四、遊山
新入隊士を含めた巡察班が動き出し、嶋原での歓迎の宴も済んで、新参者に浮き足立っていた隊にも日常の色が戻りつつあった。
洗濯と総司による稽古を終えた千歳が八木邸へ行くと、階段の間には、火鉢を抱えて読書する五郎の姿があった。向かいに座れば、五郎も顔を上げる。
「やぁ、お借りしてるよ」
「『
「君がよく読んでるから。国史は好き?」
「うん、好きだ。京都は良いね。ここはいつ何があった場所って考えながら歩くと、本当に楽しい」
「え、覚えてるの?」
火鉢を挟んで、悪戯な顔。この笑い方を見せられると、ロクなことがない。身構える千歳へと、五郎は手許へ一瞬目を落として、
「天平宝字二年八月十日条」
と述べて、続きを促すように見た。
挑まれたのなら、受けて立たねば。千歳は人差し指を眉間に押し当てる。
「わりと大きな出来事があった日?」
「ああ」
その年の天皇は孝謙女帝、宰相は藤原仲麻呂。仲麻呂は八月の終わりに
「……孝謙天皇が
「正解!」
千歳は胸を撫で下ろすが、五郎はまた頁をめくり、薄紅色の料紙が挟まれた箇所で手を止めた。
「ではでは、
神護景雲は四年の十月で改元に至る。ちょうど一年前、天皇は孝謙女帝が重祚して称徳。宰相は法王の道鏡なので――
「宇佐八幡の神託か? 道鏡への譲位を勧める宇佐八幡の神託を、称徳女帝が否定され、道鏡へは皇位を継がせないことを詔され給うた」
五郎が何度もうなずいて、再び柔らかい笑みを見せた。
「すごいねぇ、さすが」
「そんな……君だって、律令覚えてるじゃない」
「何日に何があったかまでは、わかんないさ」
千歳は気不味くも照れて、火鉢の縁から手を引いた。自分は暗記しているだけで、それを根拠に意見を示すことはできない。
五郎は本を閉じると、懐かしそうな声音で、道鏡の墓が下野にあることを話しだした。
「お城下の東を流れる
「行ったことあるの?」
「うん、何度かね」
中村氏の本貫地である中村荘は、龍興寺とは田川を挟んで東向かいに位置する。そのため、中村荘にある宗家の菩提寺や中村城跡に祀られる神明社などへ詣でた帰りに、龍興寺へ寄った。境内では、花見もしたという。
「春ね、両岸に菜の花が咲く間を、川舟で下るんだ。寺の境内に、小さな丘があって、駆け上って遊んだりした。大きくなってから、それが道鏡のお墓だったって知ったよ。もう……本当にすみませんと思った」
五郎が笑い、千歳も笑った。五郎が故郷や家族の話をするときは、いつも幸せそうだった。
「ねぇ、五郎くん。ど、どっか行ってみない? 京都、いろんな人の所縁の地があるから……」
遠慮がちな提案に、五郎が声を挙げて賛同した。洛中の地図を持ち来て、あちこちを指しては、行きたい場所を挙げる。
御所へは京都に着いた日に参ったという。北野は梅がきれいだから、春に行こう。鞍馬や貴船も良いが、山へ行くなら夏に。せっかくなら千歳も行ったことのない伏見稲荷はどうだ。
候補はたくさん揃ったが、結局、定番の行楽地である清水寺から南禅寺までの東山界隈を巡ることにした。ちょうど紅葉も極まるころだ。五郎は明後日が非番になるので、千歳も合わせて暇を願い出てみた。敬助はふたつ返事で了承し、歳三にも話しておいてくれると言った。
昼食をとりながら、持って行くものや出立の時間を話していると、近藤に付いて外へ出ていた啓之助が膳を持って隣へ座った。
「ただいまー」
「おかえり。局長は?」
「お着替えしてる」
「君は……それを手伝わず、先にお上がりになって良いのでしょうか?」
「お着替えくらい、ひとりでできるよ。新撰組の局長先生だもの」
そういう意味じゃないとの千歳の反論を聞き流し、啓之助は五郎に何を話していたか尋ねた。遊山の計画を知ると、共に行きたいと手を挙げる。
「もちろん、良いけど……君、仕事──」
千歳の心配を他所に、啓之助は既に立ち上がっていた。
「局長にお願いして、休みを代えてもらうよ。──あ、先生!」
啓之助は、隊士たちの間を抜けながら、着替えて出て来た近藤へと話を持ちかける。近藤が幾度かうなずき、笑いながら千歳たちへと手を振った。啓之助も笑顔で振り返える。千歳は五郎と共に礼を返した。
「三浦くんは、話を聞かせる力があるんだなぁ」
五郎が啓之助の長所のみに焦点を当てた感想をつぶやいた。見方によって評価は変わるものだと千歳は感心する。
「五郎くんは……うん、公平な目線をお持ちね」
「そう?」
「あの人にも、もうちょっと、五郎くんの十分の一でも、
五郎には、千歳の嘆いた口振りの理由がわからなかった。
薄曇りの早朝。三人は速足に前川邸を出たが、十町も進まない場所で、千歳と五郎は半刻近くも足を留めていた。本居宣長が儒学と医学を修めた堀景山の塾だ。
「学者としては遅咲きだよね、初めての遊学が二十三歳って。五郎くんも十五歳で江戸に出てるでしょう?」
「うん。それでも、始めた早さじゃないんだなってわかるな、人を大成させるものは。努力とその継続だ」
学問への姿勢、儒学を習った青年期から
啓之助はふたりの会話から早々に離脱し、向かいの大原神社へ詣でると、落ち葉掃き中の巫女を捕まえて、こちらも楽しく話していた。ちょうど饅頭売りがやって来たので、四つ求め、ひとつは巫女の娘に、三つは懐紙に包んで、話し込む千歳たちの元へ戻った。
「やぁ、今の話題は?」
「源氏物語について。仙之介くん、原文で読みたいって言うんだ。すごいよね」
「そんな……今は、とても読めないもの。読めるようになりたいってこと」
「ふうん。君たちは熱心だねぇ」
啓之助が懐紙を開き、千歳へ差し出した。千歳は、歳三の険しい眉根を思い出して、ためらう。
「嬉しいけど、振り売りから買ったもの、食べるなって」
「副長?」
啓之助がフフッと鼻を鳴らして、往来へ顔を向ける。
「誰も告げ口したりしないさ」
雲の切れた東山の端から朝日が差し込み、東西に延びる道を照らす。忙しく働き回る町衆は、千歳たちに目もくれない。
千歳はちらと五郎を見る。千歳の困惑を受けて、五郎は小さく笑い返すが、それでも、啓之助へ礼を述べて饅頭を手に取り、食べた。
そうなれば、千歳も食べない選択肢はない。柔らかな饅頭を手に取った。
五条へ下り、鴨川を渡って、清水寺の舞台へ上った。落ちかけた紅葉の向こうに見える京都の街並みは、まだ点々と焼け跡や更地が残っていて、一年前に敬助と来たときに見た、日に照り返される瓦屋根の軒並みは戻っていなかった。
清水坂を下り、
「『三年坂で転んだならば、三年きりで死んでしまう』」
「えっ」
少し足取りが慎重になった五郎に啓之助が笑った。
「平気だよ、中村くん。山南先生が言ってたさ、三年ごとにここで転べば良い。『三年坂で転んだならば、三年間は死なないよ』」
「それ、理屈……通ってるのかなぁ?」
五郎もやはり千歳と同じ疑問を持ったらしく、千歳は走りたくなるような楽しさを覚えて、笑い出した。
八坂の塔を見上げ、高台寺に参り、祇園社へ詣でる。境内の茶屋で、早めの昼ご飯を食べることにした。
「──ですから、時計の正確さには、振り子を動力とすることですよ。ゼンマイに頼ると経年の──」
啓之助は座敷の床の間に置かれた櫓時計に興味を取られ、店主まで呼んで、カラクリの仕組みを語り合う。一方、席に残ってうどんを待つ千歳は五郎へと、仲間とは何かとの議論を持ちかけていた。
「──だから、仲間が欲しいからと、それを求めて行動するのは、順序が違うんだって」
「では、仲間とはどのように得るものというのかい?」
五郎に問い返され、千歳は眉間に人差し指を当てて考える。
「……そも、仲間とは何か。まず、そこを明かしたい。同輩、友人とは何が違う?」
「仲間の方が、より公に用いられる言葉だと思う。株仲間とか」
「では、遊び仲間と友人との違いは?」
「『共に遊ぶ仲間』が友人なのでは? 『仲間』は様々な色を持つ。親しい同輩、同じ利権を有する商売人。あー……つまり、何かしら相通ずるものを持つ二者以上に与えられる名、では?」
「それは、なんか……分類、に関する見方だと思う。君の見解、合ってはいるんだろうけども……人に限って言ったら、なんか──外から見た区分じゃないと思うんだよ、仲間……もっと、精神に依るというか……」
「うーん。じゃあ、さらに狭めて、仲間を同士と言い換えてみる? 例えば、憂国の志士。──あ、それなら、わかるかも。同志を求めて国事を語るのは、確かに違うね、順番が」
五郎による提示に、千歳の中でまとまらずにいた思考の隙間が、わずかに詰まった気がした。それでも、思考は外された組み木細工のように、断片同士の調合が取れていない。焦燥にも似たもどかしさが胸に迫り来る。
「けれども、憧れから───その人に近付きたくて、同じ道を選ぶのはダメなことなのかな?」
千歳の指摘に、五郎も口許を覆うように手を添えて思案する。
「たしかに……模倣とは、子どもが大人になるために欠かせない行いだ」
「子ども……」
大人とは何か。五郎と初めて交わした議論だ。千歳たちは、少年を脱しつつあるが、未だ大人ではない。
「──あ! だから!」
思考が繋がった。手が忙しなく膝を叩き、口を突く言葉が姿勢までをも前のめりにさせる。
「だからこそ、子どもと同じじゃいけないんじゃない? 模倣するだけは、子ども。ただ志士になりたいとか、誰か憧れる人の同志になりたいとか──それじゃ、ダメなんだよ。行動の結果が仲間でなくちゃ!」
「つまり、君は……こう言いたい? 仲間を求めて、仲間となり得る振る舞いをすることは模倣。子どもと等しく、真の仲間たりえはしない。しかし、自らの真心に従いて行い、それを成すなかに得られた仲間は、同志。と?」
「うん、うん!」
よほど整った言葉が返され、千歳は高揚と、もどかしさからの解放とを味わっていた。今、千歳の内部は五郎と共有された。仲間のもたらす安心と信頼感。千歳が求めていた学友とは、まさに五郎のことだったと思う。
「君はすごいね、本当に賢い。僕なんかダメだな、全然言葉を使えない。僕、ここだと思う、大人になれてないところ。きっと僕、このままじゃ大人にはなりきらない。だって、なんだか──」
千歳は、五郎の冷静に見返してくる目を受けて、興奮のなかで言葉を積み重ねる自分が、余計に子どもに思えた。五郎の無駄のない話し方とは程遠い幼さが恥ずかしい。
「なんだか、なぁに?」
「う、うん……えっと。なんだか、子どもだなって、思った……」
急にしおらしくなった千歳に、五郎は不思議そうにも笑った。
「君はなんだか、良いね」
「……はて、さよにござろか」
五郎は重ねて笑ったが、五郎を大人だと思うのは、千歳の顔が赤くなりきるより前に、別の話題を振ってくれるところだった。
茶屋の裏手で水筒に水を汲んでから、境内を抜けて、知恩院の山門前へ出た。二十数段の石段の上、屋根の端を強く反らせた楼門には、金屏風の霞のような紅葉がかかっていた。
五郎が、楼門の二層目から市中を眺める参拝客に気付き、登ろうと誘いかける。啓之助がすぐに応じ、足速に石段を登るが、高い所は清水の舞台で十分な千歳の足は重い。
啓之助が石段の頂上から急かしても、千歳はのったりと歩み、下で待つと返した。啓之助がにやりと笑う。
「何さ、高いの怖いって?」
「違うよ!」
パッと赤くなる千歳に、声を立てて笑う。五郎は顔を背けるが、手の下にて緩む口許は隠しきれていない。意地になった千歳は、勢いよく石段を登ると、
「やっぱり、僕も行くよ。怖いわけじゃないんだから」
と言って、先頭切って楼門の段梯子を登った。
第二層の仏堂には、十六羅漢に囲まれた
脚から冷えゆくのを感じながら、金箔の落ちた仏像のなだらかな肩周りをぼんやりと見続ける。最近、志都や兵馬をふと思い出すことが減った。寂しい気もするが、忘れてしまうくらい毎日が楽しいのだから、志都たちもきっと許してくれるはずだ。
五郎が戻って来て、千歳の隣に座った。風に吹かれて赤くなった頬で笑いかける。
「仙之介くんは、高いところ、苦手だった?」
意地悪でないことは、落とされた声量や声音から伝わるが、千歳は大袈裟に顔を背けると、合掌を額に掲げて、
「ここ、母さまと道場のお師匠さまがいらっしゃるんだ」
と無愛想に言った。
何かを言おうと口を開いた五郎の息遣いが伝わりきたが、何も言わない。千歳が目を戻すと、五郎は真剣な顔で手を合わせてくれていた。名の付けがたい寂しさが胸を締めた。
楼門を降り、本堂への石段を登る道すがら、千歳は自身の生い立ちを話してみた。五郎や啓之助の家庭の話を聞きながら、自分はしていなかったことに思い至ったのだ。
「──母さまが道場の女中で、
本当に仙之介であったなら、人生がもう少し単純であっただろうに。黙り込んでしまった千歳へと、五郎が優しい声で語りかけた。
「僕、さっき、仙之介くんのお母さまに、これから友人として付き合わせていただきますって、ご挨拶させてもらった」
胸が迫り、目頭が熱くなった。思わず五郎から顔を背けると、啓之助の手が無造作に千歳の頭を撫で、そのまま、肩を抱いた。千歳は涙を堪えた。志都の話が出て、啓之助に慰められて泣くとは、前にもあった状況だ。二度目は許されない。
「あ、良い匂いがする……!」
千歳は効かない鼻で息を吸いながら、目の端に映った階段の上の茶屋を指した。甘い匂いに、五郎が手を叩く。
「僕、さっき楼門で風に当たって冷えてしまってさ。お善哉、いただいても良い?」
「あー、俺も食べたぁい。誰が一番乗りか!」
啓之助が石段を駆け上がると、五郎もその背中を追った。千歳は袖で涙を拭うと、
「武士は走らないんじゃなかったの?」
と言いながら、やはり後を追った。
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