九、自我
十八世紀中頃より、幕府は蝦夷地へ奉行所を設置して北方警備と調査を行い、当地を日本領に入れていった。南下するロシア帝国へと対抗してのことだ。
十九世紀初頭には、文化露寇と呼ばれるロシアの侵攻が起きており、樺太や択捉の陣屋が砲撃を受けた末に、一時占拠されている。
「──では、オロシアによる侵攻を再び起こさぬためには、何が必要で、何が問題となるでしょうか? 択捉島をとって、少し話してみましょう」
伊東は講義の最中、近くに座る者同士で議論させる。この日、千歳は五郎と、その同門の佐野、加納鷲雄の四人で話すことになった。
佐野と加納は、年長者だけあって、議論を引っ張っていく。
「文久元年、オロシアが対馬を占領したろう。あれを事例として、対策を挙げていくのはどうかな」
「そうですね。対馬での反省を踏まえて、対策を考えましょう」
千歳はたった三年前にロシアが対馬を占領したこと自体を知らなかった。五郎の袖を引く。
「オロシアが対馬に来たの?」
「ああ。文久元年の二月だな。オロシア船が対馬の湾に突然現れた。長崎以外に入港できないことは知っていながら」
ロシア帝国海軍中尉ニコライ・ビリリョフは軍艦ポサドニック号の軍事力を背景に、対馬の尾崎湾を測量した後に、無断投錨。対馬藩の退去要請を無視して上陸し、対馬島の租借を願い出た。幕府の対応により租借は免れたが、結局、ポサドニック号は八月に至るまで対馬に居続けた。
「中村くん、そのときいくつ?」
「十三歳です。まだ、宇都宮にいました。加納さんは深川でしたか?」
「うん。佐野さんと話しましたね、対馬まで行って、船に乗り込んでやろうかって」
「そうだったな。あのときはもう、あわや開戦かって、すごい騒ぎだったから」
「学校でもそうでした。友人たちが──」
伊東門下の三人が当時を振り返るなか、千歳は話に加われずにいた。騒動に関する記憶が全くないのだ。
議論は物を知らなければ行えない。読書による学習のひとつ上にある行為だ。千歳は伊東の講義に欠かさず出席しているが、話し合いになれば、やはり、黙って聞くばかりだった。
「──酒井くんは、どう思う?」
「え、はい」
佐野に尋ねられ、千歳は上ずった声で返した。
「択捉島を警備するうえで、これが難しいんじゃないかなぁと思うところ」
「そ、そうですね……えっとー、雪が多いでしょうから……から」
幼い回答に、加納がふふっと笑いをこぼしたため、千歳の耳は赤くなった。「雪が多いから?」と佐野は続きを促した。
「雪のために……冬場、身動き取りにくいと思います」
千歳は佐野を見上げるように伺って、十分な回答かどうかの判断を仰ぐ。佐野は、なるほどとうなずいて、同じ問いを五郎に行った。
「そうですね、仙之介くんの言うとおり、冬場の積雪で身動きが取れないことは、天然による兵糧攻めが毎年行われるわけですから、食料や弾薬の補給路をいかに保つかが難点だと思われます」
政治を論じるには、まず国の現在を知らなくてはならない。国の現在を理解するためには、現在につながる過去を知らなければならない。
千歳の知る日本の過去とは、歴史上の出来事であって、王朝時代のことに留まる。まだ歴史になっていない、つい二、三年前の出来事は、本を読むばかりの千歳には、手に入れづらい知識だった。
夜、近藤を妾宅へ送った啓之助が帰って来て、広間で遅い夕飯を食べていた。千歳は土間に下ろした盥で茶碗を洗いながら、啓之助に尋ねる。
「三浦くん、文久の対馬の事件、覚えてる?」
「ああ、ポサドニク。覚えてるけど、なんで?」
「昼の講義で聞いたんだけど、僕、知らなかったから」
千歳は椀にへばり付く米粒を親指の爪で削ぎ落としながら、自分はそのころ、ほとんど外との交流がなかったと話す。
「十一歳だから、母さまが亡くなるちょっと前か。真っ暗なうちに起きて、道場の雑巾掛けをしなくちゃいけなかった。何往復しても全然終わらないの。それで、日中は母さまの看病と家事と……。そんなだから、寺子屋へも行ってない」
「その年頃でさ、外出れないって、ホンット、つまんないよねぇー。毎日、なんも変わんない。同じ人の顔と声だけが世界」
「……うん。怖いなと思うのは、それが当たり前になってると、世の中に自分たち以外の人がいることも、わかんなくなること」
狭い世界のなかで最も重要な事項は、女将の機嫌。叱られないように、食事を抜かれることがないように、足音のひとつにまでも気を抜けない。叱られなかった日は、今日は良い子にいられたと、自分で自分を褒めるのだ。
全く不健全だと、今はわかる。二度と戻りたくない。知的欲求の働かない日々に、面白味や生き甲斐など、見出しようもない。
「……生まれる家をね、選べたら良いのになって思う、よく」
「ふうん、お仙くん、どんな家に生まれたかったの?」
「うーん……」
「うん?」
「……ご、五郎くんの家とか……良いなって」
友人をうらやんでいると口に出すのは憚られる気がした。けれども、啓之助は味噌汁を勢いよく飲み下すと、強く賛同を見せる。
「あれは恵まれてるよね! 父さま母さま優しくて、理解あって、兄弟仲良しで? お家の中でもそこそこの石取りだもん。そりゃ、俺だって選べるんなら、そんな家に生まれたかったさ」
啓之助は言い切ると、ひとりで笑い出す。千歳には何がおかしいのかわからなかったが、機嫌良さそうに味噌汁を飲む啓之助の様子を見ていると、友人をうらやんだという罪悪感は消えていくような気がした。
「……オロシア船の行動さ、明らかに無礼だと思うんだけど」
「無礼だよなー。武力に物言わせてさ。舐められてるよね」
「ねぇ、租借地って、そもそも何?」
「年限付きの土地貸し。オロシアが対馬を百年租借するとね、百年間、島のお年貢はオロシアに行くし、民はオロシアの法で裁かれる。島にはオロシア人が植民されて、公用語はオロシア語になる」
「あれ、植民地との違いは?」
「借りたら租借地。借りずに本国に併合したら植民地」
「あ、日本は蝦夷に植民してる。それじゃ、蝦夷は日本の植民地か。昔は日本じゃなかったもんな」
仕事を終えた六兵衛が千歳に声をかけ、厨を出て行った。千歳は上がりに腰掛け、洗った椀を手拭いで拭きながら、話を続ける。
「租借地にされそうになってるのに、日本は植民地を持つのか」
「植民しておかないと、オロシアに取られるからね」
「うん……」
千歳は椀を両手で持ったまま宙を見上げる。浮かびくる疑問が消えないうちに、声に出してみた。
「これからの世界さ……戦争、増えるだろうねぇ。自国より弱い国を、租借地とか植民地とかにして……でも、一度手に入れたら終わりじゃない。隙を見せたら奪われる。だから、奪われないように、海防が──」
千歳の声が止まった。啓之助が千歳の視線を辿り振り返ると、大刀を手に提げた歳三がいた。
「ああ、土方副長。おかえりなさいませ」
「うん、ただいま」
歳三がうなずいて応えた。千歳は顔を伏せたまま、近付く歳三の足音に身を硬くしていた。
「酒井。風呂の支度を」
「……はい」
いつもは自分で用意して行くのだから、千歳をこの場から離れさせる方便だとわかっている。千歳は袴の裾を握りしめながら、歳三の後を着いて副長部屋へ戻った。
「政治を口にするなと何度言えばわかるんだ」
障子が閉められると同時に、歳三の説教が始まった。
「講義にも出るなと言われたいのか? 誰々とお話するな、なんて言われたくはないだろう? だけど、お前が自分で、して良いことと悪いこと、分けられないなら、俺はまた、アレはするな、コレはするなと言うことになる。わかるだろう?」
敬助がいれば、間に入り、歳三をなだめてくれるのだが、夕方からの不調で既に寝付いていた。
「──黙ってないで、なんとか言いなさい。お前はここにいたくないのか?」
ここにいたいと言えば、ならば言うことを聞けと返されるだろう。いたくないと言えば、ならば出て行けと返されるのだ。
質問の形を取りながら、質問などではない。
(私の答えなんか、必要としてないくせに──)
畳みかけられる小言は、千歳の口を硬く閉ざすばかりだった。
千歳は、この無意味な説教の最も早い終わらせ方を知っている。泣けばいい。千歳が涙を見せれば、歳三は必ず黙るのだから。
しかし、それは負けだ。絶対に泣きたくない。女の涙と見做され、情けをかけられるなど、気持ちが悪い。まっぴらだ。
泣きたくないと思っているのに、それでも喉は迫り上がる。目頭が熱くなり、堪えられずに涙が出てきてしまうのだ。
やはり、歳三の気勢は急速に失した。
「と、とにかく……ああいうことは、お前が論じることを許された話題じゃない。以後、致さぬように」
歳三はおざなりに説教をまとめると、羽織袴のまま、風呂支度を抱えて出て行った。
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