七、行方

 翌朝、啓之助が起きると、五郎は着替えを済ませて、白湯を飲んでいた。布団は律儀に畳まれている。床の間の時計はもうすぐ七字を指すころだった。千歳がまだ寝ていることを確認して、啓之助は小さな声で五郎に呼びかけた。

「おはよう」

「ああ、おはよう」

「眠れた?」

「そうだな、あまり。他所の布団では、元から寝付き辛いから」

「そう。お腹空かない?」

「あんまり」

「えー、じゃあ、お仙くん食べなかったのもらっちゃおうかな」

 啓之助は千歳が昨晩、ほとんど手を着けなかった膳を食べ始めた。五郎は床柱にもたれて、屏風の陰に見える千歳の布団が規則正しい呼吸で上下する様子を眺めていた。

「ねぇ、三浦くん」

「うん?」

「やっぱり、僕が残るよ。残りたい」

「そう、わかった」

 五郎は腰から小刀を外して、膝の上に抱えた。

「君……象山先生がお亡くなりになられたとき、どうだった?」

「あー、なんか……忙しくてさぁ、よく覚えてないんだけど──」

 葬儀の支度から、松代藩との事務手続きまで、在京の元塾生などが手伝ってくれた。何せ初めてのことで、言われるままに動き、口上を述べ、署名をした。ゆっくりと食事をとる暇もなく、食欲もないために、みるみるやつれた。加えて、松代から飛んで来た義母には、仇討ちを迫られたのだ。

「──それで、葬式の五日後には新撰組に入って、二日目にはどんどん焼けさ。そんなんだから、父さんの死とちゃんと向き合えなかったんだな。たぶん、まだ今も……」

 啓之助は食事の箸を止めることもなく続ける。

「お仙くんはさ、ちゃんと向き合おうとしてるから、だから、辛いと思う。特にさ、武家育ちってわけじゃないから、切腹に対する意味──重み? きっと、俺らと違うと思うし」


 啓之助が出て行くと、代わりに下男がやって来た。夕食の膳が片付けられ、ふたり分の朝食が出される。五郎は手を着けずに、床脇の戸棚から将棋盤を出して指していた。八字の鐘が鳴り、千歳が起きて来た。

「……おはよう」

 五郎は返事のないことを予想しながら呼びかけるが、千歳は小さな声で返した。

 ふたりはほとんど言葉を交わさずに過ごした。千歳は厠に一度立った他は、窓から中庭の梅を眺めるばかりで、浴衣から着替えもしなかった。昼の鐘が鳴る。ようやくお腹が空いていたことを認め、朝食に手を着けると、五郎も共に食べた。

 もう敬助の葬儀は済んで、野辺送りが行われているころだろう。

 浄土寺にいたころのことを思い出す。近隣の農家での葬儀があり、千歳も手伝いに出た。まだ若い夫を水難で亡くした後家は、野辺送りのあと、和尚にこぼしていた。


『遅くなったよって、今夜ふらっと帰ってくるんじゃないかって』


 実感が湧かないのだ。病の末に亡くなる場合、覚悟も定まるし、別れを惜しむこともできる。しかし、突然に亡くなられては、その不在が死によるものだと、自分自身にわからせることができない。

 それでも、人の死とは、己の得心とは無関係なところにある。天命とか寿命とか言うとおり。

(でも、芹沢先生は……殺された。寿命とは関係なく)

 芹沢は殺されはしたが、生きたいとは思っていたはずだ。敬助の場合、どれも違う。自ら、まだ先の長い生命を絶った。

(──それも、武士だから?)

 千歳は、まだ敬助が何を思って死を選んだか、聞き及んでいなかった。聞くことは怖い。聞いて、それが納得できないものだとしたら、敬助の死そのものを拒絶してしまいそうだと思った。自分は、あれほど世話になった敬助の最期に、手を合わせてやることもしない不幸者だ。その上、友人まで巻き込んだ。

「君も行ってくれて良かったのに……」

「残りたいって言ったんだ。三浦くんに」

「……うん」

 鶯の鳴く、穏やかな春の日だった。ふたりは並んで中庭の窓から空を見た。千歳は付書院の台に組んだ両腕を乗せ、顔を半分埋めている。右の半身には、寄り添う五郎の熱を感じていた。

「……人の死が、怖いんだ」

「うん」

「山南先生はご立派だったの?」

「うん……介錯なく果てられたから」

「……それは、ご立派なんだ」

 五郎は答えられなかった。千歳が言いたいことは、切腹が立派なのかどうか自体ではないとわかっている。しかし、敬愛した師匠の死を受け入れてやれないことは、何とも悲しいことに思えた。

「武士とは、死に臨んで動じない姿勢を持つものだと、僕は説かれて育ったよ」

「死は怖くないの? 武士なら」

「……怖くても、怖がらない。大前提として、死は怖い。しかし、その恐怖を乗り越えられる自律心を持つ者こそが、武士であるということだと思う。だから、山南副長は武士であり、ご立派だった」

