三、余波

 容保は新撰組の働きを高く認め、追放される自身に従わせることを選ばず、老中方へ残留の願いを出すと約束した。

 守護職邸から戻った近藤は、すぐに副長助勤を母屋の北の広間へ招集すると、京都に残る方針を表明した。皆が喜びあった。京都残留を画策していた伊東たちも安堵した。

 残留を聞いた巡察帰りの五郎が、笠を被ったまま、八木邸の縁側へ駆けて来て千歳を呼んだ。しかし、千歳は読んでいた本を急いで閉じると、

「おかえり。うん、聞いた。良かった」

とだけ言って、土間の方へと降りて行ってしまった。

 昼食になっても、千歳は広間の隅でそそくさと食事を済ませた。


 夕方。飛脚からの配達の中に、伊東宛ての文があった。千歳は井上班が夕方の巡察に出ていることを祈りながら、離れへと届けに向かう。玄関に上がり声を掛けると、嫌な予感は的中して五郎が対応に出た。上がり框の分、一尺以上の身長差から受ける強い視線に、千歳は気圧されながら文を差し出す。

「伊東先生へのお文でございます」

「ご苦労さまです。何かお伝えすることはありますか」

「特にありません」

 よそよそしい事務要件を交わしていると、奥から伊東が出てきた。

「ありがとう。おや、妻からですね」

 伊東は表書きを見るなり笑ってみせた。伊東の妻への思いが察せられ、千歳も微笑みながら文を手渡す。

「伊東道場の若先生ご夫婦、それは仲睦まじいおしどり夫婦だって、僕の耳にも聞こえていました」

「恥ずかしいですね、噂されるほどでしたか」

 伊東はまんざらでもなさそうに一礼を残して奥へ入る。それなり、五郎が式台に降りて、

「仙之介くん、お話──」

と言いだしたので、千歳の鼓動は一気に高まった。

「後で良い?」

「今」

「でも、僕……」

「すぐ済むよ。ねぇ、なんだい? 昨日から」

「……だって」

 千歳が後退るのを見て、五郎は下駄を履く。千歳は五郎が逃すつもりのないことを悟り、退室の挨拶もせずに、離れの玄関を出た。すぐ後を五郎が追う。

「なあ、待てったら。逃げるな」

「逃げてない!」

「じゃあ、なんで止まらないんだ!」

「君が追いかけて来るからだろ⁉」

 速足はすぐに駆け足となり、千歳は裏門を飛び出して綾小路の方へ走る。五郎も諦めが悪い。

「君が逃げるからだろ! 話聞けったら!」

「嫌だ!」

「おい、待て!」

 綾小路を曲がる。前川邸の正門には、ちょうど帰営するところらしい総司と斎藤の巡察班がいた。

 千歳は斎藤の傍を駆け抜けようとするも、五郎が声を挙げる。

「──斎藤先生、仙之介くん捕まえてください!」

「ちょっ、やだ! 斎藤さん!」

 あえなく斎藤に捕まった千歳は無駄な抵抗を試みる。斎藤はニヤニヤと笑って、千歳の襟首を掴むと、総司との間に留め置いた。十数人の隊士たちに囲まれて、注目を受ける千歳の顔は既に赤い。

「離してくださいってば!」

「先生、離さないでください! おい、仙之介くん、話聞けったら!」

「君たちいい年して鬼ごっこ? 走っちゃメでしょ?」

 総司がわざとかわいらしい声を出してからかうので、千歳が総司に抑えられた肩を揺すりながら抗議する。

「違いますよ! ちょっと──」

「ちょっと、何さ。僕が何かした? なんで避けるのさ! 意味がわからない!」

「あ、どうぞ、皆さん中入って解散してください」

 総司は隊士たちに中へ入るように言うが、誰もが興味津々に千歳たちのやり取りに耳を立て、帰る者はいない。

 斎藤の後ろから、佐野が出てきて尋ねる。

「酒井くん、どうしたんだい?」

「そ、その……五郎くんが──五郎くんが、しつこいんです!」

「違いますよ、佐野さん。僕、ホントに心当たりないのに、仙之介くんが──!」

「それを、しつこく問いただそうとするから、やだって言ってんだ!」

「言ってないだろ、今初めて聞いたぞ!」

「あー、もしもし、中村殿?」

 息巻く五郎の両肩に後ろから手を添えて、佐野が言い聞かせる。

「私、思うんだけど、酒井くん、照れてるんじゃないか?」

 五郎は、何を馬鹿なと千歳を見遣るが、当の千歳が斎藤と総司との間で、図星を突かれて気不味そうにうつむくので、拍子抜けて脱力する。

「……どういうことです?」

「だって、昨日の夕べ、それは熱い告白してたそうじゃないか。『君さえいてくれれば、僕の人生は十分だ』みたいな」

 過程で誇張された伝聞に、五郎は瞬時に耳まで赤くして黙った。反対に千歳は、顔を赤らめつつも、素早く顔を上げて問い返す。

「佐野さん! そんな噂、誰が!」

「えっと、斎藤くんから聞いた」

「俺は沖田くんから」

「僕、原田さん」

「ああ、原田さんと一緒に、俺、八木邸の玄関出ようとしたときに聞いた」

「安富さん! 立ち聞きしてたんですか!」

 千歳が抗議するも、総司の傍に立つ少し小柄な馬術師範の安富は理不尽との顔を見せた。

「あんだけ大声で叫んどったら、聞くでもなく聞こえるじゃろ。俺も原田さんも出て来づらくて、終わるのだいぶ待たされたわ」

 千歳が、か細い呻き声を上げて地団駄を踏む。斎藤は笑い声を立てながら千歳の肩を抱き、困惑に固まる五郎を振り返る。

「まあ、中村。あんまりムキになるな。勢いで出た言葉に、頭が追い付かないんだよ、わかってやれ。──おい、酒井くん。後でちゃんと謝るんだぞ、中村に。良いか?」

 千歳は斎藤から顔を逸らしてはいたが、小さくうなずいた。斎藤が千歳の肩を軽く叩いて了承を示してから、五郎を指す。

「じゃ、佐野さん。中村の回収、お願いします。それから、コイツ、絶対モテません」

「いやぁ、お恥ずかしい。若くてですね、余裕ってのを知らんのですよ。どうも、酒井くん、すまなかったね」

 佐野は五郎の頭を下げさせてから、引きずるように五郎を連れて前川邸の角を曲がった。興行は終わったと、隊士たちもそれぞれ解散していく。

「さ、お仙くん。ちょっと経緯をご説明くださる?」

「すみません。あの──」

 千歳が礼を述べようと顔を上げると、至近距離に斎藤と総司のニヤニヤ顔があった。タダでは助けてもらえないのだろう。

「いやいやぁ、良いもの見せてもらって。ねぇ、斎藤くん」

「本当。なぁ、俺、今度東下してさ、久々、藤堂くんに会うけど、なんて伝えておこうか?」

「お仙くん、もう、平助くんには頭上がんないね」

「中村くんと離れちまうと思ったら、こう熱ーい気持ちが出ちゃったのか? なあなあ」

 言われるままに門柱まで追い詰められたところで、近藤の声が挙がった。

「──こら、総司、斎藤も。酒井くんをイジメるんじゃない」

 振り返ると、啓之助を連れて玄関から出てきたところだった。斎藤が居住まいを正した真面目な顔をしてみせる。

「まさか、イジメてなんかいませんぜ」

「どう見ても、大人ふたりが幼気な少年をイジメてるだろう」

「あー、勇先生、今日はどこにお出掛けですか?」

 総司が話題を逸らすと、近藤が呆れ笑いを浮かべて、祇園の一力邸だと返す。

「そうですか、行ってらっしゃいませ。ちなみに、三浦は今日も稽古に遅刻しました。ホント、なんとか言ってください」

「三浦くん……行っただけマシか? 道中、説教だな」

 啓之助が気のない返事を返して、綾小路へ出た。近藤と啓之助を神妙に見送ると、千歳はからかわれる前に逃げるが勝ちと、

「お勤めご苦労さまでございました!」

とふたりに頭を下げて、厨へ駆け込んだ。後ろからは、高らかな笑い声が聞こえていた。


 夕食席で、千歳は五郎の隣へと座った。斎藤に言われたとおり、一連の態度を謝ろうと思ったのだが、お互いに気不味く、無言のまま箸ばかりが動かされていった。

 広間の隅で続く沈黙をめざとく見つけ出した斎藤が、わざとらしくふたりを背に座り、独り芝居を始める。

「ああ、五郎くん。君を兄と呼ばせてくれ。僕は君と離れて生きてはいけない。──仙之介くん、僕なんかはまだ未熟だ。とても、君の兄にはなれない」

 六兵衛は呆れて首を振るが、加納は芝居に乗って、斎藤の手を握り込んだ。

「おお、それでも僕は君を兄と呼びたい」

「仙之介くん……!」

「兄上……!」

 ふたりの顔が近付き、食事も忘れた隊士たちから歓声が挙がったところで、斎藤の背中に帳面が力強く投げ付けられた。千歳が鬼の形相で斎藤を睨み、五郎が顔を赤くしながらも青ざめつつ千歳をなだめる。斎藤はますます顔を緩ませて、背後に落ちた帳面を拾い上げた。

「痛ぇなぁ、酒井くん。何投げるのさ」

「汚い芝居するんなら、あっち行ってくれません?」

「汚ぇたぁ素敵な言い草だなぁ。ほら、君たちって真面目だろう? いっつも頭でばっか物事考えてるんだから、俺たち、心に従いて生きたまえと訓導してあげようと──」

「いりません!」

 千歳が膳を脇に寄せて、帳面を取り返そうと手を伸ばすが、斎藤は宙に掲げて返さない。千歳は獲物を狙う猫のように隙を待つが、斎藤の方が数段上手だった。ニヤニヤとだらしない顔ながら、気組は途切れさせない。

「酒井くん、恋というのはね、勢いが大事なんだ。今、俺に向かうくらいの真っ直ぐさでね、中村を見つめてやれよ」

「恋じゃありません、友人です」

「──との弁明だがね、どうなんだい? 中村くんよ」

 広間中の視線を集める五郎に、普段の冷静さは欠片もない。赤い顔を隠してうつむき、握り込む両手は震えている。千歳の拳が板間を叩いた。

「なんとか言い返せったら、情けない!」

「な、情けないって……」

「情けないだろうが! 先輩にからかわれたんなら、だんまりなのか? 毅然さを見せろよ!」

「そうだぞー、兄者らしく守ってやれー」

 野次と笑い声が挙がり、千歳が殺気立って観衆へと振り返ったとき、南の障子戸が開き、広間が一斉に静まった。夕空を背景に、開けた当人である歳三がうろたえる。

「な、何事かな?」

 足元にいた千歳が五郎の背へと隠れ、五郎はうつむいたまま顔を逸らし、斎藤と加納は、悪戯が見つかった子どものようにバツの悪そうな苦笑いを交わしている。

「おい、斎藤?」

「え、いやぁ、まあ……そのですねぇ」

 斎藤は千歳の帳面を背中に隠しつつ、それでも、凛々しい顔には戻らない。

「まぁ、あれですよ、副長。中村が、お宅の部屋子さんとの交際、お許し伺いに参るのはいつかというお話です、はい」

 押し殺した笑い声が広がり、歳三は盛大にため息をつく。

「いつでもかまわないけどね、まずは私との試合に勝ってからにしてくれ」

 六兵衛から労いの視線を受けつつ膳を受け取ると、歳三は奥へ進まず、千歳たちと向かい合うように斎藤の隣へと座った。

「土方さん。あんたに勝ったならーって、俺は申し込んで良いってことですかい?」

「お前は、酒癖と女癖と賭け癖と、それから財布の紐の緩さと治してからだ」

「うへー」

「お前、ホント、賭博には行ってないだろうな。だいたい、賭け事なんてものは──」

 千歳と五郎は、斎藤へとなされる小言を聞きながら、顔も合わせないままに夕食を終えた。

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