六、永訣

 夜が明けて、二十三日の日が昇った。

 敬助はいつもどおり顔を洗うと、千歳に袴を着付けてもらい、帰営した歳三と共に副長部屋で朝食をとった。少量の白粥だった。

 守護職邸へ出向く近藤と歳三を見送ってから、副長部屋へ入る。千歳には、「少し大事な書き物」をするため、執務室へは近寄らないように言い付けた。

「わかりました。お昼、どうしますか」

「かまわないよ」

「じゃあ、お粥、用意だけはしておきますね。温め直して食べれるように」

「ありがとう」

 敬助の目は、障子戸を閉める千歳の赤毛をぼんやりと捉えていた。

「さて……」

 慣れ親しんだ硯箱を開き、墨を磨る。

 近藤と歳三とそれぞれに宛てて遺書を認め、歳三の文机の上に並べ置くと、敬助は居室の襖を静かに閉めた。


 正午の鐘が鳴り、千歳は五郎と共に昼食をとった。五郎が昼の巡察に出掛けて行き、昼までの巡察に出ていた隊士たちが昼食を食べ終わっても、敬助は部屋から出てこなかった。

 六兵衛に言われた千歳は、副長部屋の障子戸の前に座り、中へ声をかける。三度、声をかけるが返事はなかった。首を傾げて、東隣の勘定部屋を訪ねる。

「すみません、山南先生、出かけられました?」

「先生? そないなことないと思うねんけど」

 部屋の中で算盤を弾いていた兵庫と河合が、目を合わせて顔を振った。

「奥で休んではんのと違う?」

「そうかもしれないですね。失礼しました」

 千歳は障子を閉じると、再び副長部屋の前に座り、先程より大きな声で問いかけた。

「先生? 開けますよ?」

 一呼吸置いてから、千歳は障子を開けた。執務室には誰もいないが、なぜか布団や行李など、居室に置いてあるはずの荷物が部屋の中央に置かれていた。

 千歳は荷物の山を避けて進み、居室の襖に手を掛ける。ふと、鉄のにおいを感じた。

 不思議に思いながら開けると、居室には一面に鮮血が広がり、中心には敬助がうずくまって倒れていた。

 千歳は声も出せず、敬助に駆け寄る。少し粘り気のある赤い水を跳ね上げたその三歩、足袋に染み込む冷たさから、もう敬助には千歳の声が届かないことを悟った。

「せ、先生……先生……嫌、なんで──なんで──」

 視界が昏み、全ての音が遠くなった。身体が平衡感覚を失い、千歳は敬助の傍らに倒れ込む。荒い息をしているはずが、聞こえない。手足は震えて、鉛のように重かった。

 千歳は力を振り絞って、居室を這い出た。執務室の長持と積まれた荷物との間を抜ける一間の距離が、あまりにも遠く感じられた。

 なだれ込むように、勘定部屋への襖を開けた。

「さ、酒井くん──!」

 兵庫が悲鳴を上げて、血塗れの千歳を抱きかかえた。

「これ、これ! しっかりしぃや!」

 河合がふたりの傍を駆け抜けて、千歳が着けた赤い痕跡を辿り、居室の様子を知る。河合は一瞬、身を震わせると、廊下へ飛び出した。

「副長助勤、集めてや! 副長助勤、いる人、全員集まりぃ!」

 広間に向かって叫ぶ河合の声を聞いて、千歳の意識は途絶えた。


 気付くと千歳は勘定部屋の隅に寝ていた。血に濡れた着物は脱がされたのか、襦袢しか着ていなかった。掛けられた布団から抜け出すと、両手両足の見える範囲はきれいに拭われており、血痕はほとんど見当たらない。

 南の障子戸は、ほのかに赤く、辺りは静寂としていた。部屋を見渡すと、執務室に山積みにされていた行李や布団が、今は勘定部屋に積まれている。千歳は自分の行李から着物を出して着替えた。

 執務室の襖をわずかに開ける。誰もいない。文机や長持どころか、畳も全て持ち出され、板間となっていた。

 何もなくなった副長部屋に入る。北の襖も外されており、同じく居室も、板敷のままだった。床を浄めたさいに砂を撒いたのか、歩みを進める度に足裏が痛んだ。

 もしかして、全て夢だったのではないか。敬助は切腹などしていない。なぜなら、あれほど物がたくさん置かれていた副長部屋に何もないなど、おかしすぎるから。

 そうだ。この光景自体、夢に違いない。覚めたら、また敬助に粥を出して、着物から綿を抜いて、洗って、仕立て直して、春支度を整えなくてはいけない。

「お薬、準備しなきゃ……」

 千歳は呆然としながら、広間に出た。

 やはり、夢に違いない。いつも人のあふれる屯所内に声がしない。夕方なのに、支度をする賄い方が誰もいない。

「夢ってわかるのに、覚めないんだ」

 厨を出て、裏門をくぐる。嵯峨野に浮かぶ金色と紫色とに織り合う空が美しかった。寂寞の中に、鶯が鳴く。しばらく耳を澄ませていると、千歳の耳は人の声を捉えた。文武堂からだった。

