三、お家
文武堂にて、新入隊士の腕前を見るための稽古試合が行われた。道場の中央では、井上と島田が進行役を務め、総司と斎藤、武田が次々に隊士たちを相手取っていく。千歳は啓之助と一緒に三長の後ろに控え、試合結果と各隊士への評価を記録していった。
「次は内海二郎さんですね。へぇー、伊東先生んとこの塾頭さんですかぁ」
啓之助が気の抜けた声で番組を見ながら、近藤に告げた。
「彼は、さすがは塾頭だけあって、強かったよ。向こうで稽古を見せてもらったけど」
近藤が興味深そうに腕を組んで、総司と対峙する内海を評した。井上の掛け声で試合が始まる。
「甲。動きに癖とか無駄がない」
千歳は歳三の言葉を受け、筆を走らせて書き付ける。近藤も甲を付けた。敬助の後ろへ回ると、敬助は乙を付けた。
「技には申し分ないけれど、彼は少し受け身だね。自らは踏み込まないみたいだ」
入隊試験でも、同じように剣術や柔術の試合を行い、甲乙丙丁戊の五段階を付けていく。戊は不合格の腕前なため、今回の稽古試合は実質四段階評価だった。
五郎への評価は乙がひとつ、丙がふたつ。若さの割に落ち着きがある剣が評価された。佐野は、乙が三つ。三木は内海と同じく、乙がひとつに甲がふたつ。
内海は総司から三本中、一本を取り、試合を終えて、道場の端へ下がった。面金を外したその顔に、千歳は三年ほど前の記憶が呼び覚まされた。道場を継いだ伊東の襲名祝いへ、病床の兵馬に代わって、祝辞と祝い金を届けに上がったとき、対応してくれた青年だった。
伊東の襲名祝いには、江戸府内に留まらず、方々から身なりと体格の良い剣豪が祝いに来ていた。そのなかで、千歳は供も連れず、粗末な振袖の少年姿で記帳に並んだ。内海は、こんな子どもが何の用だと、怪訝な顔をして千歳に対峙したが、千歳が明練堂の佐藤兵馬の名代だと述べると、静かに一礼して包みを受け取ったのだった。兵馬の病状を知ると、快復を祈り、再び頭を下げてくれた。朴訥な印象は、今も変わらなかった。
内海に代わり、試合は最後のひとり、伊東の番になった。対峙するのは斎藤。両者共に劣らない、緊迫した試合運びに、道場にいた誰もが見入った。伊東と斎藤、それぞれが一本を取った状態で、最後の一本――抜き胴を取ったのは伊東の方だった。伊東への評価は、文句なしの甲三つとなった。
稽古試合の興奮覚めやらぬ隊士たちで賑わう前川邸の土間の端で、千歳は急いで昼食をとった。部屋に戻り、稽古試合の評を清書する。歳三へ提出すると、代わりに、角屋まで新入隊士歓迎の宴を行う予約を取りに行くよう依頼が出された。
曇り空の下、霜月の風は冷たい。千歳は辛子色の振袖の上に、さらに臙脂色の振袖を重ねて、寒さを凌いでいた。去年は袴もなしで冬を越したはずだが、一度でも温かさを知ってしまうと、もう戻れない。
千歳は予約を取り付けると、坊城通を走って壬生まで戻った。前川邸の裏門に駆け入ると、五郎が離れの玄関から出て来たところだった。
「何かあった? 走って」
「ううん、寒かったから」
「寒いから、走ったの?」
「うん」
「武士は走らないよ」
「でも、寒いんだよ?」
「武士は雨が降ろうと、風が吹こうと走らないさ」
毅然とした五郎の口振りは、今まで周りにいなかった生粋の武家育ちを千歳に感じさせた。軽く返事をして、腕を伸ばしながら深く呼吸を繰り返すと、五郎が、羽織は着ないのかと尋ねる。
「持ってないんだ」
「そりゃ、寒いよ。あ、一緒に買いに行かないかい? 僕、今から古着屋行こうと思うんだけれど」
千歳は歳三へ無事に座敷が取れた報告を済ませると、次の仕事を言い付けられる前に、すぐに財布を持って部屋を出た。走りそうになるの抑えて、正門前で待つ五郎の許へ行った。
歳三に連れられて入った室町筋の古着屋を訪ねると、店主は千歳のことを覚えており、臙脂色の着物がよく似合うと褒めた。
「そんなことないです……すみません」
千歳は視線を逸らして、会釈する。褒められることには慣れていない。
店主は状態が良ければ何でも良いと言う五郎の着物を一式見繕っていく。家紋を尋ねられ、五郎は着ている羽織の袖を引いて見せた。
「丸に
葵の御紋に似た片喰紋。その三枚の葉の間に、剣をあしらった下野中村氏の紋だ。丸に片喰は珍しくないが、剣が入ると多くはない。
店主が、剣のない片喰ならあるのにと言ったとき、千歳はおずおずと手を挙げた。
「あ……僕、丸に片喰です、家紋」
三河酒井氏の定紋。名前も知らない祖父より、苗字と共に受け継いだ唯一のものだった。
千歳は黄味がかった茶色の羽織を着たまま店を出た。西洞院に差し掛かったとき、五郎が道にある甘味屋に目を留めたことに気付く。
