようだった。どこそこに行くものだろうと、自分が納得できれば、それで良いと言う。

「だって、どうせわかんないんだもん。自分に都合よく解釈したって、許されるんじゃないの? 死後の世界ぐらい」

「それは、死後の世界は、各人の認識に任されているということ?」

「うーん……けどさ、任されたって困るから、昔の偉い人が考えてくれた浄土とか幽冥界とかを、受容するんじゃない?」

 あくまで、啓之助は精神世界を現実世界とは切り離して考えているようだった。千歳も、今はその感覚を受容することにした。今の千歳にとって、幽冥界とは身に迫る現実に近いのだ。

 正面玄関の開く音がした。歳三が帰営したらしい。尾形と上機嫌に話している内容を聞くに、本願寺への移転が決したようだった。千歳は敬助の行李に蓋を閉めた。

「……お別れだね」

 夕食になり、歳三へ膳を運ぶと、今晩からは勘定部屋で寝るように言い付けられた。

「俺は執務室の方で寝るから。良いか?」

「わかりました」

「うん」

 副長部屋から、会話の声は消えた。


 千歳は、目覚めてすぐに、敬助の冥福を祈るようにした。寝ぼけた頭が、敬助はまだ生きているものと誤認する前に。千歳には敬助が伊東と同じく、急用で江戸に下っていると言われた方が納得できた。

 遠くにいるから、会えないだけだ。直近の消息を伝え聞くことができない者たちと、死者と、何が違うのだろう。

(例えば、浄土寺の和尚さまとか……お清さんとか……)

 千歳は米蔵の南で日を浴びながら、腹の丸くなった竹輪を撫でつつ、明練堂で召し使われていた下女の清を思い出していた。千歳が十一歳の冬に暇を出されてからは、どこにいるかもわからない。まだ四十四、五歳なので、生きていると見做すのが妥当だろうが、新たな消息を得られなければ、生き別れた者の死は、永遠に決しない。

(死を知らされるまで、当然に生が続いていると思うのなら……、知らされなければ、私の中で、お清さんは生き続ける)

 敬助の死をまだ知らない者たちも多いだろう。現実と認識、その隙間で、敬助はまだ生きている──生きていると暫定で見做す人が多くいるだろうことは、不思議に思えた。

 生死の事実は案外、重要なことではないのかもしれない。そう考えると、死を肉体のみの果てと見做して、霊魂が顕界から幽冥界へと移るという篤胤の説く死生観は、より強く千歳の中に受容された。

「竹輪もお母さまとか、きょうだいに会いたい?」

 喉を撫でられる竹輪が背中を擦り付けて鳴いた。その胎内には、もうすぐ生まれる仔猫がいる。猫と悲しみは無縁に思えた。

 敬助が死を選んだ理由は、「不調の中で、武士としての務めを果たそうとして」とのみ伝えられた。総司に聞いても、島田に聞いても、永倉に聞いても、それ以上のことは返されなかった。

 納得がいかず、井上には、

「先生が何を思って苦しんでおられたか、私たちが知っててあげなくて良いんですか?」

と涙目になって尋ねてしまった。井上は千歳の頭を撫でて、敬助は武士として立派だった、そう思ってやるだけで十分だと返した。

『山南さんが明かさずにいたんだ。だったら、ワシらも明るみに引き出しはしないのよ』

 信頼でもあり、誇りの尊重でもあるのだろうが、千歳には敬助の死を覆い隠されたような気がしてならない。

 それでも、千歳が受け入れられずとも、隊内では、敬助不在の非日常が緩やかに日常へと変わっていった。


 三月に入り、三日には嶋原で敬助の追悼の宴が角屋で行われた。冥福を祈って始まった宴も、進めば皆、銘々に騒ぎ合う。

 千歳は花君太夫のお付きである花野を座敷の隅に呼び出して、明里のことを尋ねた。花野は困った顔で、

「すんまへん、うち……明里姐さんのこと、ほとんど知らんのどす。堪忍なぁ」

と返した。千歳は花野が知っていながら、口止めされているだろうことを察し、顔を伏せた。

「元からいなかったんじゃないかって思うくらい、みんな平然と過ごすんだ。少しずつ、みんながその人の存在が消えたことを遠ざけ合う。穴を埋めるってこういうこと? それは、とても寂しい……」

 千歳が崩した膝の上で、組んだ両手を握り込んだ。花野はためらいを見せながらも、その手を包む。耳許へと口を寄せて、明里が髪を下ろして宇治の尼寺へ入ったとささやいた。

「内緒にしとくれやす」

「わかった……ありがとう」

 花野に握られた手の温もりを、千歳は目を閉じて受け入れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る