 近付くにつれ、すすり泣く声が大きくなった。何人もの男の声だ。千歳が格子窓から中を覗こうと手をかけると、入り口の引き戸が開いた。

 顔を赤黒くして、涙を湛えた近藤が、口を真一文字に結んだまま出てきた。千歳は気迫に押され、数歩、後退った。近藤の後ろを歳三が顔を伏せて追う。井上が声も抑えずに泣き、島田と永倉がそれを支えて歩く。総司も涙を拭いながら速足に坊城通へと出て行った。

「ご立派だった……」

「さすが、武士の中の武士であられた」

 誰ともなく、口々に言いながら、何人もの隊士たちが、目の前を通り過ぎて行く。千歳のことに気付く者はいない。千歳も普段慣れ親しんだ人たちの見知らぬ表情に、やはり、現実味を持てないまま、突っ立っていた。

「お仙くん!」

 啓之助が千歳の腕を引いた。

「……なあに?」

 気の抜けた返答に、啓之助が顔を歪めて千歳を抱き寄せた。

「三浦くん? ねぇ、三浦くん……?」

 千歳の耳元に啓之助の嗚咽が響き、首には涙が落ちた。その生温い水が首筋を這う感覚に、千歳は冷え切った身体全身へ、素早く血が巡り行く気配を覚えた。

 急激に頭が冴える。敬助は死んだ。紛れもなく、死んでしまった。だから、皆が泣くのだ。だから、啓之助は泣いているのだ。

「──先生!」

 千歳の身体から力が抜けて、涙がこぼれ落ちる。啓之助は支えきれずに、千歳と共に文武堂の壁に寄りかかってしゃがみ込んだ。

「仙之介くん……」

 道場から五郎が出てきて、泣きじゃくる千歳に手を差し出して、立つように促した。啓之助も顔を拭って立ち上がる。

「仙之介くん。今から光縁寺さんでお通夜あるから。行こう」

 千歳は泣きやまずに首を振り続ける。

「……行くよ、仙之介くん! 最後にご挨拶、しないと!」

 五郎も涙声だった。立って、通夜式に出るよ。五郎は何度も繰り返すが、千歳は泣くばかりだった。

「……行かない!」

「行かなきゃ」

「──行かないもん!」

 五郎の手が千歳の腕を掴んだとき、千歳は五郎を突き飛ばすように立ち上がり駆け出すと、光縁寺へ向かう隊士たちのまばらな列の流れに背を向けて、坊城通を下った。

「仙之介くん、仙之介くんったら──!」

 桑のそよぐ夕暮れの道を千歳は駆ける。その後方を、啓之助と五郎が追った。泣いて呼吸は乱れているはずなのに、千歳との差は縮まらない。

「お仙くん、待って! わかったから、わかったから、待って──!」

 肩で息をして遅れを取り始めた啓之助を置いて、五郎は駆けた。この前も思ったが、千歳の脚は速い。

「仙之介くん!」

 五郎の声は麦畑に響くばかりで、千歳には届かない。五郎は下駄を脱ぎ捨て、袴を両手でからげた。あと少し。伸ばした手が千歳の腕を掴んだ。引き寄せて、止まらせると、千歳は抵抗なくも座り込み、その場で静かに泣いていた。


 日は落ちて、三人は麦畑の土手に寝転んでいた。啓之助は眼鏡をかけて星を見上げ、五郎は両腕を枕に目をつむる。千歳はふたりの間に身を横たえて、啓之助が時々指し示す星に目をやっては、逸らしていた。

「三つ子星。西洋ではね、とても強い武人の姿を見るんだって。あの赤い星が肩で、三つ子星を挟んだ対角にある青い星が足」

 啓之助が伸びをして起き上がる。一風、強く東風が吹き、千歳が身震いしてクシャミをした。

「ねえ、もう──」

 半身を起こし、帰ろうと言いかけた五郎を、啓之助が首を振って留める。五郎は険しい顔を見せるが、千歳との間を詰めて、再び寝転んだ。啓之助が千歳の前髪を撫でる。血で固まっていた。

「ねぇ、今日は外泊しちゃおうか……もう、俺、帰りたくないよ。ダメかな?」

 千歳は応えないが、啓之助は立ち上がる。

「今夜は亀屋に泊まりましょう。お腹も空いたしね。中村くん、俺、先行ってるから、お仙くん連れて来て」

 有無を言わさぬ勢いで、啓之助は坊城通に上がると走って行く。取り残された五郎は、動く素振りも見せない千歳と並んで黙っていた。

 暮れの二十八日を思い出す。北野からの帰り道で、遠からず隊を出ると言った千歳の寂しそうな様子に触れて、五郎は言葉をかけられずにいた。今もそうだ。今の千歳には何を言っても受け止めてもらえない気がする。

 風が出てきた。まだまだ夜は寒い。それでも、五郎は、もう行こうとも言えず、また、抱きしめるほど近付くこともためらわれるのだった。

 結局、戻って来た啓之助に引っ立てられて、千歳は嶋原の亀屋に上がった。啓之助は、明日のことを五郎と話すからと、千歳を先に風呂へ向かわせた。

 十畳間には五十匁蝋燭が四隅に立てられている他は、屏風が一対と、座布団が三枚置かれているだけだった。まだ、酒膳は出てこない。ふたりは斜向かいに座った。

「話って?」

「大したことじゃない。明日、辰の刻には光縁寺に行くってこと。たぶん、巳の刻から葬儀だから」

「わかった」

「お仙くん、行けないかもって副長に伝えてもらったからさ、その時は俺も一緒に残るから、君ひとりで行って」

「うん」

「以上」

 啓之助は小刀を外すと、袴を脱いで屏風に掛けた。五郎は座ったまま、その様子を見ていた。

「……山南副長、そんなに体調がお悪いようには見えなかった」

「詮索は止せよ。局長がそう言われたんだから」

「詮索したくもなるだろ。こんなに突然、説明も簡単」

 夕方、全隊士が集められた文武堂では、敬助が体調不良のなか、隊に貢献しきれないもどかしさを抱えており、最期の勤めとして切腹に至ったとの説明がなされた。

「嘘とは思わない。だが、それだけか?」

「……頼むから、それをお仙くんの前で言うことだけはやめてくれよ」

 啓之助に睨まれ、五郎も鋭い視線を返した。まるで、自分ばかりは本当のことを知っていて、自分の方が千歳に配慮しているような口振りではないか。考えるまでもなく、近藤に着いている啓之助のことだ。新参者の五郎より、持っている情報は格段に多いだろう。

「──お膳、お持ちしましたぁ」

 気勢を削ぐような長閑な京言葉が廊下から聞こえた。啓之助が手を伸ばして襖を開ける。下男を迎え入れる声は、こちらも明るくいつもどおり呑気なものだった。

 千歳が風呂から戻ると、既に食べ終えた五郎と啓之助は手持ち無沙汰に背を向け合っていた。

「髪、拭いてないじゃないか。風邪ひくよ、まだ寒いのに」

 啓之助が浴衣の入った広蓋から手拭いを抜き取ると、千歳を座らせて髪の水気を拭いた。

「食べて。昼間から食べてないんでしょう」

「……いらない」

「じゃあ、汁物。お風呂入ったんだから」

 千歳は答えなかったが、大人しく汁椀を手にしたようだった。五郎はふたりに背を向けて、百花の描かれた金屏風を眺めていた。屏風の向こうには、三組の布団が窮屈に延べられている。


 啓之助は千歳を奥の布団に追いやると、自身は真ん中の布団に入った。

「中村くん、俺たち起きてなくても、君は先に行ってて。着替えたり、あるだろうし」

「ああ」

「んじゃ、おやすみ」

 啓之助が枕元の行燈を吹き消す。くぐもった三味線の音や笑い声が途切れとぎれに聞こえた。三人とも寝付けず、部屋には寝返りや身動ぎの衣擦れが響く。床の間に置かれた時計の歯車が、妙に大きな音を立てていた。

「この前、山南副長にお説教受けたときにね」

 啓之助が急に話し出した。

「友人を大切にしなさいって言われたさ。いずれ別れが来ても、楽しかったころの思い出は、一人で歩むときの力になるからって」

 千歳が頭まで布団をかぶって、鼻をすすった。啓之助は布団の上から千歳の背中を撫でると、

「俺は君たちのこと、大切にしたいよ」

と言って、欠伸をすると、静かになった。

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