六、親愛なるami
一、新た
十月の末。澄んだ冬の空気が北風と共に京都盆地の底を冷やすころ。近藤たちが新入隊士を引き連れて帰還した。
旅装束も解かぬまま、新入隊士たちは前川邸の東庭に集められ、入隊の挨拶をさせられる。聞きに集まった隊士たちの人垣の後ろに、千歳も啓之助と並んだ。
「今、挨拶してる人は誰?」
「沼尻さんだって」
「ふうん。で、
啓之助は厨の壁にもたれながら、千歳に尋ねた。無関心は声音を聞かずともわかる。千歳は啓之助の腕を引いて真っ直ぐに立たせると、向こうからは見えないように低い位置で、沼尻の後ろ、米蔵の脇に立つ十人ほどの集団を指した。
「あの右端の背の高い方」
「あれ、目が悪くてもわかる……男前じゃないの」
「ふふ、もう……」
おどけた言い方に、千歳は悔しそうに吹き出した。
十歳になった春、兵馬に連れられて訪れた深川の伊東道場で出会った、まだ、
婿養子となって道場を継いだ伊東は、さらに貫禄まで得たように見える。ただ、近藤が大樹のような、重厚で広大な印象を与えるのに対し、伊東には流麗な青柳の如き、しなやかさと軽やかさがあった。
「ねえねえ、伊東さんたちって、仮入隊……なんだよね? なんで?」
「君、ホント、人の話聞いてないよね……」
沼尻による挨拶への拍手をしながら、千歳がため息混じりに言った。藤堂からの報告書にその理由は書かれていたし、敬助からも聞かされている。
伊東は、尊王攘夷を志す近藤に共感して上京を決めたが、入隊するかどうかは、伊東たちと新撰組との信念が合致するかをしっかりと見極めてから決断したいと願い、近藤もそれを許したのだ。
「──だから、しばらくは、仮入隊者として隊務に就くんだって」
「ふうん、そうなんだ」
再び壁にもたれた啓之助の背を手で支え、千歳は背伸びをして、伊東を見た。あの一団が、伊東道場の者たち、仮入隊者なのだろう。
伊東が前に出て、挨拶をする。背丈の割に高い声は明瞭で人垣を越えても聞き取りやすく、人を惹きつける心地良さがあった。
伊東は近藤の誠意、真心に共感して上京したと述べた。伊東の出身は、常陸国志筑。朋友には、天狗党の挙兵に呼応した者も多く、伊東も一時は党に加わることを考えた。
「しかし、破約攘夷のみが、慎に国のためになるのか、私の中では、疑問が消えませんでした。そんなとき、寄弟子であった藤堂平助くんの紹介により、近藤局長のお話を伺うことになったのです」
近藤も、元は破約攘夷であったが、今は開国した上での攘夷の道を探っている。そこに、共通性を見出したのだ。
そんな演説には、とうの昔に飽きている啓之助が、千歳を突付いて、伊東道場の一団の中にいる、際立って幼い顔立ちをした少年を指し示した。
「あれ、中村五郎くん? 俺の目が悪いのかなぁ、とても十八には見えないよ。君と同じくらいだ」
「ええ?」
千歳は高く爪先立ちになり、中村五郎を見つけた。たしかに、日に焼けた頬から顎にかけての肉付きや、首の細さを見ても、啓之助より年上とは思えない。千歳と同じとまでは言わないが、十五、六くらいにしか見えなかった。
啓之助が半眼で、フンッと鼻を鳴らした。
「真面目そうな奴ー。そんな畏まってると、田舎者っぽさが強調されるぞぅ。──なぁ、『見目麗しは今後の成長に期待』できると思う?」
「君は余計なことしか覚えてないんだな!」
千歳は声を挙げないように、しかし、語気は強く言うと、頭の後ろで手を組む啓之助の腕を解かせた。
新入隊士たちの挨拶が終わると、啓之助は近藤の許へ駆け寄り、帰還を労いながら、局長部屋へ戻って行った。千歳は、新入隊士たちの許で部屋割りの指示を出す歳三と敬助に呼ばれ、伊東の一団を前川邸の離れに案内するように言い付けられた。
離れの玄関には、足洗いの盥を既に用意してある。伊東は手拭いを携えて座る千歳に一礼してから、式台へ腰掛けて草鞋を脱ぎ、足を洗った。
「君はお小姓さんですか?」
「はい、酒井仙之介と申します。副長部屋に置いてもらっている者です」
「ご丁寧にありがとう。こんな姿勢で申し訳ないが、伊東甲子太郎と申します」
四年半前に一度だけ会った娘のことなど、思い出すはずもないだろう。千歳は、盥から足を上げた伊東に手拭いを差し出し、奥に進むように促した。
次に草鞋を脱いだのは、伊東の弟である三木三郎。一種の緊張感をもたらすような兄とは反対に、穏やかな腰の低い青年だった。
