十二、重圧

 佐久間邸にて、千歳と啓之助を出迎えた順は、千歳の想像と違い、小柄でにこやかな美人だった。まだ三十前に見える若さだ。丸い目と高い鼻、少し早口なしゃべり方が勝に似ていた。

 挨拶もそこそこに、三人は片付けを始めたのだが──

「坊ちゃん、瀬戸物をカンカン重ねないで! 欠けてしまうわ、もう」

「坊ちゃん……酒井さんばかり働かせないの」

「坊ちゃん! 奥の間の押入れ、全然片付いていないじゃないの」

 息つく間もなく順の叱咤が飛んで来る。書斎として使われていた奥の間の掛け軸を外す千歳の背後を、啓之助は離れなかった。

「わかる? わかる? 俺との折り合いの悪さ」

「……何したら良いのかわからないところに、何々しないでと言われたら、何もしたくなくなるってところ?」

「そう、そうなの!」

 たしかに、部屋の中は雑然と物が並べられて、何から手を着けて良いか判断に迷う。

「だったら、何したら良いか聞けば良いじゃないの」

「だって……」

「じゃあ、押入れの物、全部出して。それを、売る物、捨てる物、取っておく物に分けましょう、ね?」

 啓之助と出会って三ヶ月。千歳は、それなりに啓之助の動かし方をわかってきた。蔵書を出すはずが、いつの間にか本を開いて読み始めている啓之助を何度も注意しながら、片付けは進んだ。


 昼の鐘が鳴り、順がふたりを呼んだ。三人は玄関の間で、出前のうどんを食べた。

「──それで、兄さまからもお文が来ますけど、本当に心配していらっしゃるのよ? 新撰組と坊ちゃんでは、あんまり肌が合わないんじゃないかって」

 順はひたすら啓之助を案じるが、啓之助はどこ吹く風の生返事だ。そのため、聞き取りの対象は千歳に移った。

「ちゃんとお働きしてますの? 坊ちゃんは」

「は、はい。それは、もう」

「河上彦斎らのこと、隊では何か掴んでいるんでしょうか? この子、何も言って来ないんですの」

「ぼ、僕もそこら辺はあまり……」

「朝はちゃんと起きてます? 遊びに行ったりしていません? もう、随分とお蝶が甘やかして育てたものですから……」

「あ、あの……! 僕、最近、三浦くんからアルファベットを習って、電信も打てるようになったんですよ」

 千歳の丼には、まだうどんが残っていたが、早々に食べ終えた啓之助が立ち上がる。

「そう、心配しないでください。この酒井先輩が、日々の仕事もちゃんと仕込んでくれましたんで。じゃ、私、お茶もらって来ますね」

「……あ、あの子が自分からお茶を取りに行くなんて!」

 屋敷の並びにある旅籠にお茶をもらいに、勝手口から出て行く啓之助の背中を、順は目頭を袖で押さえて見送った。


 東山を望む裏庭に面した縁側に買取の書物を並べながら、千歳は声を落として話す。

「人様の親御をなんとか言うのは気が引けるのですが、あれでは君も息苦しかったろうねぇ」

「わかるー? わかるでしょうー? 俺の歳が十七歳だってこと、わかってないと思うんだよね。いつまでも、手のかかる八つの坊ちゃんのまま」

「……手がかかるってのは」

「あぁ?」

 啓之助の威嚇に、千歳はシラを切る。

「あ! これ、英語の本? 『英米対話……りつけい』」

「中浜万次郎先生のか。『英米対話捷径えいべいたいわしょうけい』と読むよ」

 パラパラと頁を開くと、ABCから始まり、会話文の発音が仮名書きに表されていた。

「What weather is it to day」

 ──ハッタ ワザ イジ イータ ツ デイ

 千歳が読み上げてみると、啓之助は続きの文言を誦じた。

「It is fine weather」

 ──イータ イージ フアイン ワザ

 啓之助が続きの文言を誦じた。一通りの英会話は、これで学んだらしい。これまで、啓之助は綴りに自信がないからと千歳に会話だけを教えていたが、この教本があれば、英文の読み書きも練習できる。

