七、喪失とreconstruction

一、揺らぎ

 二十七日、暖かな日差しの中、千歳は知恩院に参った。

 二年前のこの日、夕暮れ時に兵馬は息を引き取った。千歳は泣かなかった。のしかかる喪失感の中に、一片の安堵があったのだ。朝起きたとき、薬を運ぶとき、身体を拭うとき、兵馬がまだ生きているか・・・・・・・・どうかを確かめることが怖かった。

 生と死。不確定に揺らぐ兵馬の生命が、死に決したとき、千歳は確かに安堵を覚えた。死とは、絶対的に不変で、ともすると安らぎになりうる。

 千歳は山門の石段を降りて、四条大橋から鴨川を見下ろした。伏見から上る荷舟、北山から下る筏。右岸に群れる枯れ残った葦の穂が日の光に照り返されて、金色に光る。千歳はその手前の河原に、白い浴衣を着て島田に結い上げた「お仙どん」の姿を描いた。

 不確定に揺らぐのは、千歳自身も同じだった。あまりに「仙之介」は大きくなりすぎた。かといって、仙之介として生きることは許されず、また、仙之介を封じ込めて千歳としてのみ生きることもできない。

 志都と兵馬の間に生まれ、今は孤児となった「酒井仙之介」として、京都で生きていたい。志都より習った刺繍の模様も、野菜の育て方も、今となっては役に立たないのだ。志都と兵馬への愛のみを残して、仙之介になってしまいたい。

 千歳も仙之介も、同じ過去を共有して、同じ過去から生じているはずだが、千歳と仙之介とは、あまりに異質で交わらない存在だ。それなのに、過去の自分を切り離すことができないために、自分が何者なのか、わからなくなる。

 千歳が学問を手離せないのは、自分が何者かわからないからだ。考えているときだけは、精神が身体を忘れられた。自分の名前も、性別も年も、およそ自分を構成し判別する記号としての諸情報の全てを離れて、純粋に思考のみが現れる。

 考えているときは、自分が何者であるかは関係ない。歳三の目を盗んでは、五郎と話し合った。

 洋学を取り入れつつ、皇国の風俗を保つにはどうするべきか。王朝時代にあった役人養成機関である大学寮は復活させられるか。世襲の武家社会へ科挙制度を導入する困難さ──。

「だけど、五郎くん。世襲を考えるのなら、まず、『家』を考えなくてはいけないよ。世襲の利はそこだ。家に伝わる技術を、子へと代々受け継ぐ」

「家に伝わる技術とは?」

「帝による祭祀であり、武家による統治であり、農家ならば諸作物の生産。職を遂行する技術そのものと、その蓄積だ」

「つまり、家が職の教育場の役を担う限り……というか、家と職能とを切り離せない限り、才覚のみによる職能の選択──科挙は必ず行き詰まる。科挙合格も家に付随する技術になるから」

「うん。生産の効率を考えれば、働き盛りの青年を、受かるかわからない科挙への対策に集中させられるのは、やはり、富豪のみになる」

「けれども、家と職とを完全に切り離すことは、対して、こちらも非合理であって──」

 そんな五郎との思案の時が、仙之介のみに与えられたものとは思いたくない。千歳自身、言うなれば、御霊とか、思考そのものとでも表せられる存在に与えられているはずだ。つまり、自分が何者であっても、これは受け取れる幸福のはずだ。

(高尚な理論で武装した屁理屈……)

 千歳はそれと気付きながらも、残りわずかしか許されていない時の限り、幸福を自ら手離すつもりはなかった。


 歳三は千歳が隠れて五郎と政治談義に興じていることを知っている。また、啓之助とふたりのときには、そのような話をしていないことも知っているのだ。

 昨年末、人のいなくなった広間で千歳と遅い夕食を食べている啓之助とが、北方警備について話していることが聞こえたときのことだ。夏には、今何が起きているか知りたいと訴えた千歳が、半年を経て、現在の情勢を踏まえたうえでの未来を予測するようになった成長に、驚かずにはいられなかった。

 風呂の用意を抱えて、再び広間へ戻ると、啓之助はジッとこちらを見ていた。何用か尋ねると啓之助は、歳三が千歳に政治の話をさせたくないように見えると言った。

『そうだな、させたくはない』

『どうしてですか?』

『あの子は、もう少ししたら町方で暮らすようになるから。政情とは関わらず、静かに生きてほしいんだ』

『ふうん。そうですか』

 啓之助は食べ終わった食器類を、土間の水桶に入れた。草履を履いて東庭へ続く引き戸に手を掛けた歳三に問いかける。

『もう、しない方が良いですか? 政談』

『できれば、そうしてほしいね』

『わかりました。そうします』

 予想外に従順な返答を受けて、歳三は振り返る。

『いやに素直じゃないか』

『どういう事情で彼がここにいるのか、知りませんけどね、俺。だけど、大開国論を唱えちゃうような奴がどういう死に方するか考えたら、わかりますよ、副長の気持ち』

 父親譲りの丸く眼光鋭い目で、啓之助は歳三を見上げていた。だけど、と啓之助は言葉を続ける。

『洋学もダメですか?』

『……学問としてなら良いよ』

『わかりました、ありがとうございます』

 啓之助が桶に顔を戻して、鼻歌を歌いながら食器を濯いで盥に上げていく。

 子どもの成長とは早いものだ。千歳もそうだが、啓之助も。来たばかりのころは、言われた仕事すらやりきらずに、どこかへ抜け出していたものが、今や言われずとも食器を片付け、友人を気遣う。

 歳三は妙な親心を覚えつつ、厨を出た。

 そして、千歳が知恩院へと参った翌日。歳三は午前の早々に書類仕事を終えると、口利き屋へ出向き、借家の紹介を願った。

 千歳と折り合いを付けられないか。考えた結果、せめて寝泊りだけでも隊から離れさせることが良いかと思い至った。

「小さくてかまわないから、風呂のある家が良い。それから、裏口が付いていること。四条から八条の間で、烏丸よりこちら」

「へぇ、ほな探してみます。お急ぎでっしゃろか?」

「いや、夏頃までに見つかれば良い」

 急ぎではないのだ。どうせ、あの強情な娘を説得するのに時間がかかるだろうから。


 ゆったりと構えていようとした歳三だったが、世情はそれを許さなかった。

 昨年末以降、軍事衝突の恐れがなくなった京都では、政治対立が顕著になっていた。

 将軍上洛を叶え長州処分に当たりたい一会桑に反して、老中方は、将軍上洛は不可と突き付けた。それどころか、禁裏御守衛総督、京都守護職、京都所司代それぞれを解任して、老中による京都執政を試みたのだった。

 二月に入り、松平伯耆守や阿部といった老中勢が四千の兵を率いて上洛し、御所警備は幕兵が担うことになった。禁裏守護という京都守護職の中枢たる仕事を失った会津侯容保は、東帰することに決した。

「それで、近藤さん。俺たち、どうするかってことだよ」

 北野で開かれた公用方との会合を終え、歳三は近藤の妾宅へ上がっていた。本日聞かされた内容は、あまりに新撰組の進退に直結している。問われた近藤も、行燈に背を向けたその眉間には、薄闇でもわかるほどに、深い皺が刻まれていた。

「俺は……歳三が京都に残りたいと思っていることはよくわかる」

 しかし、と言って、近藤は言葉を切り、息を継いだ。

 上洛の目的は、攘夷の先駆け。現状、幕府は武力攘夷を行わないし、近藤もその方針は認めざるをえない。日常は市中警護、有事のさいは守護職の下で兵となったが、長州征伐が終焉を迎えた今後、よほどの有事が起きるとも思えない。

「──去り際が来たのではないかと、俺は思う」

 近藤の苦悩の目を受けて、火鉢の縁に添えられた歳三の手が握り込まれた。声が震える。

「ご老中が治める京都には、残れないかい……?」

「ご老中方より、必要としていただけるかわからないぞ」

「されるさ。池田屋に、夏の変事に、俺ら、このうえなく働いたじゃねぇか」

「見廻組が四百人、ご老中に付き従う兵が四千人──」

「俺たちだって、夏には二百人くらいにならぁ!」

 歳三の拗ねた口振りに、近藤がようやく強張った顔を解いた。愛おしむように、歳三が手をかける火鉢に対面して、同じく縁を掴む。

「そうだな、京都に取り残された『身ボロ』が、よく頑張ったよ」

「……やっぱり、身分か?」

 行燈の光を受けて揺れる歳三の目を、近藤は見られなかった。関東を発つとき、身分など欲しない、ただ忠勤あるのみと心に定めた。しかし、京都に至って丸二年が経つ今、よくわかったことがある。

「身分は俸禄の保証じゃなかったんだな、忠勤をし続けるための免許だ」

 新撰組隊士の身分は、幕臣である見廻組隊士のような終身の雇用が約束されたものではない。守護職が解任されれば、俸禄の主を失う。

 歳三が目を閉じて首を振る。

「今からでも、くださいって言いに行こう……な? ご老中方に。二回も断って、すいませんでしたって。──だって、本願寺とも、話、もう少しで付きそうってのに……」

「俺たちは会津さまに拾ってもらった。守護職が越前侯となったときも、会津さまの雇われとして、その下にいさせていただいた。ならば、やはり、東下にも付き従おう」

 顔を伏せる歳三の肩を、近藤は静かに叩いた。

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