千歳に一礼して、刀を框へ置き、式台へ腰をかけたこの少年は、啓之助の評したとおり、都会的な華やかさとは無縁の、純朴な印象だった。草鞋と脚半の紐を解く姿勢には、強かな軸が見え、指先にまで「気組」が通っていることがわかる。所作に現れる気品は、幼いころより教え込まれたであろう武家教育を感じさせた。
言動のために忘れがちだが、啓之助も、立ち振る舞いの所作は流石のものだ。隣で食事をとるときなど、千歳は自身との歴然たる差を感じている。
千歳を躾けた明練堂の女将は名主の娘で、兵馬も富農の出だ。志都は武家の出だが、幼いころに母──千歳にとっての祖母を亡くしたため、放任な祖父の許で、武家の娘らしい教育は受けなかったようだ。つまり、千歳の所作には、武家のものがほとんどない。
(これが、育ちの差というのだなぁ……)
千歳のまじまじとした視線に気付いた五郎が、パッと顔を上げ、千歳と目線を合わせた。千歳はまばたきをして目を伏せ、取り繕うように手拭いを差し出す。五郎はそれを受け取ると、
「君が酒井仙之介くん?」
と尋ね、にっこりと笑った。
「僕、中村五郎です。藤堂平助さんから、友人になってもらえって聞かされていたんだ。会えるの楽しみにしていた」
「こ、こちらこそ……!」
ここに啓之助がいたら、千歳がいかに五郎の到着を待ちわびていたか──本棚を前にしては、五郎は何を読むだろうと考えたり、英語を書いては、五郎も一緒に勉強してくれるか思いを馳せたりしていたことを口にしていただろう。しかし、慣れない人との距離が遠い千歳には、それを伝えることなど到底できない。素っ気ない挨拶に留まるのみだった。
各居室では、荷解きが行われていた。千歳はゴミを回収して周る。奥の四畳半間は伊東兄弟の部屋になったらしく、手前の六畳ずつを残りの七人で分ける。
「きれいに掃除してもらって、ありがたいな」
荷解きを終えた
「ところで、酒井くん。君は隊士じゃないんだな?」
「はい、副長のお抱えです」
「どうして?」
「どう、して……えっと……副長と、そのようにお話を付けておりますので」
「ふうん」
佐野は袴の両紐を持ったまま、少し考えてから千歳に再び尋ねた。
「君、武力攘夷はどう思う?」
その声は決して大きくなかったが、千歳は部屋中の者が自分の答えを待つ気配を感じていた。近藤の意思が隊内に共有されているのかを見極めたいのだろう。千歳は急に高鳴った胸を落ち着かせるように、深く息を吸ってから、佐野へ答えた。
「武力攘夷は、叶わないと……僕も思います。長州の四国艦隊との戦争をみても。海を越えてやって来れる異国と戦うには……我が国も、海を越えれるほどの力を……まずは、学ばなくてはいけません……」
「ふむ、それは誰から教わった考えだい?」
「勝先生と、佐久間象山先生の息子さんと……あとは、神戸で会った、海軍操練所の方とかです」
「──酒井くんは、神戸に行ったのかい?」
「え、はい」
奥の間から伊東が出て来て、いつのことかと重ねて尋ねた。
「えっと、八月の頭と、つい先日です」
「そうですか」
伊東は深くうなずいて、微笑んだ。千歳のような子どもまで神戸に複数回訪れ、開国進取論を唱えるのならば、武力攘夷の否定は隊の意見として浸透していると見ているのだろう。若干の誤謬が生じていると千歳は勘付いているが、訂正の仕方がわからず、その間に話は海防論へ及び、部屋の中では銘々に意見が飛び交っていた。
一通りの片付けが終わると、佐野たちは連れ立って屯所の散策へ出かけて行った。伊東が離れに付けられた茶室を見たいと言うので、千歳は案内を引き受ける。部屋に残り、箒掛けをしていた五郎も付いて来た。
離れの茶室は三畳の数寄屋造りで、床柱には細身の椿が使われている。伊東は天井の網代が均整な編みであることを褒め、点前座に座った。千歳と五郎は客席に腰を下ろし、伊東による空の手前を見る。
伊東は湯尺を手に持ち、釜の蓋を開ける仕草をする。湯を汲み、茶筅を取って点てる。千歳には、無いはずの茶道具が見える気がした。伊東もまた、所作が大層に美しい。黄檗色の長着の袖からは、薄紫の襦袢がのぞいた。