「──先生がご立派だったことはわかるよ……!」

 千歳の目から涙があふれる。五郎はためらいがちに、その前髪を撫でた。今の千歳に気力さえあれば、走り去っているだろうことを察した。

「……すまない、仙之介くん」

 千歳が首を振る。五郎はゆっくり息を吐きながら、千歳の髪を撫で続けた。

「人は……し、死んだらどうなるの?」

 千歳のか細い問いに、髪を梳く五郎の手が止まり、迷いを見せたのちに問い返す。

「……君は?」

「わかんない……何も……」

「僕もわからないけど──」

 五郎は千歳の背中に手を回した。触れていなければ、千歳までどこかへ行ってしまうような気がしたのだ。

「霊魂の行き着く先は、やはり、あるような気がする」

「幽冥界?」

「──とか、黄泉の国とか、浄土とか。だけど……僕は、死んだなら霊魂は消滅してくれたら良いと思う」

 低い陰った声に千歳が顔を上げると、五郎は遠くを睨むような険しい顔をしていた。

「……消えてしまいたいの?」

「死んだらそれでお終いにしたい、生まれ変わりもしないでほしいから」

「それは解脱したいってこと?」

「そうかな……死んでもなお、自分の一部が残るよりは、消えてなくなると思った方が安心する」

「霊魂が消えないよりも……?」

「うん。僕の生は、生まれ出て始まり、死して終わる。全て終わる。だからこそ、現世で一事を成し遂げたい」

 死生観の論議は、千歳に冷静さをもたらした。口にはしないが、五郎も死に対する恐れを抱いていると感じたのだ。千歳が五郎の肩を撫でる。

「そっか……消えてしまったら、祈っても届かないね」

「……そうだね」

 泣き疲れた千歳は布団に潜った。重い身体は妓楼の柔らかで厚い布団に沈んでいった。何の夢も見ず、目覚めると、時計は四字を指していた。

 五郎は隣の布団で寝ている。千歳は起き出して着替えると、階下へ降りて、髪結を呼んでもらった。赤毛の房は、いつもより高めに結い上げられた。

 部屋へ戻ると、五郎も起きて身支度を整えていた。

「帰ろうか、五郎くん」

「ああ」

 暮れ始めた坊城通をふたりは無言で進んだ。道脇の桜は、蕾が丸みを帯びて、開花の日を待つ。


 副長部屋の障子を開けると、畳の剥がされた執務室には、本箱や長持、文机に布団と、居室にあったものも含めて、雑多に物が積み上がっていた。対して、襖が取り払われた居室の中央には、榊や酒が置かれた白木の祭壇が置かれるのみだった。

 歳三はいない。隣の勘定部屋では、月末に向けて、決算が行われているらしく、算盤を弾く音が漏れ聞こえた。厨からは、食器を広げる音、菜を刻む包丁の音が聞こえ、米が炊ける甘い香りもした。

 前川邸の様子は常と変わらない。目の前に広がる副長部屋の光景だけが、敬助が死んだという事実と非日常を突き付けてきていた。

 敬助の文机に座る。千歳もよく貸してもらっていた。敬助は遺書を認めたのだろうか。そうだとしたら、この机を使ったのだろうか。

 敬助の硯箱も紙入れも、変わらずに置かれていた。紙入れを探ると、底の方から千歳が馬越よりもらって、この箱に入れた薄絹の料紙が出てきた。お礼と言って、敬助は矢立と帳面をくれた。矢立は大火の混乱で落としてしまったので、また新しいものをもらった。帳面はもう三冊目の半ばに至った。

「……先生、先生」

 千歳の涙が黄味がかった料紙に落ち、いくつものにじみを作った。

(先生がいない……もう、いない……! もう、先生の声は聞けないし、頭も撫でてもらえない……!)

 わかってはいるが、千歳はどうしても敬助が死んだことを認識できない。

(……私がわかんないって言ったら、わかるまで教えてくれたのに!)

 千歳が机に伏したとき、暖かい春風が部屋に吹き込んだ。白梅の花弁が入り込む。千歳が顔を上げると、薄絹の料紙の端が上下した。風にあおられたにしてはゆっくりと、折り目もないのに、きれいに折れ曲がった紙の端は、何度も揺れた。

 千歳はすくみあがって、部屋を走り出た。厨を抜け、東庭の厩舎へ飛び込む。飼い葉の上で寝そべる竹輪が何事かと顔を上げて、青白くなって震える千歳を見ていた。


 夕食後も、千歳は副長部屋へ戻らず、土間の上がりに腰掛けていた。

 いつもなら、千歳が暇そうな素振りを見せた瞬間に仕事を言い付けてくる六兵衛も、石のように動かない今の千歳には何も言わない。昆布茶と来客用の羊羹とを盆に乗せて、黙って千歳の側に置いてくれた。夕飯を半分以上、残したことを知っているのだ。

 千歳は、羊羹を一口だけ食べた。甘いものは何でもおいしいと思えたはずだが、この羊羹はただ甘いだけだった。

 千歳は敬助の側にいながら、死の算段に気付けなかったことを悔いた。思い返せば、身辺整理をしていたし、食事もとらなくなっていた。前の晩には、幽冥界を語り、側にいると諭した。

 今思えば、この十日ほどの敬助の行動には、一本の糸が通っていたとわかる。

 広間からは隊士たちがひとり減り、ふたり減り、やがて、六兵衛たちも仕事を終えて厨を下った。千歳はひとりで、上がりに腰掛け続けた。

 開いたままの紙入れも恐ろしいが、敬助と一年以上、共に過ごしたあの部屋で、敬助がいないことを感じて眠ることが怖かった。

「──おい」

 声音で歳三と知れた。近藤と共に出向いていた守護職邸より帰ってきたのだろう。

 聞こえないふりを画策したわけでもないのに、千歳の身体は動かなかった。ため息のあと、歳三の歩む衣擦れの音は背後を周り、南の廊下へと抜けて行った。

 大刀を置いた啓之助が千歳の隣に座る。

「お部屋、帰らない?」

 千歳は首を振った。啓之助は小さく息をつくと、立ち上がり言う。

「離れに泊めさせてもらおうか」

 千歳の手を引いて、啓之助は厨を出た。

 離れの玄関を開けると、啓之助は出て来た内海に、前川邸の母屋では寝る場所がないので、伊東兄弟の部屋を使わせてくれと依頼する。内海は一言、了承を述べると、ふたりを奥の間に案内した。

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