五、仇討ち
昼時とあって、店内は混んでいた。日の当たる店先の長椅子に座り、善哉を待つ。店の前は子ども連れや修験者の一団、遊山の武士など多くの人々が行き交った。
いきなりに、北西の空から砲声が轟く。参拝客たちは驚き辺りを見渡すが、店の者や境内を行く僧侶たちは平然たる様子だ。五郎は長椅子に置いた大刀をわずかに引き寄せ、啓之助に尋ねる。
「今の、鐘じゃないよね……大砲?」
「そうさ。会津さまのご練兵場があっちにある。そっか、今日は調練の日かぁ」
調練開始の空砲らしい。啓之助が空砲の撃ち方を説明すると、五郎は初めて触れる洋学の知識を興味深く聞いていた。
「三浦くんは、国学とかはあまり興味ないみたいだけど、洋学とかが好きなのか?」
「そう。洋学……算学とか
落ち着いた千歳も話に加わる。
「三浦くんの家、真鍮の器材とか、ずらーっと並んでそう。実験とか家でできたでしょう?」
「うん、火薬の調合はよくやった」
父に隠れて、庭で調合をしていたとき、誤って大燃焼を起こしたことがあると啓之助は続けた。洗濯をしていた蝶の叫び声に飛んで来た象山が、厳しい顔をさらに険しくして、なぜ失敗したのかと怒鳴りつけたという。
「あー、これは、夕食抜きだなぁと覚悟したけど、違うんだよ。木炭がこれくらい多すぎたからですって言ったら、作り直せと言われて、今度は成功したんだ。そしたら、できるじゃないかって頭撫でられた。……やっぱり、よくわかんない人だったな。あんまり、叱られなかったし」
啓之助の奔放な性格は、象山が育てたものだったのかと千歳は納得がいった。
「優しかったんだね」
「うん。門人に対しては、やたら叱り飛ばしてたみたいだけどね」
「え、三浦くんのお父さま、塾されていたの?」
五郎の声に、千歳は思わず、
「あれ、知らない? 三浦くんのお父さま──」
と口にしたが、啓之助が千歳の名を呼んで遮るので、口をつぐんだ。
五郎は軽く頭を下げて、聞かれたくないこともあるだろうと理解を示す。大人な対応を受けて、啓之助もバツが悪くなり、手を後ろに着いて、投げやりに言った。
「ううん、もう良いよ、別に。佐久間象山──知ってるだろ?」
五郎が弾かれたように感嘆の声を挙げて立ち上がった。
「佐久間象山先生!? 三浦くん、象山先生の息子さんなの!?」
「声が大きいよ、中村くん」
啓之助が五郎の袖を引いて座らせる。周りの客も何事かとこちらを見ていた。
「ごめん。いや、だって……えー、驚いてしまった……」
「どうせ、俺ぁどら息子でぃ」
啓之助がわかりやすく不貞腐れるので、千歳は声を立てて笑った。
善哉を食べ終わり店を出ると、すぐに四国言葉の浪士ふたり連れに声をかけられた。
「三浦くん、三浦啓之助くんじゃの? 象山先生の名前が聞こえたきに。いやぁ、元気そうじゃのう!」
「はぁ、門弟の方でしたか?」
気はなくも啓之助が対応するので、千歳と五郎は数歩下がった。どこの国の人かと五郎に小声で尋ねられ、耳を立てると、坂本と同じ土佐言葉に聞こえた。
「父さまの仇討ちしゆうと、新撰組へち聞いちょる。まっこと孝行な息子やねや」
「のう。父さまも喜ばりゅう。──そっちは、隊の?」
目を向けられ、ふたりは軽く一礼する。
「ほうか、ほうか! 気張りや、気張りや。ご武運、祈りよるきぃ!」
浪士たちは揚々と手を振って去り行くが、千歳の心中は穏やかではない。仇討ちの話題が出て、啓之助に何もなかった試しがないのだ。何と声をかけようか迷っているうちに、事情を知らない五郎が、
「三浦くん、象山先生の仇討ちのために、隊に入ったのかい?」
と尋ねてしまった。啓之助は振り返らずに答える。
「そうだよ。……表向きだけど」
「表向き?」
「み、三浦くん──!」
千歳が駆け寄り肘に手を寄せるが、啓之助はそれを荒くも払い退け、五郎に向き直る。
「あのねぇ、仇討ちなんて、今時流行らないのさ! うるさいんだよ、実際に動くわけでもない周りが!」
驚いて顔を曇らせる五郎を残し、啓之助は本堂の方へと走り出した。千歳は、追いかけようとする五郎を制して留める。啓之助の機嫌を直させるには、追って謝るよりも、放っておく方が、よほど確実なのだ。
「五郎くんのせいじゃないから、ホントに! あの人……その、とにかく、大丈夫。大して怒ってないし、うん、よく怒るんだから、気にしないで」
それでも、逸れては困るからと、人の間を縫って進む千歳の背中を見て、五郎は千歳の態度が啓之助にだけ少しばかり粗雑な訳を理解した。
南禅寺の境内に入る。縮んだ赤茶の落ち葉が風に吹かれて、カラカラと玉砂利の上をあちこちへ転がった。見上げれば、紅葉の落ちた黒い細枝の隙間には薄曇りの空があった。上の山の方へ行けば、まだ紅葉が残っているのではないかと啓之助が言うので、三人は境内の東端にある奥の院へ向かうことにした。
方丈の南を抜ける坂道は、大小の石が転がって歩き辛い。先頭を行く五郎は何度も振り返りながら、足元に気を付けるように言う。そして、手前にある塔頭の最勝院へお参りしてから行こうと道を逸れた。
門を潜ると、五郎は啓之助を扉の裏へ隠すように引き込む。
「おい、中村くん?」
「どうしたの? 五郎くん」
「いや……つけられてる」
「え?」
「のぞくな!」
参道を伺おうと門から顔を出しかけた千歳は、慌てて身体ごと引いた。啓之助が説明を求めると、知恩院で声をかけてきた土佐浪人ふたりが新たな仲間をふたり連れて、後を追って来ていると言う。
「だけど、父さんの門弟なら、土佐の人もいるよ。同じ道になっているだけじゃないのか?」
「ただの門弟の参拝客なら、あんな殺気立って歩かないさ」
五郎が羽織を脱ぎ、懐から出した襷で袖を絡げた。千歳も倣う。啓之助は迷いを見せ、戦うつもりかと五郎に尋ねた。
「まさか。四対三、しかも、仙之介くんは脇差だろう? 走るよ」
五郎は水筒を羽織の上に置き、袴の裾が邪魔にならないよう股立を取って、脇門の閂を外した。啓之助は唇を噛んで思案するが、浪人たちの駆けて来る足音を聞くと、羽織を脱いで下に置いた。
浪人四人が門に駆け入ると同時に、五郎に背中を押された千歳は、脇門を飛び出し参道を駆け戻った。三人の足音に気付いた浪人たちは出し抜かれたと叫び、慌てて追いかけて来た。
千歳が怯えて後ろを振り返ると、啓之助を挟んで走る五郎が声を挙げる。
「前を見ろ、止まるな!」
千歳は大きく息を吸い込んで、向き直った。坂を駆け下りた突き当たりには法堂が見える。右には方丈があるので、左に曲がるしかない。左に戻ると山門なので、人目もある。
しかし、そんな考えは相手方にも読まれていた。千歳が律儀に道に沿って角を曲がると、浪士のうちふたりが角を斜めに横切って、千歳たちの前に走り出た。
「お仙くん!」
啓之助が千歳の襟首を引いて下がらせ、五郎との間に挟む。千歳は勢い余って尻餅を着いた。五郎は既に刀を抜いて、後ろのふたりと対峙している。
「何の用だ!」
啓之助が刀に手をかけて、立ち塞がるふたりに向かって叫んだ。その片割れ、左頬に一文字傷のある若侍は、鯉口を切り、半笑いに首を振る。
「うんにゃ、新撰組に仇討ちじゃ」
「この子は十四歳、こっちは十三だぞ!」
啓之助が五郎と千歳を指して言った。
「俺だって十五だし、こんな子ども相手にしなくたって良いだろうが!」
「お前、十七ち聞いちゅうぜ」
「うるせぇ、誕生日替えしてるんだい! 本当は庚戌生まれの十五歳だ!」
「嘘こきなや!」
「嘘じゃないさ」
啓之助が鼻で笑い、両手をふらふらと揺らして敵対の姿勢を崩しながら語り出す。
「父さんは、あれでいて案外、迷信を信じるんだよ。俺の上にいたのさ、本当の啓之助が。だけど、一年で死んだ。ちょうど一年後さ、俺は兄さんの命日に生まれた」
千歳は地面に手を着いたまま、前後の浪人たちの様子を伺う。主格は恐らく、前方右手に立つ一文字傷の男。後方で五郎と向き合うふたりは剣の構えが緩いため、手練れではない、もしくは、主格の若侍に追従しているだけだろう。
切り抜けるなら後方だが、後ろに下がっては袋小路だ。前を倒すしかない。千歳は大きめの石をふたつ拾い、手を袖に隠した。
啓之助はしゃべり続けて、浪人たちの気を逸らしている。
「──俺が生まれて、父さん、こう思ったのさ、これは啓之助がまた命をやり直しに来たんだって! だから、俺は生まれた時点で三歳! 笑っちゃうよな。大変なのは、そこからさ。幼いころの二歳差は、本当に大きいんだから──」
啓之助が息巻く間に、千歳はゆっくり立ち上がりながら、五郎の背中を小突いた。
「前を倒すから、走るよ」
ささやきに、五郎は刀を握り直して了承を示した。
千歳は怯えて兄にすがる弟の顔を作りながら、話し続ける啓之助の右腕を静かに引く。手に石を握らせ、左を倒すように言った。
「──あっ!」
甲高い声を挙げて、走り来た道の方を指差す。浪人たちがつられて目線を向けた瞬間、千歳と啓之助の礫が、前ふたりの眉間に当たった。
すぐさま走り出す。五郎は一文字傷の男に足払いをかけ、刀を仕舞いながら追いかけた。
「こんの、小童どもが!」
叫び声が後ろから聞こえたが、同時に、
「止しゃ! まっこと、あいがは童じゃ!」
との制止する声も響いた。
三人は南禅寺の境内を走り抜け、蹴上のとある茶店へ駆け込んだ。事情を話して、奥の六畳間に匿ってもらう。
啓之助は出された煎茶を飲み干すと、座敷に足を投げ出して、飛んだとばっちりだと言い捨てた。
「俺もお仙くんも、外回りしないし、中村くんに至っては、入って何日目!? ホント、絶対辞めてやる! 仇討ちするどころか、仇討ちに遭いかけるだなんて、こんなとばっちりないよ!」
それからも、啓之助は延々と管を巻き、ともあれ、無事で良かったとなだめる五郎の言葉は聞こえていない。千歳が、先程話していた「本当の啓之助」の話を問うと、啓之助はこれまた投げやりに、
「んなわけないでしょ? 俺はまさしく十七歳さ」
と言い切った。千歳が噴き出すと五郎も笑った。笑うことで緊張が切れたのか、三人はしゃべり出す。
「なぁ、中村くん、見てたか? 奴ら、石当たった時の顔!」
「ははは、見たみた」
「だけど、僕……力入れすぎちゃったかも」
「大丈夫だろう、気は失っていなかった」
「なら良いんだけど」
「敵に同情するなよ、お仙くん」
「違うよ。不意に人殺したなんて、夢見が悪すぎる」
「そりゃそうだ!」
ちょうど店の者が戻って来て、最勝院の門脇に置き去りにしていた三人の羽織や水筒などを差し出し、店の周りにも土佐浪人らしい者はいないと報告した。
空は既に暮れ始めていた。三人は浮かれた気持ちに急かされるまま、速足で三条大橋を渡った。
副長部屋に戻ると、敬助がひとりで机に向かい、新入隊士の隊服の発注を確認しているところだった。
千歳は敬助に今日一日の出来事を話した。宣長の塾で半時ほどしゃべったこと、敬助とも行った清水寺の舞台に立ったこと、祇園社で昼食を食べたあと、浪人に話しかけられ──
敬助は千歳が主格と見做した男の容貌を問い直した。千歳は左頬を縦になぞる。
「ここに刀傷のある、そうですねぇ、二十三歳くらいの土佐っぽい男です。……先生?」
敬助の顔が青くなっていた。千歳は体調を心配し、脈を診ようとするが、敬助は平気だと手を引いた。
「人相書きのね、心当たりがあって。うん、ともあれ、無事で良かったけど……」
「先生……やっぱり、お悪いんでは?」
「ううん、そうじゃなくて……土方くんには、話してはダメだよ。今回の場合は仕方ないけれど、敵前逃亡であったわけだから」
今度は千歳が顔を青くした。すぐさま謝ろうとする千歳に、敬助は優しく声をかける。
「大丈夫、君が無事で良かった。……もし、疲れていなければ、やはり、薬を煎じてもらっても良いかい?」
「はい、すぐに!」
ひとりきりの部屋で、敬助は動悸が治らなかった。
左頬に一文字傷のある土佐の若侍。正月、大坂の岩木枡屋で取り逃した男に違いないだろう。仲間を従えて、新撰組へ復讐に来た。
右手を見る。未だに親指は動かず、刀を握ることはできない。敬助は何度もあの日の出来事を悔やんだ。この怪我さえなければ、敬助は剣術を続けられたし、池田屋にも夏の変事にも出動できた。祐筆と教授方くらいしか働きもしないのに、新撰組副長を名乗ることも、治らない体調不良に悩まされることもなかった。
あのとき、捕縛できなかったからだ。千歳たちも、今回は運が良かっただけで、またいつ付け狙われるか、わからない。
なんと、自分の不甲斐ないことか。
新撰組の副長として、自分にできることとは何か。敬助の問いは、答えを得られないまま、もうすぐ一年が経つ。
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