十、尊厳

 政治を語るなと言われても、新撰組にて暮らす限り、その手の話題は避けられない。

 今にも雪を降らせそうな曇天が垂れ籠める霜月の二十二日。水戸の天狗党が、幕府軍の包囲を潜り抜け、さらに追討を命じられた街道の各藩兵を破り、京都へ迫っているとの報告が、所司代へ届けられた。

 その翌日には、稽古後の雑談のなかで、総司が千歳へと伝えるのだ。

「惣領の武田耕雲斎は、一橋慶喜を頼る心算らしいよ。同じく水戸の出だから。一橋公を通して、天狗党の真意があくまで攘夷断行であるって朝廷へ訴えようとしているんだって」

「新撰組も出陣することになるんですか?」

「どうだろう。場合によっては、だけど」

 千歳の足裏に、焼け果てた洛中をさまよい歩いた感覚がありありと生じる。

「……今、どうなってるんですか? 洛中の様子とか」

「心配しない、しない。大丈夫だから」

 総司は千歳の頭を軽く撫でると、肩に担いだ木刀を壁に掛けに行った。


 副長部屋に戻ると、敬助の文机を指した歳三より、清書の依頼を受けた。机の傍には既に火鉢がある。千歳は着替えを済ませると、墨を磨った。

 先頭の旗持ちの後ろを歩くのは、副長である歳三。一番隊は総司が率いる。二番隊は伊東が、三番隊は井上、四番隊は斎藤。五番と六番はそれぞれ尾形と武田で、大砲組を挟んで、騎馬の近藤。原田は最後尾の小荷駄方を率いる。

 五郎は井上の三番隊に属し、啓之助は小姓なので、近藤の後ろに配されていた。

 藤堂と永倉はいない。藤堂は隊士徴募のため関東に残っており、永倉は、自身が発起人となった建白騒動により切腹を果たした葛山への追悼と責任を表して謹慎を申し出ている。南部邸より出てこないので、千歳はもう長らく顔を見ていない。

 敬助の名もなかった。今も敬助は、居室の衝立の奥で、微熱と頻脈のために休んでいる。体調故に仕方のないことだと千歳はわかっているが、気持ちとしては、歳三の並びに敬助の名も書きたかった。

 墨を摩り上げ、筆を執り、「行軍録」と書き記す。ふと強烈に、この三文字が恐ろしく見えた。

 下書きには「長州征伐」とある。征長軍への随行を想定し作成されたのだろう。お蔵入りとなっていたものが、今になって書き改められる。天狗党上洛に備えてであることは疑いようもない。この書き付けは、来たる戦の準備なのだ。

 新撰組が武士の集団であることを改めて思い知る。自分は決して戦場に立たない。しかし──

(この人は、戦場へ行く……)

 ゆっくりと目線を歳三へ向ける。少し猫背な歳三は、左肘を机に着いて、長い書状に目を通していた。

 千歳が直した綿入を羽織り、千歳が出したお茶を飲むこの男が、戦場へ行く。その事実は、目の前の日常とかけ離れていた。

(……戦場に、この人は、死ぬ? そうなれば、私は──)

 ハッとして、歳三から目を逸らした。千歳は今、歳三が死んだら自分はどう思うか、ではなく、歳三が死んだら、自分は誰の許に身を寄せれば良いのかと考えたのだ。歳三のことをまるで愛していない、非情な考えを思い浮かべた自分が恐ろしい。

 歳三がクシャミを続けてした。千歳は火鉢の炭を掻き立てると、歳三の側へ寄せた。歳三は一瞥して、鼻をすすって言う。

「お前が使っていなさい」

「稽古してきたばかりで、寒くないです」

「そうか」

 好かない人間だろうと、寒がっていれば案ずる心くらい、千歳にだってあるのだ。あの火鉢も、起きて一番に千歳が用意している。朝から書き物をする歳三のためだ。歳三は寒がりだから。

 千歳は座布団に座り直し、再び筆を執ったが、清書に挑むだけの集中力を呼び出せずにいた。余計な考えが、脳裏を占拠する。

 勉強をしたいとか、世の中の動きを知りたいとか、そんな理由を述べて隊に残りたがってきたが、結局は、安定した生活の享受に最もらしい高尚な理屈を並べていたに過ぎないのではないか。

 明練堂は寒かった。焚く炭も薪もなく、綿入の着物もない。いつも空腹で、新しくもたらされる知識や感情はなかった。

 今は違う。衣食住の心配はしなくて良い。叩かれもしない。友人も学問もある。誰のお陰で──?

 歳三は嫌いだが、嫌いな歳三の側にいるしかない幼く非力な自分は、もっと嫌いだった。


 書き上げた清書を手渡すと、歳三は一通り内容を確かめ、うんとだけ言って、元の書状に顔を戻した。

 しかし、千歳は動かずに袴の裾を握っていた。歳三が手元を隠すように振り返る。

「何か用か?」

 身を縮こまらせて黙ってうつむく千歳に、苛立ちを抑えながら重ねて問う。

「用がないなら行きなさい。話があるんなら、まとめてから来るんだ」

 千歳が軽く息を吸い込んで、顔を上げた。琥珀の目には涙が張る。歳三は二、三まばたきをして、視線を逸らした。

「──お話は?」

「天狗党……追討するのですか?」

「何も心配することはない」

「ですが……」

 窮鼠は猫を噛むのだ。なぜ、天狗党は西上して来るのか。討伐しなくてはいけないほどなのか。尊王攘夷を訴えているのに──?

 千歳は言葉に出せない。怯えるような言い淀みを受けて、歳三は息を吐いてから、努めて優しい声音で言う。

「心配するな。もう、町方へやったりはしないから」

 千歳が首を振る。そうではない。自分の進退がどうなるかではない。自分はもう、己のことばかりを考える幼い存在ではないと証立てなくてはいけない。自分の尊厳のためにも。

(私だって考えたい。五郎くんたちとおんなじように……世の中の情勢。これから、どうなるのか)

「進退極まり……訴えを携え上ってくる。そんな武装集団に、迎え討つ構えを見せるとは、夏の──」

「お前の論じることじゃない」

「私、私だって京都に暮してるんです。勉強もしてる。世の中のことを──」

 歳三の手が文机を叩き、千歳の言葉は消える。一瞬の静寂の後、畳へと落ちる水音が響いた。歳三が苦々しく顔を向けると、やはり、千歳が唇を噛み締めて涙をあふれさせていた。

 何度この泣き顔を見てきたことか。そのたびに、お前が悪いと咎めだてられているような気分になって、胸が落ち着かないのだ。

「──お前、これ以上、何を譲歩してほしいって言うんだ」

 歳三の声が揺れる。男装を許し、京都に残るどころか、屯所内での寝起きを許し、講義に出ようが、エゲレス語を話そうが、「ホトグラフイ」を撮ろうが、口を出してはこなかった。

「お前がここで勉強したいと言うから、俺はお前を他所へはやらずに、勝手を許してるんだ。それなのに──政治には関わるな。たった一点だぞ? お前はそれすら守れないのか?」

 何も理不尽や不条理を強いていないのに、羽織袴に小刀を帯びたこの十四歳の娘は、弁明を述べるでも謝罪を述べるでもなく、貝のように押し黙り、涙を流し続けるのだ。


 冬至に当たるこの日は、昼過ぎから粉雪が舞いだした。昼食もとらずに八木邸二階の納戸へ立て籠り、火鉢を抱えて本を読み続ける千歳を、啓之助が庭へと連れ出す。千歳は不機嫌を露わにし、寒いと嫌がるが、啓之助は漆黒のビロードを広げ、その上に落ちる雪の結晶を拡大鏡で観せた。レンズの中では、水晶よりも透明な結晶が六角の文様を描く。ひとつとして同じ形はない。

「きれい……」

「良いでしょう?」

 啓之助がおもしろい形の結晶を見つけては、千歳に見せる。千歳が矢立を取り出し、帳面に雪華模様を描くと、啓之助は懐から『雪華図説』を取り出した。様々な雪の結晶が詳細に描かれた図鑑だった。ふたりは、なぜ雪の結晶は六角形から派生するのかを考え合った。

 こうしていると、胸中の不安は忘れられた。考えることは、やはり自分から離れてほしくないし、考えていなければ、自分が自分でなくなってしまうような気がしている。

 歳三は千歳が政治に興味を持つことを否定するも、それさえ守れば、隊にいることを認めてくれる。千歳にはもはや、思考の対象を学問のみに留めることが、最善の道に思えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る