七、意見
摂津の鎖港を守り通せるかが、開港のなされていない畿内の重大関心事で、伊東による海防論の講義には、三長と隊士の半数が聴講を希望した。そのため、前川邸の広間を予定していた講義場所は急遽、文武堂へ変更になった。
未の刻。千歳は座布団を三枚抱えて、前川邸の裏門を抜けた。敬助は身体を冷やすとすぐに熱を引き起こしてしまう。新入隊士の稽古試合のさいも、自分だけ座布団には座れないと板間に座り、その夕方には体調を崩した。そこで、千歳は昼食後に局長部屋へ上がり、近藤に座布団の使用を勧めた。普段なら絶対に断るだろう近藤も、千歳の意図を察して受け入れてくれた。
座布団を置き、道場の後ろに下がって、参加の面々を眺める。武田と尾形が前寄りの位置におり、島田と井上は話しながら入って来て後方へ座った。原田の姿は見当たらない。総司と斎藤が連れ立って、千歳の前に座った。
総司が振り返って、ニヤニヤしながら、
「『友人となすに好ましい人』だっけ?」
とからかうので、千歳の頬はさっと赤くなった。斎藤が笑いながら畳みかける。
「藤堂くんが頑張ったみたいだよ。彼からも伊東さんに頼んだり、会津さまには十八歳だって届け出たり」
「お仙くんが気に入ってくれたかどうか、知りたがってたから、お文出してあげてよ」
「仲良しすぎて、立ち話始めたらいつ話し終わるかが賭けのタネになってるくらいですって……はははは!」
ふたりが顔を見合わせ、声を上げて笑う。衆目を感じる千歳は投げ槍に、
「わかりました、書きますよ。書きますから! ……って、そもそも、賭け事はご法度ですけれど?」
と虚勢を張って答えた。斎藤が密かに原田たちと賭け花札に興じていることを千歳は知っているのだ。
啓之助が入って来て、千歳を見つけるが、すぐさま露骨に嫌そうな顔をしたのを、総司が見咎める。
「おい、三浦。なんだ、その顔は?」
「別にぃ? 沖田
「──三浦くん!」
剣術において理論的な指導を行わない総司を揶揄する啓之助に、千歳は青くなり、大して重要でもないが、洗濯はやったのかと尋ねた。
「やったよ」
「そう、ご苦労さま。盥、片付けた?」
「片付けた、片付けた」
総司と斎藤は前に向き直り、話し始めている。千歳は息をついて、少し下がって座り直した。啓之助も座り、懐から小さな瀬戸物の瓶を取り出し、千歳にやると言った。中には軟膏がある。
「洗濯であかぎれできるって書いたら、昔から使ってるの送ってくれたんだ、母さんが」
千歳が渡された物は、菊からの荷物が届く前に京都で買い求めた物らしい。
「それもまだ使えるから、どうぞ。君、全然手入れしてない」
たしかに、千歳の手は乾燥して白っぽいのに、啓之助の肉付きのよい手は、ささくれのひとつもない。千歳は心の中で、啓之助のきれいな手に対し、仕事をしていない証と決め付けていたことを詫びた。
五郎を含む前川邸離れの面々がやってきて、講義は始まった。伊東はまず、関東にいる時分に肌で感じた、横浜鎖港への困難さを語った。
昨年末よりフランスへ派遣された横浜鎖港を訴える使節団も、攘夷の気運に押されたにすぎず、幕府は元より鎖港を本気に考えていない。
「──それゆえに、水戸天狗党が四月に横浜鎖港を求めて蜂起したさいも、その訴えは最もであるために、御公儀は早々の鎮圧にも動けず、かといって、鎖港を約せもしない。どちら付かずな対応になったのです」
本音と建て前。将軍家茂が上洛し、攘夷の勅命を受けたとしても、今更、諸外国に鎖港交渉などが受け入れられるわけがない。
「一度開いた港は、もう閉じられません。我々は、港を開いたうえでの行動を考える段にきています」
武田の手が挙がった。伊東が発言を促す。
「武田でございます、質問いたします。伊東先生は、異国やその文物に対して、受容の考えでおいでですか?」
退屈に姿勢を崩していた総司の背筋が伸びた。千歳も前に座る隊士たちの頭の隙間から見える伊東の反応を伺う。
伊東は一同を見渡してから、受容に関しての議論は既にし尽くされたと語った。
「例え、鎖港を断行することになっても、品川沖に泊まる異国船はそう簡単にお引き取りいただけないでしょう。それを討ち払うにも、やはり、異国の砲術を学び、実践する必要があるのですから」
続いて、斎藤が手を挙げた。伊東が指すと、道場の前方に座る隊士たちが一斉に振り返ったので、千歳は自分が発言するわけでもないのに、急に鼓動が速まった。
「斎藤です、お尋ねします」
「お願いします」
「はい、伊東さんが称える開国論とは、『軍事のうえで』でしょうか。それとも、日常に至るまで、広く受容することでしょうか?」
「主眼は軍事です。しかし、それが日常と明確に分離されうるかは、考証の余地があると考えています」
「私も質問します」
今度は尾形が手を挙げた。伊東は次々に隊士より投げかけられる質問に答えていく。講義では講師の話をひたすらに聞き、質問があれば講義後にまとめて行うやり方に慣れた千歳にとって、議論の中で進められていく伊東の講義は大変新鮮に感じられた。
伊東は佐久間象山の海防八策、
「我が国は、日本国という葉の上でのみ生きる青虫でした。それが、今はまさに蛹になろうとしているのです」
変わるには、多大な時間と労力とを要し、また、変化の過程では、状態は一時、不安定にもなる。無事に変化を遂げられるかはわからないし、蛹は外敵に狙われやすい。
「それでも、我々は変わるために動き続けなくてはいけません。青虫であることを忘れず、蝶になることを見失わず。変体を受け入れていくのです」
そう言って、伊東は講義を締めくくった。同時に、質問をする隊士たちが伊東を取り囲んだ。
三長が下がり、伊東がさらに質問のある者を前川邸の離れへ連れ出したが、道場には幾人かの隊士たちが残って話していた。千歳も三長の座布団を回収してから、啓之助と五郎の元へ戻る。五郎は伊東の講義の総括をしていた。
「日本国は、蛹になりかけている。とにかく、早く青虫を脱しなくてはいけないんだ。真の攘夷とは、変化を受け入れて、強い蝶となり、異国の蝶に負けないことだ」
「蛹になりかけかぁ……」
啓之助が何かを思い出したように、宙を見つめ、幼い頃に飼っていた揚羽蝶の幼虫の話を始めた。
「一匹、他の奴より大きいのがいてさ、もっともっと大きくなれば、立派な蝶になると思って、蛹になろうとしていたの、ずっと邪魔してたんだよね」
「どうなったの?」
「結局、死んじゃったんだ。青虫のまま。蝶々、育ててみると、けっこう大人になれない奴は多い。羽化に失敗したりね」
蛹から上手く出られず、羽が広がらなかったり、蛹の中で身体の作り変えが完成しなかったりした蝶は、すぐに死んでしまうのだと言う。
「──だから、変わる過程は不安定になるってこと、よくわかる。生き物も、国も同じなんだと思う」
啓之助はいつになく神妙な顔をしていた。五郎も力強い目でうなずいたが、啓之助が続けてした、蛹を切開して変態の様子を観察した話になると、その詳細な説明に顔を引きつらせていった。千歳が止めに入る。
「おい、三浦くん。そういう話は、相手を選んでしろよ」
「ごめん、中村くん。虫、苦手だった?」
「そういうことじゃない」
千歳の厳しい口調に五郎が笑ったので、千歳も追及はやめた。
五郎が海防論について論じ始めたのに合わせて、千歳は帳面の間から、以前、啓之助よりもらった海防八策の写し書きを出した。五郎が連なる字の端整なことを褒めると、啓之助はおどけて、まだまだと答えた。
三人で読み進める。天保十三年に書かれた献策は、ペリー来訪前のものとは思えないほど、具体策が論じられていた。
第一、諸国の海岸に大砲を据え置き、使えるようにすること。
第二、その大砲は、オランダ交易に用いている銅銭を材料に転用して作ること。
第三、「堅固の大船」を米の輸送船とし、難破しないようにすること。
第四、海運の取締役は適した人物に任せ、通商などで不正がないよう監視すること。
第五、西洋に習った軍艦を造り、海軍を訓練すること。
第六、全国津々浦々に学校を作り、庶民の男女にまで、礼節を教えること。
第七、賞罰は公正に行うことで、威光は増し、民心はより固く結びつくこと。
第八、
「三浦くんは、この中でどの案が好きかい?」
五郎が道場の砂っぽい床の上に置かれた紙から顔を上げて尋ねた。啓之助は迷わず、第三案を指す。
「大船だな。西洋の技術は軍艦とか大砲とか、戦の道具にばかり使われてしまいがちだけど、こうやって経済を下支えする道具として使えたら一番良いよ」
「火薬もそうなんだろう?」
千歳が苦笑いを浮かべて聞けば、啓之助もにやりと笑う。五郎が尋ねると、
「花火とかにさ」
と答え、五郎はどの案が好きかと尋ね返した。
「僕は第八案、『貢士の法』だな。献策は広く受け入れられるべきだ。多くの案が上がってこそ、最善の策を考えられるから。同じく、有能な人物も広く求め、登用されるべきだ」
「なるほどね、お仙くんは?」
「え、僕……? 僕なんかは……」
政治を語れるほど、世の中を知らない。論証に慣れていない。顔を曇らせた千歳に対して、五郎は、最も同意する案を教えてくれと問い直した。
「三案でも、八案でも良いさ。どうしてそう考えるかは人に依るんだから、そこを聞かせてくれれば」
「う、うん」
千歳はためらいがちに、『海防八策』が書かれた半紙を手に取った。
許されるだろうか。何も知らない、政治に関心を持つなと言われている娘の自分が、佐久間象山の建白書に批評を行うなど。
「お仙くん、難しく考えなくて良いさ。この案、良いな、好きだなって思うの、あるだろ?」
啓之助が千歳の肩を大きく撫でて、力を抜かせる。千歳は息を吸い直して、八条に渡る文面を読んでいった。
啓之助が最も好きなのは、大砲を作るように求める第一、二案かと思いきや、造船を説く第三案だった。月もない洛西の野原で、花火は平和だと言っていたことを思い出す。
五郎が推すのは、第八案。優秀な者ならば、試験を受けて政治に携われる仕組み。これが叶えば、五郎もきっと受験しに行くだろう。
五郎は優秀だから。では、自分なら──?
(私では……ダメだ)
幼いころから藩校へ通い、長じては伊東道場で修学してきた五郎と千歳とでは、まるで学識量が異なる。議論の仕方も、武士としての作法も千歳には身に付いていない。
そも、自分は女であるのだから、登用試験など初めから受けられるはずがない。
「あ……」
千歳が紙面の一条に目を留め、
「僕……これが良いかな、第六案」
と床に置き直した半紙を指差し、読み上げる。
「
隣に座る啓之助に目を向けると、続きを促すように半眼がこちらを見ていた。なぜ、これを良いと思うかと問われている。千歳は高鳴る胸を落ち着かせるようにゆっくり息を吸い込むと、姿勢を正して言葉を紡いだ。
「今の世の中、学問を習えるのは、武家か富裕の男子のみだ。限られた者にのみ与えられて、その中で学才を見出された人は、さらに都会に送られて学問を修める。五郎くんみたいに。でも、僕は……生まれが悪かった。──だから、僕、例え、田舎の漁村に生まれた女の子でも、勉強させてあげれたら良いなって思う」
千歳が急に女子教育に触れたので、五郎は首を傾げた。
「女の子?」
「えっと……その、まあ、例えばってこと」
千歳は取り繕ってから、もう一度、五郎を見た。
「五郎くんは、人は広く採らなくてはならないと言った。僕もそう思う。だから、そのためには、優秀な者を広く見つけ出す場所──学校と、優秀だったら、もっと上の学校に行ける機会……仕組みを作る必要があると思う」
象山もきっと、そう考えたからこそ、学校設立を第六案に、科挙を第八案に持ってきたのではないかと言った。啓之助が軽く手を叩いて、良い意見だと笑ってくれた。
世の中の事象を鑑みて、自身の意見を述べることは、存外、悪くない気分だと千歳は思い知った。同じ物事を見ながら、抱く考えは三者三様なのだ。
いつか敬助が、語り合える学友がいると良いと言っていたとおり、千歳は、ふたりと行うやり取りを心から楽しんだ。
学んだ知識を世の中の出来事に照らし合わせて考え、議論し合い、考えを深めていく。様々語り合うには、語れるほどの知識を入れなくてはいけない。千歳の読書量は俄然、増えた。
友人がいると、ひとりで本を読んでいては到底追い付けないくらい、世界は広がっていく。
自分はもう、親に餌を与えられるのみの燕の雛などではなく、自由に空を飛ぶ燕子なのだ。空の自由さを享受して、来たる颶風のことは考えないようにしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます