十五、愛の形

 正月も末、ある晴れた日の午後。千歳が米蔵の北で、解いた綿入れの反物を洗濯していると、表門が賑やかしくなった。大坂出張組が帰って来たのだ。

 数日前、見廻組が「佐々木六角源氏太夫」を名乗る盗賊一味を検挙したのだが、その残党が大坂へ逃れたという。見廻組は大坂を管轄としないので、残党の追跡捕縛が新撰組へ回ってきた。

 派遣されたのは総司、井上、永倉、武田の四班。その成果は、声の明るさから知れる。

 しばらくすると、旅装束を解いた五郎が厨から出て来た。

「──あ、いた。ただいま!」

「やあ、おかえり。お疲れさま。良かったぁ、無事で!」

 五郎は千歳が洗濯をする盥の側にしゃがんで、捕縛の仔細を話す。

「僕らは取りこぼしがないように、旅籠を取り囲む役だったから、奴らが抵抗を諦めてから、ただ縄をかけていくだけだった」

「そうか。池田屋みたいな斬り合いにはならずに済んだんだね」

「ひとりは斬り捨てになってしまったけどね」

 そう言って、五郎がまだ洗っていない反物を手に取る。千歳が慌てて取り返す。

「いいよ、五郎くん。帰って来たばかりじゃないの」

「お土産買ってきたからさ、一緒に食べようと思って。貸して」

「そんな、お土産もらったうえに、手伝ってもらうなんて悪いよ」

「悪いなんてことはない」

「でも……」

 ふたりの間で藍色の反物が引き合われる。手を引いた五郎が、普段の笑顔もなく千歳を見つめた。千歳も眉根を寄せて見つめ返した。

「仙之介くん、君」

「──ご、ごめん!」

 いつもより低い声で話し始めた五郎を遮るように、千歳は立ち上がった。五郎が下から顔を上げて尋ねる。

「何が?」

「え、えっと……僕、その……」

「僕、怒ってるように見える?」

 盥を挟んで千歳と向かい合うように、五郎も立ち上がる。千歳は反物を握り締めて、首を振りながら、わからないと返す。それでも、先程まで普通に話していた五郎が神妙な顔をしているのなら、やはり、その原因は自分にあるに違いないと思う。

「君さ」

 五郎の手が反物を取る。身を硬くする千歳を怪訝な顔で見つめながら、五郎は尋ねた。

「親切にされたり、褒められたり……とにかく、人に気をかけてもらうこと、苦手?」

「……え?」

「君を見てるとね、もしかして、居心地悪く感じるのかなって、誰かに思われること」

「……そうかもしれない」

 千歳がうつむく。心当たりはあった。何故かを尋ねられるも答えられず、黙って首を振った。

 また黙り込む癖が出ていると千歳は自覚した。五郎の前でだけは、この幼さを出したくない。子どもだと思われてしまう。

「──五郎くん、僕」

「うん」

 千歳は思い切って顔を上げたが、そこから言葉は続かなかった。五郎はしばらく千歳の言葉を待ってから、話しだす。

「仙之介くん、誰かに何かをしてもらうには、その人に何かしてあげなくてはと思っているだろ?」

 その声音は学問を論ずるような、硬質な感じがした。千歳も今はその方が話せるような気がして、懸命に視線を上げて答える。

「うん……だって……」

「なあに?」

「……それは普通じゃないか? やってもらうんだから。御恩と奉公とまではいかなくても、お礼をするのは当然に思える」

「もちろん、そういう関係もあるよ。でも、僕たちはそうじゃない、友人だ。僕は仙之介くんが何をしてくれなくても、困っていたら助けてあげたいし、喜ばれるんだったら、それをしてあげたいと思うんだよ」

 目の前に、五郎の強い目があった。千歳は耳が熱くなるのを感じた。

「──だからね、そういう気持ちを、申し訳ないとかお返しとかを考えながら受け取られると……とても、寂しい」

「ごめん……本当に、僕……何もわかってなくて……ごめん……」

「ありがとう、じゃダメ?」

「……ありがとう?」

「思ってくれてありがとう。そう受け取ってもらえたら、僕も嬉しい」

 微笑んでみせられ、千歳は一瞬で泣きそうな顔をした。五郎は藍染の反物を千歳の手から離させると、

「さぁ、早くやってしまおう。お饅頭だから、お抹茶でいただこうか。茶室、使わせてもらって」

と言いながら、洗濯に取り掛かった。

 五郎は自分の気持ちをはっきりと口にして、そのうえで、千歳にどうしてほしいかを示した。千歳が泣きそうになれば、それを見ないように、洗濯を始める。自分とは比べられないくらい、大人だということを突き付けられて、千歳は自らの幼さに恥じ入った。

 目頭に溜まった涙を拭うと、五郎と共に盥に手を入れる。手元を見たまま、小さな声で、ありがとうと述べると、五郎がうなずいた。

 咲き始めた紅梅の枝に北風が吹き抜けて、高い音を立てた。身震いをして、千歳はつぶやくように言う。

「……君は、愛されて育ったんだなぁって思う、いつも」

「そう? まあ、愛して育ててもらったことには違いないな」

 そう言い切れること自体が、千歳には驚きを与える。五郎の純真さは、時折、まぶしすぎて苦しい。正解を見せつけられて、自分が如何に正解と違う人間なのか、思い知らされるような気がするのだ。

 五郎のように、真っ直ぐな人間でいたかった。優しくて穏やかで、小さなことで泣きそうになったりしない。賢くて、愛される人間。五郎と過ごす時間は好きだが、たまに、自分は五郎の隣に相応しい人間ではないとの思いが心をかすめていく。


 茶会を終えて夕方、洗濯物を回収する千歳は、乾いて硬くなった反物を盥に入れながら、ため息を繰り返した。

 ふと、馬越のことを思い出す。この時期、この場所で、夕日に照らされた馬越は言っていた。


『なりたい自分と、今の自分の差ぁが嫌になることくらい、あるやろ? ──ほれと戦うんが人生なんなぁ』


 千歳は五郎の側で、彼我の差に苦しむ。けれども、それとは戦わなくてはいけない。先日、五郎が言っていたとおり、差異を認めることが成長につながるのだから。心の弱さに負けていては、五郎の隣に立つことも許されないと思った。

 厨へ入ると、玄関の方から啓之助の声がした。盥を置いて見に行くと、近藤と共に帰営したところだった。

「おかえりなさいませ」

「うん、ただいま」

 近藤を出迎え、啓之助には、昼間に母からの荷物が江戸より届けられたことを告げた。

「ホント? ありがとう。君も来て!」

 啓之助は居室へ千歳を招き入れると、届いたばかりの行李を開けて、中から羊羹の木箱を取り出した。

「君に。おいしいんだ」

 無邪気な笑顔で差し出される三寸四方の白木の箱を千歳は戸惑いながらも受け取り、

「ありがとう」

と言って笑い返した。

 啓之助は行李の中身を空けていく。ほとんどは、春物の着物だった。冬物の着物を詰めて送り返すのだ。着物に焚き染められた香の匂いが局長部屋に広がった。啓之助が近藤に着物の色合わせの妙について話し始めたところで、千歳は静かに部屋を出て、土間の上がりに残してきた盥を拾い、副長部屋へ戻った。歳三はいなかった。

 千歳はいつになく、寂しい気分だった。五郎にはお茶を点ててもらったし、啓之助からは羊羹ももらったというのに。

 千歳は部屋の中心に盥と羊羹を置くと、床の間に置かれた紙入れを開いて、志都の赤い前櫛を取り出した。薄暗い部屋で、灯も点けず、千歳は櫛を見つめる。

 誰かの見せる愛情の痕跡に気付くたび、心が騒つくのだ。

 子どもは親に愛されて育つ。離れていても、身に付いた愛は顔をのぞかせる。遠い昔に母を亡った自分にも、きっと志都の愛してくれた名残があるはずだ。何か、これと示せるものはないだろうか。

 考えを巡らすうちに、明日が兵馬の命日であることに思い至る。千歳は元結を外した。今晩は髪を洗い、身を浄めなくては。

 志都は髪をくしけずってくれた。千歳の赤毛は目の色とお揃いだ、母さまともお揃いだと言いながら、千歳を縁側に座らせて、優しく髪を梳いた。赤毛は好きではないが、志都は赤毛を愛してくれた。

 この髪を無残にも切り取ったのは、女将。志都の葬儀後、銭湯にて身を浄めて帰ると、女将が鋏を手に待ち構えていた。腰まであった髪は、禿に切られた。

 志都が仕立ててくれた着物は行李ごと売り払われ、守り通せたのは、志都の浴衣を解いて作られた小物入れの巾着と、洗髪のために外して懐に入れていたこの赤い櫛だけだった。

 あの日から、明練堂に「千歳」はいなくなり、代わりに「仙之介」という少年が家事を任された。

 ところが、十二歳の秋口。女将から急に娘の振袖を渡され、一日一食だった食事も、二食は与えられるようになった。兵馬の看護をする千歳を女将が認めてくれたのではと淡い期待を抱いた自分が情けなく、哀れにすら思われる。同じころ、身なりの良い番頭風の男と何度か会わされたのは、今思えば、身売り先の店の者であったのだろうから。

 目を閉じて、櫛を髪に通す。志都と兵馬の間に挟まれて座っていた自分を思い浮かべながら、何度も櫛を動かした。優しい思い出だけを抱いて、愛情に浸りたい。夢想は深まった。そのため、稽古より戻って来た歳三の足音に気付かずにいた。

 歳三は誰もいないと思ってぞんざいに開けた障子の先に、髪を下ろした千歳の姿があるのを見て、息が止まった。千歳もこちらに気付き、慌てて右手を背に回すが、そこに握られたものが赤い前櫛──歳三が昔、志都に贈ったものであることを、歳三の目は瞬時に認めていた。

 これまで、女らしい行い全てを拒否するかのようにいた千歳が、母の櫛で髪を梳く。その意図が、母を偲んでのことだとは想像にたやすい。歳三の視線から逃れるように逸らす横顔にかかる髪と、その奥に見える目の形は、薄闇の中で、ありありと志都を思い出させた。

「──失礼しました!」

 沈黙を破ったのは、千歳だった。両手で髪を荒くひとまとめにして、後ろに流すと、立ったまま見下ろす歳三に向かうように座り直し、

「明日、お休みいただいてもよろしいでしょうか?」

と気迫のこもった顔付きで願った。

「その……兵馬先生のご命日です。三回忌ですから……」

「そうか……わかった。行って来なさい」

「はい」

 千歳は一礼して、居室に逃げ入った。


 歳三は刀掛けに太刀を置くも、一度着いた膝を畳から離せずにいた。

 ほぼ一月振りに千歳と口をきいた。琥珀の目に見つめられた。二月後には、東下りに伴わせる娘。離れた場所に置き、その幸せを願い、いずれどこかへ嫁がせる。決して愛を返さないあの琥珀の目を、再び手離す。

(……違う。最初から、俺のものではないんだ。あの子はお志都さんじゃない。俺の子かもわからない。だけど、それでも、俺はあの子を──)


 血の繋がりがなければ、今度こそ愛し通せるのに。


 脳裏に浮かんだ声が歳三の息を詰まらせ、冷や汗に身体は震える。歳三の心は疑いようもなく、あの娘を愛したがっているのだ。その関係性に与えられる名を、選べるとしたら──。

 歳三は強く自らの頬を叩いた。太刀を掴み取り、前川邸の裏門を出た。

 暮れかけた坊城通は、道端に若葉が芽吹く。啓蟄も近付き、夕風は生温かさを保っていた。壬生寺の門前を過ぎ、高辻通も足速に越える。

(血の繋がりは、もうどうだって良いんだ。大人は子どものために動くものだ、そうだろう?)

 敬助の言葉を頭の中で繰り返す。千歳の望みを軽んじるな、千歳へと向き合う姿勢を示せ、血の繋がりは重要ではない。

 今は全て、正論だと納得できる。ならば、歳三のなすべきことは、ひとつ。千歳を我が子として受け入れること。娘として愛することだ。娘として、存分に愛してやればいいのだ。

 敬助は千歳が今後の幸せを投げ出しても、今の幸せを望んでいると言った。しかし、今の幸せを奪うことなく、将来の幸せを与えてやることもできるはずだ。その役は、歳三こそに果たされる。

「東下には、連れ行かない」

 桂野に眩しい落ち日へと、決意を表した。

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