「五郎くん、甘いものは好き?」
「うん、好きだ。これは善哉屋? 良い匂いだ」
「ここは、おいしいよ。僕もよく来る」
「そうなんだ、隊の人と?」
「ううん、ひとりで」
お遣いの帰り道、千歳が買い食いをやめないことは歳三にも知られている。先日は、北野への文遣いを済ませた報告を終えるなり、
『振り売りとか屋台で買った物を、その場で食べることだけはやめろ』
と顔も向けずに言い放たれた。ちょうど、前日より伏せていた敬助へのお土産として、大福を振り売りからふたつ求め、ひとつはその場で食べて来ていただけに言い訳の余地もなかった。口許に残った打ち粉で知られたのかもしれない。
とにかく、それ以来、その場で食べること
店は土間に沿って座敷が続き、一間ごとに衝立が据えられ、仕切りとなっていた。善哉をふたつ注文すると、ふたりは中庭に面した座敷の端席に通された。枯れかけた苔の庭には、紅葉した楓が立っていた。
千歳は自身の丸に片喰紋と、五郎の丸に剣片喰紋を見比べて、五郎の中村氏と酒井氏とに何か関係があるのかと尋ねた。
「ないと思うよ。酒井氏は源氏でしょう?」
「ああ……うん」
「中村氏は藤原北家だから。伊達政宗公の伊達氏とご先祖は同じだよ。源平のころに、
「義経公って、あの牛若丸?」
「うん。公のご子息が養子となって、
五郎の出身は下野国宇都宮。祖先は代々、その近郊にある中村荘を治めてきたという。武家の子息ならば、これくらいの自分の家の来歴を話せるものだろう。しかし、千歳は、五郎による、
「仙之介くんは、どこの酒井さん?」
との質問に、一言でしか返せない。
「お祖父さまが、奥殿の江戸屋敷に勤めていたのを浪人したらしい」
「奥殿かぁ。麻布辺りにいらしたんだろうね」
「うん、きっと」
奥殿藩の江戸屋敷がある場所だ。志都も幼いころはそこの下屋敷に住んでいたのだろう。尋ねたこともなかった。
六百年昔の家の興りを語れる者と、母の来歴すらわからない者。そう思うと、向かいに座る五郎の居住まいや、着古された長着の襟の合わせ方にさえ、着々と受け継がれてきた「家」の重みが現れているような気がするのだ。
善哉が出される。五郎は食べながら、伊東に従って上京するまでの生い立ちを話した。
宇都宮城下の中級武士の家に生まれた五郎は、第六子の三男。七人の兄弟姉妹の下から二番目だったが、次兄と妹は夭逝しているため、末っ子として、祖母と両親、兄と三人の姉のいる家庭で育った。父は無口だが優しく、対して母は厳格な武家夫人だった。年の離れた長兄がよくかわいがってくれた。
「八歳で学校に上がってさ。勉強は好きだったから、一度も休まずに行ったよ」
大手門のすぐ側にある藩校――修道館のことだ。
五郎は、遠縁の夫婦の許へ養子に行くことが決まっていたが、十二歳の終わりに、先方に男児が生まれたため、話は流れた。五郎の父は、息子の行き先をどうするか迷っていたという。
そんなころ、藩士の子弟の間で水戸や江戸に遊学することが流行したので、五郎も父に頼み込み、深川稲荷の側にある宇都宮藩邸下屋敷に出してもらい、近くにある伊東道場へと通うことになった。
「──それが十五歳の春だ」
「実年齢の?」
「うん? ははは、そう。一年半前」
今年の夏、藤堂が伊東に文を送って来た。伊東は上京を決した際、門下生は連れて行かない考えを示した。何度願っても、許されなかった。各藩の各お家から子息を預かる身としては、門下生を脱藩させるわけにはいかないのだと。
そこで五郎は、兄へ文を書き、藩を去りたい意向を述べた。兄は宇都宮からすぐに飛んで来た。
「兄さん、もう男の子がふたりいるんだ。だから、『五郎もいつあるかわからない養子縁組を待ちながら暮らすよりは、外に出て、お国のためにお働きなさい』って言ってくれてね」
藩主より出された暇の許しを携えて、何度目かわからない伊東への談判に臨むと、伊東も半分呆れた顔で随身を許したという。上京直前には、両親も江戸まで来て別れを惜しんでくれた。
「だから、僕、きっと存分に働くよ。志士として」
藤堂によって「見目麗しは、向後の成長に期待」と書かれたとおり、これといって特徴のない目鼻立ちをした五郎だったが、薄いまぶたの下では、言葉の強さと同じだけの熱を持った目が輝いていた。
赤い前掛けの娘が急須を持って上がって来て、奥に座る千歳の方から湯呑みへお茶を指す。五郎は、膳の端に茶托を差し出して、お茶を受けた。
娘が湯呑みを五郎に寄せ返したとき、袖に引っ掛かった湯呑みが膳から落ちた。湯気立つ昆布茶が五郎の羽織にかかる。五郎による驚きの声や、千歳による心配の声より先に、娘の叫びが店内に響いた。
「か、堪忍え――! ほんに、ほんに……許しとくれやす!」
店主も飛んで来て、座敷に平伏す娘と、千歳に渡された手拭いで羽織を拭く五郎の様子から状況を察し、深く頭を下げる。関東言葉を話す若侍の所属は、新撰組か見廻組か、もしくは会津か──守護職配下の血気盛んな
「大変なご無礼、お許しください。よう言うて聞かせまっさかい、何卒……!」
五郎の着物は表面が濡れただけで、下の長着などは無事だったが、店主と娘は恐縮して、千歳が見ていても哀れになるくらい何度も頭を下げている。どう収拾をつけるのだろうかと目を向けると、五郎は羽織を脱いで畳み、座敷の上に置いた。
「もう良い。それほど、濡れてもいない。先程、替えの着物を買ってきたばかりである故、これ以上の懸念は無用。娘の方に火傷はないか?」
五郎の落ち着いた声に、娘は何度も顔を縦に振った。
撫肩な五郎の長着には、肩揚げの跡がうっすらと見えた。その均整な針目は、厳しいと評された五郎の母が、彼をどれほど慈しんで育てたか物語っているように感じられた。五郎が思いやりをもって育てられた少年であること、人格者であることに、千歳は疑いを持たなかった。
千歳が副長部屋に戻った。歳三は、小さな声で帰営の挨拶をした千歳が、見慣れない羽織を着ていることに気付いた。千歳の身なりがまた男のものになったことに、ため息が出そうになる。
女は羽織を着ない。まして、袴も着けないし、小刀も差さない。なぜ千歳は娘であることを頑なに拒むのだろう。
歳三は考えを巡らす。初めて京都に来た日、売られると怯えて泣いた姿は、よく覚えている。あの娘に、無理に女の装いをさせようとは思わなかった。
しかし、奉公に出ていたときは、娘らしく島田に結い上げていたのだ。娘姿に対する怯えるほどの拒絶は、もうないはずなのに、千歳はあくまで男装を改めない。隊にいたいと訴えた千歳による、言外の意思表示と見做すべきだろう。
文机の傍に置かれた行灯へ灯を入れようと座る千歳の後ろ姿を見る。襟首の下部にあしらわれた家紋は、当然のように三つ巴紋でない。
微かに揺れる心を認め、歳三は苦々しく顔を逸らして、手許の書類に目を戻す。しかし、一度浮かび上がった志都の面影は墨書の上に揺れ続けていた。
志都は美しかった。若竹のように清々しい、匂うような健やかさがあった。明るく柔和で、人の機微によく気が付き、寂しがり屋な志都。歳三の見知った志都は、わずか一年足らずの姿にすぎない。志都の為人が、最も鮮明に現れた娘時代──彼女の険しい一生の中で、束の間の落ち着きがあった一時しか、歳三は知らない。
暗い枯れ草色の羽織をまとった千歳は、火打ち石で起こした火種を吹いている。
親子が似通うのは、容貌だけではない。命運とも言うべき、生の道筋も重なる。幼くして両親を亡くした志都は、病の末に死んだ。この娘も、志都と同じ命運を辿るのだろうか。灯に透かされた赤い指先の、その下を流れる血にさえも、肺病の種が潜んでいるのだろうか。
(この娘が、死ぬかもしれない……)
一年間、風邪ひとつひかずに、よく食べて、よく学んできたこの娘が死ぬ命運にあるとは信じがたい。
灯を入れ終えた千歳が居室へと下がり、床に臥す敬助に声をかけた。敬助は午前中、道場の冷たい床に一刻近く座り続けたことがいけなかったのか、夕方前から寝付いていたよだ。
歳三は閉じられた襖を見つめた。
命運は変えられるか。
変えようと動く者には、変えられる。そうでなければ、自分は三味線屋の若旦那になっていたのだから。歳三は自らの命運を変えるため、京都にまでやって来て、今や新撰組の副長としての地歩を固めつつあるのだ。
襖の向こうから、千歳の高い笑い声が漏れ伝う。千歳も京都にまでやって来た。ならば、きっと、志都のような悲惨な命運は辿らないだろう。歳三は、記憶の奥底から浮かび上がる志都の笑顔を、再び押し込めた。
(……お志都さんが、別に、悲惨な命運だったかどうかなんて、お前は知らないことだ)
何の役にも立たない追憶よりも、目の前にある仕事を行わなければならない。東では天狗党の鎮圧が、西では長州征伐が行われ、隊には新入隊士が入ってきた。明日の朝までに、新入隊士の実力が均等になるように組み直した巡察班を作らなくてはいけない。
歳三は、啓之助によって取られた稽古試合の結果と、千歳によりまとめられた三長の各隊士評を何度も見比べながら、作業を進めていった。
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