五、支度

 五郎との夜話を終えて、離れから戻った千歳は、歳三より敬助が外へ出たと知らされ訝しんだ。

「こんな遅くにですか? 夕食もお粥だったのに……」

「急ぎの会合ができたんだ。明日、帰って来ても聞くんじゃないぞ」

「……はい」

 隊の所属に関する折衝が難儀していることは、千歳もよく聞き及んでいる。

 翌朝、帰営した敬助の羽織から明里の薫物が香ったので、行き先は嶋原と知れた。会津藩相手の場合、北野か祇園が多いので、昨晩の会合相手は誰だったのだろうかと思わず考えたが、詮索するなとの歳三の低い声が耳に浮かんだところで、千歳は思考を止めた。

「先生、朝はお粥にしますか?」

「そうだね、そうするよ」

「お薬、先に持ってきますね」

「ありがとう」

 微笑む敬助は、いつもと変わらず穏やかだった。

 

 隊を取り巻く環境は厳しいもので、啓之助は近藤に従って、大坂へ下ったかと思えば、翌日は祇園へ出向き、また休みなく大坂へ戻るといつ忙しない日々を送っていた。ある晩、遅くに帰ってきたかと思いきや、

「これ以上、弥生に会えなかったら死んじゃう!」

とだけ言い残して、出て行った。近藤も笑って許したが、啓之助が行うはずだった局長部屋分の洗濯物畳みは、千歳の仕事となって舞い込んできた。近藤は詫びと言って、煎餅の小袋を渡してくれた。

 世情の一方、屯所の中は穏やかで、千歳の衣替えは進んだ。綿入を解いて、洗い干しをし、再び袷に縫い直す。歳三が出かけている間は、執務室で書類を広げて要不要を改める敬助と話すでもなく話しながら、針を動かす。執務室に入れないときは、雅と並んで庭の椿を見ながら。

 北風の冷たい日、伊東の講義があったはずの時間に、千歳と五郎は、たまには手合わせしようと、文武堂にいた。木刀を構える五郎に、千歳は小太刀の形で打ち込む。受け手を代わりあって、半刻ほど続けた。

「君、好きだね、小太刀」

 道場を出て、坊城通を横切りながら、五郎が言った。春にしては冷たい風は、稽古終わりの体温を心地よく下げる。

「好き……というか、一番練習してきたからな」

「どうして? よっぽど使わないじゃない」

「うん。でも、場所取らないから、小太刀」

「室内戦か」

「まあ、そう」

 千歳の想定は実戦ではない。明練堂の女将に隠れて納屋で素振りしたり、木刀を神社の軒下に隠したりと、日常での卑小な理由だ。

 離れの前で、着替えたらお茶にしようと一旦別れ、千歳は副長部屋へ戻る。居室では、敬助が行李の中身を出して並べていた。

「何か探してます?」

「ううん、整理をしようと思って。増えるばかりだったからね」

「あー、もうすぐ引っ越しですからね。ちょっとずつやっておかないと」

 千歳は着物を掛け置いた衝立の奥に周り、道着を脱ぐ。

「副長も、ちょっとは着物減らして欲しいもんですよ。身体はひとつなんですから」

 千歳と敬助の着物を合わせても、なお、歳三の持つ量の方が多いのだ。敬助が、総司と稽古をしてきたのかと尋ねる。

「いえ、五郎くんとです」

「相変わらず、仲がよろしい」

「……ふふ」

 敬助の耳に届いた照れ笑いは、やはり娘らしいものだった。友人とは良いものだと言えば、からかわれるから嫌だと返される。敬助も笑った。

「うらやましいんだよ。大人になると、なかなかそうはいかないんだから」

「……? 竹馬の友とは言うのに?」

「竹馬に乗って遊んだことを懐かしみ合う友人……ということは、もう竹馬には乗らないんだよ」

「ああ、ふうん?」

「結び付けあうものは変わるのさ」

「いつまでも無邪気じゃいられませんもんね」

「そうだね」

 五郎とは、大人とは何か、いつから大人と見做されるのかを考えた。それは、ふたりがまだ子どもである証でもあったようだ。


 夕方から風が強くなり、冷え込みは一層深まった。夜遅く、近藤を妾宅に送ってから帰ってきた啓之助の羽織は、雪で濡れていた。啓之助が袖口に立つ雪の結晶を、提灯にかざして見せながら言う。

「春の雪は水分量が多いから、形が複雑でおもしろいよ」

「春の雪は水っぽいの?」

「んもう、ほんに水っぽいお人や」

 啓之助が急に女声を出して、袖を払うと、提灯の火を吹き消した。

「明日、観察してみよう。名残雪だろうから」

「積もってるかなぁ!」

「きっとね」

「あ、起こしには来ないでね」

「あははー」

 啓之助は了承を示さないまま、大刀を部屋に置きに入って行った。

 翌朝、雨戸を開けると、予想通り、南の庭の白梅の一々にまで雪は薄く積もっていた。まだ解いていない綿入を着込むと、千歳と啓之助は東庭に出て、匙で淡雪をすくっては漆盆に落として、形を観た。冬のものより、枝の太い結晶だった。

 日向の雪は昼前に溶けて、千歳は敬助より借りた下駄でぬかるみを避けながら、街へ向かった。敬助からの依頼のひとつは、整理した着物を売って、新しい肌着を買ってくること。もうひとつは、引っ越しに際して新しくする畳や襖の相場を確認してくること。千歳は用事を済ませると、団子屋に寄ってから帰営した。

 敬助の荷物整理は、行李ひとつに収まる量にまで減っていた。

 夕食前、千歳はいつも通り敬助に薬湯を運んだ。ここ三日、敬助は白粥ばかりを所望していた。顔色はむしろ良く見えた。

「胃を痛めていたからね、しばらく。休ませたいんだ」

 敬助は心配そうな顔で空いた椀を受け取る千歳の頭を撫でた。約束事のように、千歳の頬が膨らむ。敬助は笑いながら、さらに撫で続ける。千歳の頬が限界まで膨らんだとみると、両手で包んで、その風船を潰した。

「遊ばないでください!」

 千歳の抗議に敬助は声を立てて笑った。

「はははは、すまないね。どうにも、良い子は撫でてやらなくてはいけない気がしてね」

 敬助はもう一度、千歳の髪を整えるように優しく撫でると、手を引いた。

「ははははは」

「もー、何がおかしいんですか! やめてくださいよ!」

 拗ねた千歳が所作も悪く立ち上がる。礼もせずに出て行こうとする千歳を呼び止めて、

「すまないね。お粥、あとで頼むよ」

と敬助は穏やかに言った。

「はい! わかりました!」

 千歳の返答は、語気が強いままで、それにも、また敬助は笑うのだった。


 二十二日の昼。敬助は昼見世の開く時間に合わせて、嶋原へ向かった。尋ねた先は、明里を抱える置屋だった。落籍の金を払いに来たのだ。

 手代が奥の部屋で勘定を確認している間、敬助は女将に文を差し出した。

「明日の夜だ。仕事が終わったら、渡しておくれ。驚かせたいから、それまでは内緒だ」

「へぇ。せやけど、センセもなかなか粋なことしはりますなぁ。江戸から戻ったときに、君の待つ家に帰りたいなん、ほんま、素敵やわ」

「こういうときくらいはね、漢気を見せたいんだよ。哀れな男の性というものさ」

「哀れなもんですかいな。万事、任せてください、センセ。責任持って、明里、送り出しまっさかい」

 そして、敬助は明里に最後とは告げぬまま、逢瀬を楽しんだ。夕方、嶋原大門を出て壬生へ戻る敬助の心は晴れやかなものだった。

 もうこれしか道はないと思い定め、少しずつ、支度を整えた。

 死へと向かう心持ちは、存外に悪くない。もう、御霊の半分ほどは、顕界を離れつつあるような気がするほど、身体は軽かった。

(やはり、僕は弱い男だ)

 涙を流す近藤に重ねて願うことも、隊を見捨てて自分ひとりで行動を起こすこともできない。しかし、このまま天狗党の処断から目を逸らして何事もなく、歳三との間に圧倒的な仕事量の差があるなか、副長と名乗り続ける強さもない。

「美しいなぁ……」

 道の両脇には桑の葉が茂り、その向こうには麦畑が夕焼けに赤い。春の風が、しめやかに吹いた。

 敬助は、ここ一年続いた不調の原因がわかったような気がした。


 亥の下刻、近藤と啓之助が帰営すると、局長部屋には敬助が座っていた。初めてのことに、近藤も驚いた様子を見せたが、敬助が穏やかな口調で話があると切り出したため、啓之助は静かに部屋を出て障子を閉めた。

 土間に降り、竃に持たれて余熱に温まる。夜遅くまで副長部屋に入れないことが多い千歳直伝の寒さ凌ぎの法だった。

 ほの明かり局長部屋では、敬助と近藤が向かい合って座る。敬助は新撰組の京都残留のために奔走する近藤の労を重ねて労った。

「──そして、大変なご迷惑をおかけしましたこと、お詫び申し上げます」

 敬助は手を着いて頭を下げた。

 夕方、歳三より聞いた話では、雪の降ったあの日、十九日にも、さらに七十五名が処刑されたとのことだ。

「私の感情に任せて、あなたには無用の心労を強いました。ひとえに私の弱さです。申し訳ありません」

「山南くん……顔を上げたまえ」

 いつもは朗々とした声が、今はか細いものだった。顔を上げれば、近藤の寄せられた太い眉の下で、黒目がちな目が敬助の姿を映していた。

「君の勤王の志はよく知っている。私の力が及ばず、こちらこそ、すまないと思っている」

 頭を下げようとする近藤の肩に手を添えて、敬助は留めた。

「近藤さん。私はあなたに拾ってもらってからの七年間、あなたに感謝しかありませんよ。神田の隅で燻ってた私を、京都にまで連れ出してくれた。共に、皇国の未来を憂い、京坂を駆け回った。ありがとうございます」