「切り取り次第って言ったよね……? もらって良い?」

「もちろん」

「やったー! ありがとう! 来て良かった!」

 千歳が盛大な笑顔で本を抱きしめた。その様子に、啓之助が、

「……君、ホントに好きなんだね」

と小さく言った。半眼に見られるのは不機嫌故ではなく、目が悪いからだと千歳はわかっている。

「三浦くんは好きじゃないの?」

「好きだけど……元からあんまり頭良い方じゃないからさぁ」

「それは、比べる相手が悪いような……お父さま、勝先生に山本先生」

「それにしてもだよ」

 しかし、今しがた千歳の英文に対して、正しく返事をしたのだ。決して、頭が悪いだなんて思えない。ふと思い出したのは、坂本の言葉だった。


『君は学問で力を着けっせい。ほいで、勝先生くらい偉うなって、仇らの藩へ正式に処罰を依頼しっせい』


「神戸で坂本さんに言われたこと考えてる?」

 啓之助がうなずいて応えた。刀による仇討ちを選ぶつもりのない啓之助にとって、学問の出来は、仕官の可否以上の重要性を持ってしまっていた。

「仇討ちはしないってお母さまには……」

「言ってない」

「お話した方が良いんじゃない?」

「なんて?」

「……えっと」

「他人事だもん、いくらでも言えるよ」

 啓之助が顔を背けた。千歳も言葉に詰まる。歳三と自分の関係は知られていないだろうが、決まりが悪い。

「でも……江戸のお母さまのところに行くには、絶対にお話しておかなくちゃいけないことじゃないの……?」

 仇討ちが叶うまで、恐らく順は啓之助を手放さないだろうと千歳は感じている。それは、啓之助にも伝わったようで、唇を尖らせて気怠そうに蔵書の仕分けを続けていた。


 古物商による査定が終わって、夕方には多くの家財道具が佐久間邸から運び出された。順は象山直筆の掛軸を一幅選び取り、近藤へ渡すよう啓之助に託した。啓之助は険しい顔で受け取った。

 三人は玄関の間でお茶を飲みながら遅いおやつを食べる。食器や燭台もまた、旅籠屋から借り受けた物だ。

 順が千歳に対して、手伝いの礼と啓之助のことを頼み、頭を下げた。千歳も、象山の書物を譲り受けた礼を述べる。

「本当に嬉しいわ、酒井さん。坊ちゃんにこんな優しくて真面目な友人ができただなんて。心強うございます」

 順が目頭を押さえた。少々過剰にも思えるが、やはり啓之助のことを心から案じてのことだろう。千歳ははにかみながらもうなずいて、お茶を口に運んだ。

「坊ちゃん。坊ちゃんも、きっと仇討ちを──」

「その話ですが、母さま。私、仇討ちはしません」

 千歳が思わずお茶にむせた。あまりに突然で、前置きがない。案の定、順も驚いて高い声を上げ、

「な、何を言っているの!」

と叫ぶ。啓之助は目の前の畳を見つめて、語気も強く続ける。

「新撰組はいずれ士分に取り立てられるでしょうから、その際、三浦ではなく佐久間として──」

「母はただ名を取り戻せと言っているのではありません! 栄誉ある名を取り戻せと言うのです!」

 啓之助が顔を上げた。不機嫌や怒りではない。悲しみが、寄せられた眉根に見えた。

「母さま。それで、父さんになんてご報告するの? あなたの息子は立派に人を斬りましたって? 父さん、きっと喜ばないよ。仇討ちなんて、なんにもならないって絶対に言う。無駄を嫌う人だったじゃない」

「旦那さまは武士の中の武士でした。一度言ったことを違えるような真似はいたしません。信念を貫いていらしました!」

「父さんが立派だってことと、俺が仇討ちするってことは、なんの関係もない!」

「坊ちゃん! 恥ずかしいと思いなさい、そんなことを言って!」

「できないことをできないと言って、何が恥ずかしいもんか! そんなにしたけりゃ、母さまがすれば良いさ、仇討ち! 俺はしない!」

 啓之助は託された掛軸も持たずに草履を引っ掛けて、座敷に向かう旦那や芸妓衆が行き交う木屋町通へと飛び出して、千歳が戸口に追って降りたころには、既に見えなくなった。

 順は蒼白な顔で震えながらも、口許にほほ笑みを浮かべて、千歳の方へ向き直り、

「酒井さん。ごめんなさいね、こんなところ、み……見せて──」

と言ったところで、堪えきれずに顔を覆った。

「本当に、甘やかして育てたことがお恥ずかしゅうございます! もう少し大きくなれば、分別もつくと延ばしのばしにしていたために……」

「お、奥方さま」

 千歳はうろたえて、順の背に触れることもできず、土間に膝を着いて頭を下げた。

「申し訳ありません。私から、話すように勧めたのです。仇討ちのこと、奥方さまへちゃんと報告しなくてはと。それが……申し訳ありません!」

「いいえ、いいえ! ありがとうございます。気をかけていただいて」

 順が涙を拭いながら、千歳の手を取り、顔を上げさせた。

 それから、ふたりは無言でお茶を飲んだ。表の道が一層賑わうころ、順が話し始めた。

「あの子は……小さいころから難しい子で。じっとしていることができませんの。でも、決して出来が悪いなんてことはなくって……字だって、旦那さまに教わって上手ですのよ」

「ええ、存じております」

「私……子がないでしょう? ですから、本当にあの子を我が子と思って育てましたの」

「ええ……」

「きっと旦那さまの立派な跡取りにと励んで……きましたのに……私は……私が……!」

 再び袖で顔を覆う順を見て、千歳は胸が苦しくなった。啓之助も順も、お互いに「ダメな息子」と評価し合っているのだ。並の出来では許されないほど、佐久間象山とは偉大な存在だった。

 啓之助は順のことを苦手と言い、今日一日でその理由もよくわかった。しかし、嫌ってはいない。啓之助が先程見せた悲しみは、順に理解してもらいたいと思っているからに違いない。

「あの……奥方さま」

 千歳は迷いながらも口を開いた。

「こんなこと、私が言えた立場ではないのは、百も承知でございますが、三浦くんは決して……ダ、ダメな子なんかではありません!」

 千歳の声は震えていたが、その目は、しっかりと順を捉えていた。

「三浦くん、自分がしたくないことに、ちゃんと嫌だって言えないと思うんです。周りに引っ張られたら──僕もわかるんです、断れない気持ち。それで、途中で我慢ならなくなって逃げ出してしまう……というか」

 それは、自信のなさから来ていることがわかってきた。自分の弁明に対する不安、弁明を拒絶されるかもしれない不安。

「たしかに、断れなくて逃げてしまうことは、悪い癖ではありますけど、だからって、ダメな奴なんだとか、そんなことは絶対になくて……」

 千歳はこの主張をどのようにまとめたら良いものか、わからなかった。声は小さくなり、目線も下がった。

「その……うーん。僕は……み、三浦くんと友人になれて……幸せ、です」

 順の反応を伺うように顔を上げると、順はまだ涙を流していた。けれども、目は微笑んでいた。息子に友人ができた幸福のように見えた。


 千歳がもらい受けた書物は、ひとりで持ち帰るには多かったので、明日、運んでもらうことになった。

 順に両手を握られ、懇ろに礼を言われながら木屋町の佐久間邸を送り出された千歳が前川邸に戻ったのは、夕食もとっくに過ぎた時間だった。遅くなったことを怒られはしないかと、身を縮こまらせて副長部屋に戻ると、歳三が文机に書類を広げて、お茶を飲んでいた。

「申し訳ありません、遅くなりました……」

「うん、ご苦労」

「あの、お夕飯は……」

「広間で食べたよ」

「すみません……え? 三浦くん」

「帰ってないが?」

 啓之助の習性からして、嶋原で弥生にでも会っているのだろう。千歳の面倒くさそうなため息を聞いて、歳三も察した。

「お前、ご飯は?」

「まだです」

「食べてきなさい」

「はい。……山南先生、お部屋でしょうか?」

「風呂だ」

 千歳は今日のことを敬助に話そうと思ったのだが、先程の自分の言葉を思い出す。千歳は啓之助へ義母と話すように言い、啓之助も上手くはいかなかったが、義母に話を切り出した。他人に言うことは簡単だからこそ、千歳も歳三と話さなくてはいけない。

「……あ、あの!」

「なんだ」

「えっと……」

 膝の上で袴を握り締め、スッと息を吸ってから歳三を見る。歳三は相変わらず、千歳と目を合わせていないが、今はむしろありがたい。

「三浦くん、お母さまに仇討ちはしたくないとお伝えして……お母さまも、そのお話は一旦保留すると言われて、三浦くんがもう一度、話し合いに行けば、認めてもらえないこともないかと思います……」

 随分とまとまりのない報告をしてしまったが、歳三が千歳の方を見た。

「そうか、三浦くん、話したのか」

「はい。それと、もし新撰組が士分にお取り立ていただく機会が今後あれば、佐久間として受けたいとも」

「うん。それを、お母さまは?」

「えっと……その場では、お認めにはなられませんでした。一度始めたことは最後までっておっしゃって」

「そうか、厳しい方だと言っていたからな、三浦くん」

「たしかに……でも、優しい方でした。三浦くんのこと、愛しています」

「うん、わかった。また、改めて三浦くんとお話するよ」

 千歳は広間に出て、六兵衛に頼み、夕食を出してもらった。

 歳三と目を合わせて、穏やかに会話したのは、この一年で初めてのことかもしれない。

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