二、告白

 翌朝、雪は静かに降っていた。朝食前、副長助勤が集められた会議では、新撰組も容保に従っての東下を願い出ることが近藤より伝えられた。反論する者はなく、皆、気落ちした顔で北の広間を出て行った。

 朝食の席では、東下話で持ちきりだった。浮かない顔で、ほとんど箸も進めずにいる千歳の隣に、五郎が座った。

「おはよう」

「……おはよう」

 気の抜けた千歳の返事に、啓之助が五郎を見遣って首を振った。いつもなら、本日行われる講義の内容や、昨晩読んだ本の疑問点について話し始めるところだが、今日は挨拶以上の会話はなかった。

 早朝に帰ってきた歳三は、千歳によって袴を着せられる敬助へ、

「江戸に帰るよ、俺たちも」

とだけ言った。敬助も、静かに了承を述べた。

『……副長、あの……私も?』

『そうだ』

 千歳が尋ねると、歳三は相変わらずこちらを見ずに、一言のみ返したのだった。

 昼近くになっても、雪は振り続いていた。千歳は洗濯を諦めて八木邸へ出向き、雅と共に針仕事に勤しんだ。着物の綿を抜いて袷に直す。今、手にあるのは、敬助のものだ。

 敬助の今の身体は、東下の旅路に耐えられるだろうか。自分だって、帰ったところで、行き先もない。

「お仙さん」

「……え?」

「ため息、そないつかはって、今にしぼんでのうなってまうえ?」

「す、すみません……」

 千歳は吐いた分を取り返すように、大きく息を吸い込んで、姿勢を正した。

 八木邸の北庭には、赤い椿が雪を被って咲いている。遠くには、二条城の角櫓も霞んで見えた。読書に親しんだこの庭とも、別れることになるのだろう。千歳が今、羽織の下に着ている若草色の細い縞柄模様の振袖も、雅がこの縁側で丈合わせをしてくれたものだった。あれから背が伸びて、肩揚げは外してしまった。

「帰らはるんやてなぁ、皆はん」

「ええ」

「寂しなるわ」

「……ええ」

 敬助に好きな季節を聞かれたとき、千歳は晩春が好きだと答えた。今年、京都で桜が咲くより前に、千歳は旅立たなくてはならないだろう。

「竹輪のことなんですけど」

「あの赤猫ちゃん?」

「はい。……よろしくお願いします」

「へぇ」


 東下はやむ無し。隊士たちが馴染みの妓や行き付けの店に別れを告げに出向くなか、伊東だけは京都に残る方法を探していた。前川邸の離れに同道の一門を集める。道場まで畳んで、政治の舞台である京都へ上ってきたのだ。京都へ残るとの意志を伝えた。

「残った先、身分の保証はありません。人生で一番貧しい時代を強いてしまうかもしれませんが、皆、僕に付いてきてくれますか?」

 もちろんだと真っ先に口に出したのは、佐野だった。伊東がひとりずつ目を合わせると、皆、うなずいていく。五郎も唇を引結んで、力強くうなずいた。

 伊東は懐から洛中の地図を取り出し、床に開く。

「まずは宿所だ。前川さんには、もうこの屋敷をお返しすると言ってしまっているから」

 そう言いながら、西本願寺を指す。

「今、土方くんが本願寺さんとしている間借り交渉を引き継ぎたい」

「何の役を果たすために残ると言うのですか? 新選組の残党が残っているとなると、上も良くは思わないでしょう」

 加納が少しばかりの不安をにじませて尋ねると、伊東は西本願寺から禁裏の方へ指を指し直して、公家屋敷の警備にあたっていた会津藩士の代わりを勤めると言った。

「君や佐野くんたちは、横浜の異人屋敷地で警護をしていただろう。それを活かせるとお願いしてみよう」

 この部屋には十名足らずしかいないが、声をかければ、残りたいという隊士も出てくるだろう。政治は京都にて動かされる。とにかく、京都に留まり、生きていかなくてはいけないのだ。

「きっと、大丈夫です。我らが真心に従って働く限り、その赤心は伝わります」

 自らの道は、自ら開くべし。伊東はそう言うと、刀の鍔を親指で押し、鯉口を切った。皆が倣い、前川邸の離れに金打きんちょうの音が響いた。

 その後、伊東一門の行動は早かった。それぞれに親交のある隊士へ声をかけていき、残留を願った者は仲間に引き入れる。夕方、伊東は局長部屋を訪ね、計画を伝えようとしたが、近藤は外へ出ていたため、その足で副長部屋へ来た。

「ご無礼仕ります、伊東です。両副長はご在室ですか?」

 縁に膝を着いて尋ねると、半纏を着た敬助が障子を開き、歳三も近藤と共に守護職邸へ出向いていることを話す。

「ご用なら、僕の方から伝えておくけれど」

「お願いするよ。君にも、聞いてほしい」

 伊東を部屋へ入れ、座らせる。半纏を脱いで向かい合おうとしたとき、伊東が止めた。

「そのままで」

 敬助の手が、迷いを示して止まった。伊東は体調を気遣ってくれている。しかし、敬助は、平気だと言うと、半纏を文机の上に掛けた。

「それで、何だい?」

「ああ……実は、僕たち──」

 同じころ、夕日に陰る八木邸の長屋門の前で、千歳は五郎から、共に京都へ残ろうと話を持ちかけられていた。縫い上げた敬助の袷を脇に抱えたまま、目線を上げない千歳に、五郎が焦れたような声で尋ねる。

「仙之介くんは、どう思うんだ? 江戸に帰りたいのか、京都に留まりたいのか」

「僕は……残れない……」

「残りたい、のか、帰りたい、のかを聞いているんだ」

 答えを示さない千歳に、五郎は問い重ねる。

「叶うかどうかは後で良い。君の意志を聞かせてくれ」

 そう言う五郎は、自らの意志で京都に残るのだろう。しかし、千歳の進退に意志は必要とされない。去就は歳三が握っている。

「君の意志、あるだろ?」

 五郎の言葉に、千歳は速まる鼓動を抑えるため、息を深く吸い込んでから、ゆっくりと目を合わせた。

「意志はある。けれども、誰もがそれに従って生きることを許される身分にあるわけじゃないんだ」

「君は許されないと言うのか?」

「……ああ」

「そんなことはない。自分の行く道だ、自分で決めるに決まっているじゃないか」

「それは、決めれる人の言い分だ。世の中には、そうでない人もいる。君が思うより、たくさん」

「君はそちら側の人間なのか? 僕が君を友人と思うのは、君が意志を持って考える人間であるからだ」

「い、意志は……あると言っているじゃないか!」

「それを聞かせてくれと言っているんだ!」

 詰め寄られる一歩ずつを、千歳は後退ってしまう。門柱がそれ以上の後退を留めたとき、千歳は思わず母屋の方へ駆け出した。その瞬間、千歳の脳裏に五郎が来てからの三ヶ月間が思い出された。

 打ち解けるまでのよそよそしい距離は、本を通して縮まった。勉強も剣術も、茶の湯もできて、明るい人柄、素直な性格、愛された育ち。好ましい感情の中に、少しばかりの嫉妬も認めた。

 甘味を食べに行ったり、一緒に考えたり。啓之助も隊に慣れてきたころで、三人で楽しく過ごした。この先、千歳はこの三ヵ月間ほど楽しい時を過ごすことはできない。千歳は、彼らを友人とできた「仙之介」ではいられない。

 こみ上げた涙が、千歳の足を止めた。振り返ると、五郎も目を凝らしてこちらを見つめている。千歳は、五郎の鼻先まで駆け戻った。

「五郎くん──君が……君が僕に声をかけてくれたことは……とても、嬉しい。僕を友人と認めてくれたというだけで……!」

 千歳はほとんど泣きそうな顔で息を継ぐ。五郎が勢いに押されて、足を下げるが、千歳は右手で五郎の羽織の襟を握り込んだ。

「僕はね、君がうらやましい。学才も、剣も、人柄も──何より、君は真っ直ぐだ。僕なんか、君と比べたら──!」

「せ、仙之介くん……」

「やっぱり、君は僕とは違う人間だって思わされるんだよ。僕は……僕は、京都には残らない!」

 上気した千歳の両頬に、涙がこぼれる。五郎は息をするのも忘れて、千歳の涙を拭うことも、肩に手を置くこともできずに、千歳の告白を受けていた。

「僕は、江戸に戻る。戻ったら、僕は、僕では……『仙之介くん』では、いられなくなる。だけど、だけれど……!」

 千歳は荒々しく涙を拭うと、五郎を突き飛ばすように、一歩下がって大きく息を吸い込んだ。総司に打ち込みをかけるときと同じくらいの気組を動員して、五郎の目を見つめる。

「離れていても、僕を友人と思っていてくれ。君にそう思われているんだと心にあれば、僕はそれだけで生きていけるから……!」

 寂しさを紛らわすために没頭した学問は、友人と共に考え合う時間をもたらした。学問を論じているとき、千歳はただの学徒として、存在することができた。

 そんな幸せな時間は、この先、どう生きていけば良いかもわからない自分を支えてくれるはずだ。

「五郎くん、ありがとう。君と友人になれて、僕は本当、幸いだった」

 そんな別れの言葉によって、ふたりの時間は止まってしまった。雲の多い夕空に、遠く鶯が鳴く。初音と気付けるほどの余裕はなかった。

 千歳は何も言えずに眉根を寄せている五郎へ微笑んで見せ、その側を抜けると、前川邸の裏門へ向かった。


 その日の夕食は、五郎と離れて食べた。翌朝の朝食も広間の端で食べ、朝の敬助の講義では、開始時間の直前に来て、五郎とは離れた位置に座り、終わるとすぐに北の広間を出た。門前を掃除しているとき、五郎の所属する井上班が巡察に出て行った。礼の姿勢を作り、五郎の視線から逃げた。

 東下を考えると、鼓動が治らない。力を抜けば、座り込んで泣いてしまいそうだった。千歳は、今に「仙之介」を手離す。昨日の涙は、五郎のみならず、「仙之介」への別れでもあったのだ。千歳の突然の変わりように、五郎はきっと驚いただろう。それほど、抑えられない感情が突き上げて、涙と共に言葉が口から出ていた。

 未練なのだ。けれども、どれほど心残りがあっても、諦めなくてはならないときはあるのだ。千歳は竹箒の柄を握りしめ、表札を見上げた。


 京都守護職御預新撰組


 千歳が初めて訪れたときは、真新しい白木であったものが、今は風合いも落ち着いて、元よりそこにあったかのような馴染みようを見せていた。

「さよなら……」

 つぶやいたとき、千歳を遠くから呼ぶ声が聞こえた。振り向くと、綾小路の先に、歳三と近藤の後ろから大きく手を振り、こちらに駆け寄る啓之助の姿があった。守護職邸より帰って来たのだ。

「お仙くん!」

 駆ける速さを緩めないまま、千歳の両肩を掴んだ啓之助は、千歳の困惑を余所に告げる。

「会津さまが、新撰組は京都に残って働き続けなさいって言われた! 残れるよ!」

 千歳の膝から力が抜けた。啓之助は、子どものように泣きじゃくる千歳の頭を撫でて、近藤を振り返ると、困ったような笑い顔をして見せた。近藤もまた、目を赤くしていた。歳三は啓之助の頭に軽く手を乗せると、先に門をくぐって行った。

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