 敬助がもう一度、礼をすると、近藤の手が肩に触れた。

「山南くん、これからも頼む。きっと、新撰組は京都に留まる。力を貸してくれ」

 敬助は応えずに、一段深く頭を下げると部屋を出た。


 土間では、啓之助が竃にもたれ、羽織の裾で眼鏡を拭いていた。敬助に気付き立ち上がる。

「あれ、もう終わりですか?」

「うん、待たせたね」

「いいえー」

 啓之助は眼鏡をかけ、草履を脱ごうと土間の上がりに腰掛ける。敬助は隣に座った。向けられた啓之助の顔は、怪訝が浮かぶ。

「おや……眼鏡、目が小さく見えるんだね」

「そうですよ。その分、よく見えるんです。試してみます?」

「いやぁ、いいよ」

「先生だって、目は結構、お悪いでしょう? モノは試しです。節のひとつひとつまで見えますから」

 啓之助は床板を指の背でコンコンと叩くと、眼鏡を外して、敬助の手に持たせた。敬助が仕方なしに眼鏡を顔に近付ける。視界が歪んで、目が眩んだ。

「うわ……これは……」

「大丈夫です。掛けて、ゆっくり目を開けてください。ほら……どうです? 馴染んでくるでしょう?」

「ああ……そうだね。なるほど、よく見える」

 敬助は二、三度うなずくと、眼鏡を外して啓之助に返した。啓之助は懐からビロードの袋を取り出して、中に仕舞う。

「掛けていないうちは、目が悪いこと、気にならないんですよ。もっと見えるって知ったときに、自分は目が悪かったって本当の意味で気付くんです」

「ふうん、その考え方は学問とよく似ているね」

「はぁ、そうですか」

 興味のない返事に、敬助は苦笑いする。自分の好きな物事は人に勧めるくせに、他人の興味には無関心なのだ。

 啓之助の興味は、ここ十日ほどの間に、敬助が何度も嶋原へ足を運んでいることだった。

「随分、珍しいじゃないですか。どういう風の吹き回しですか?」

「ああ、あれだ。春になると活発になるというやつだ」

「猫ですか」

「はははは。それは置くとして」

 適当な返しが見つからなかった敬助は、話の矛先を啓之助へ逸らす。

「君こそ、嶋原通いはなくならないね」

「えー、最近は別にお仕事抜けて行ってないですよー。というか、ずっと局長の外回り忙しいんですから、たまには良いじゃないですか」

 千歳との洗濯の分担は仕事ではないのかと、敬助は啓之助の認識にいささかの疑問を抱いた。

「まあ、せっかくだ。少し、説教してやろう」

「何がせっかくですか、やめてください」

「聞きたまえ。近頃、頑張ってることは知ってるからさ。そう、君はね、良い子だよ。よくわかっているさ」

「はぁ、そうですかねぇ」

 啓之助がかったるそうに両手を後ろに着き、脚を揺らす。敬助は、覚えておいてほしいことはふたつだと前置きしてから、人指し指を立てて、

「ひとつ、何事にも忍耐の心を持つこと。君は、やると決めた時の行動力は十分だから」

と言うと、中指も立てて、友人を大切にすることと続けた。

 啓之助はしばしの思案を挟んでから、敬助に向き直り、

「わかりましたよ、先生」

と凛々しい顔をして見せた。

「本当かなぁ?」

「ええ。泣いていたら慰めますし、困っていたら助けます」

 その返答に、ひとつめの事項に対する言及はなかった。

「ははは。それから、楽しいときは一緒に、思いっきり楽しんでくれ。いずれ別れても、優しい思い出は、きっと、一人で辛いときの力になるから」

「……いずれ思い出になる今を楽しく生きろってことですね。それに関しては、俺、隊の中で誰よりも自信がありますよ!」

「全く……調子が良いんだから。じゃあ、おやすみなさい」

「はーい、おやすみなさいませ」

 敬助は、伸び上がりながら局長部屋へ向かう啓之助の背中を見送った。


 居室に戻ると、衝立の手前にふた組の布団が敷かれ、奥の方には千歳が行灯の明かりで本を読んでいた。歳三は泊まりだった。

「まだ起きていたのかい?」

「もう寝ます」

 さも、敬助が来ずとも寝るつもりだったとの声音だった。敬助が布団に入ると、千歳が灯を消した。

「久しぶりに講義をしてから寝ようか」

「わあ、良いですねぇ。お願いします」

「では、今夜は……」

 敬助は、平田篤胤の『霊の真柱』を選んだ。一年半前、芹沢が千歳に遺し、敬助が初めて千歳に教授した本でもある。


「骨肉は朽ちて土となれども、其の霊は永く在りて、かく幽冥より現人の所為をよく見聞居るをや」


 敬助は布団の上から千歳の背中をトントンと繰り返し優しく叩く。

「僕も君より先に死ぬけどね、いつでも、君のことを見ているから。幸せにしてるかなぁって、見に来るからね」

「ひょっこり会っちゃったらどうしましょう……私、けっこう怖がりなんですよ」

「ははは、わかった。夜はやめておく」

「そうしてくださいね。あと厠も」

「そうだね、約束しよう」

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