伊東による茶碗を差し出す仕草を受け、五郎が受け取る。五郎は飲む仕草をしてから、茶碗を千歳との間に置き、お先に頂戴いたしましたと頭を下げた。千歳も礼に応じるが、この先、自分に期待されている動きが全くわからない。さっきまで見えていたはずの茶碗は、自分に回って来た途端に見えなくなってしまった。
「ぼ、僕……お茶とか、やったことなくて……」
「頂戴の挨拶をして、いただいて、また挨拶をすれば良いさ」
静かな声で五郎に言われ、千歳は茶碗が置かれたであろう場所を睨むような気迫で見据え、そこに茶碗を描いた。千歳の初めての茶の湯は、共有の空想によるものだった。
伊東は薄茶を点てる仕草をしながら、話を続ける。
「藤堂くんから、明練堂の寄弟子だった子がいると聞いていましてね。誰のことだろうかと考えていたんですよ。君は一度、僕と会っているそうですが、すまないけれど、それはいつでしたか?」
千歳は言いあぐねた。藤堂へは伊東道場に訪れた話をしても、伊東に会ったとは言っていないはずだったが。
「あー、えっと……お会いしたというか、陰からこっそりのぞいていただけです」
「そうでしたか」
伊東が、なお記憶を辿る様子を見せたため、千歳は、兵馬との関係を尋ねてみた。
伊東は、お玉ケ池の玄武館で修行していたころ、同門他道場との交流で、何度か明練堂へも行ったことがあると答えて、五郎に茶碗を差し出した。五郎の手の動きを千歳も小さく真似をして、次の番に備える。
「森下に移転してからは、佐藤さん、随分とご苦労されたと聞いています。大先生も、まだお若かったのに……」
「ええ、地震で腰を痛められてからは、もう……」
「そうでしたか。ああ、佐藤さんと最後に会ったのは、私が師範代に就任したお祝いに来てくださったときですから──」
「四年半前ですね」
千歳は兵馬と共に、隅田川に沿って深川へ出向いたことを思い出す。桜が咲いていて、帰りには桜餅を食べた。まだ、元気だった兵馬との最後の外出だ。
千歳がそんな思い出に浸っていると、伊東は五郎から戻された茶碗で、もう一服を点てながら尋ねた。
「あのときは、たしか、そう……女の子……女の子を連れて来てくれましてね、十歳くらいの。あの子、どうしていますか?」
息が詰まった。「仙之介」では、兵馬との思い出を共に語る相手がいたとしても、それに乗ることはできないのだ。千歳は、「その娘」も肺病で亡くなったことにして、話を続けた。
「──あの子の母が、胸を病んでいて……たぶん、血脈です」
「そう……残念ですね。かわいらしい子でしたのに」
「そ、そうでしたか」
「ええ。佐藤さんのお子さんですかと聞いたら、そうだとその子が答えるのを、佐藤さんが慌てて否定して」
「はは……あの子は、たしかに、若先生を父上と思っていた節がありました」
もう昔の話だ。兵馬は千歳を愛しても、決して娘とは扱わなかった。関係性は、あくまでも道場主とお雇いの下女だった。
伊東が懐かしそうな思い出し笑いをしながら、茶碗を差し出す仕草をする。
「でも、その娘の『はい』と言い切った表情が、なんとも佐藤さんの弟に似ていて……」
茶碗の幻影に伸ばされた千歳の手が止まる。
「……弟、いらしたんですか?」
「ええ、
伊東は感慨を振り切るように、
「兄上さまに劣らず、良い腕をしていましたね」
と微笑んで見せた。
茶会はしばらくの雑談を挟んで、お開きとなった。
昼食までは、まだ時間がある。千歳は啓之助をせっついて近藤の旅装束の洗濯に向かわせ、自身は歳三が今朝、修繕するように渡してきた綿入れの半纏の綻びに針を入れた。
無心には程遠かった。疑念が浮かんで止まない。
一度も会ったことのない、存在すら知らなかったが、兵馬の弟である自然と、幼いころの千歳とは似ていた──?
「酒井仙之介は歳三の隠し子」説を唱える噂を、今のところ隊内で耳にしたことがないくらいに、千歳と歳三は似ても似つかぬ面立ちだ。仕草や表情を含めて似ていない。そのはず、実は血縁なんか、ないのだから。千歳の父は本当に兵馬で、自然とは叔父に当たる者──。
「……そんなわけないか」
千歳はため息をついて、希望的予想を否定した。兵馬と共に育った自然と、兵馬の許で育った千歳とに、似通ったところがあったとしても、なんら不思議なことではない。
千歳は寒さから、ひとつ、くしゃみをした。そろそろ、火鉢を出さなくてはいけない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます