十一、幼年期

 京都壬生村は平穏な日常が過ぎていた。

 啓之助は帰藩話が破談となり、ますます稽古に身が入らない。近藤がおらず、日々の仕事も限られるので、ぶらぶらと過ごしてばかりいる。

「三浦くん。近藤先生の衣更え、した?」

 千歳が局長部屋をのぞくと、啓之助は団栗と竹籤でヤジロベエを作っていた。力学の基本だと言うが、力学が何なのか聞きだすと話が進まないので、千歳はもう一度、衣更えをしたか尋ねた。

「まだぁ」

「すぐに先生、帰られるから」

「うん」

「……質問でーす」

「はあい」

 千歳のおどけた声に啓之助もつられた。千歳が手を挙げながら、

「衣更えの仕方、わかる人ー」

と尋ねると、啓之助は、

「御座るか、御座るか」

と辺りを見渡す。千歳が吹き出した。

「はいはい、じゃあ教えるからさ。やりますよ」

 秋風の吹く中、北の広間に近藤の衣装が並べられていく。どの着物も、黒から紺、茶など、地味な色が多いが、その生地は去年の衣更えのときよりも格段に良くなっていた。

「駒野が整えてくれてるんだってね。存外、渋好みだけど、局長によく似合ってる」

「あ、駒野といえば、先生の出発直前に男の子生まれたって」

「男の子! おめでたいね。ヒー イジ ……ア フアザ ヲフ ……ツウ チルレン」


『he is a father of two children』


 千歳が覚えたての英文を口にすると、啓之助が、「ふたり?」と尋ねた。

「うん。江戸に娘さん、残されてるから」

「あー、今回の東下で会えてるかな」

「うん、きっと。三浦くんは、君、兄弟は?」

「今はいない」

「そ、そっか……」

 ひとりっ子は珍しい。啓之助のように、最終的に育った子がひとりという場合もあるが、千歳には血を分けた兄弟が元よりいない。

「そう言えばさぁ、馬関の講和条約が決まったみたいなんだけど」

 啓之助が唐突に話題を変えるのはいつものことで、千歳の言い淀みに気を遣ったわけではない。

「賠償金、高すぎると思うんだよね」

 四国艦隊から幕府に要求された賠償金は三百万ドル、およそ二二五万両だった。啓之助は、高くても百万両と予想していたので、驚きを隠せないようだ。

「そもそも、長州が起こした戦争、なんで御公儀が尻拭いしなくちゃなんないのさ。もうさ、長州全土を召し上げて、その歳入を支払いに充てるべきだよ」

 征長により長州のどこかで大火の荒廃が起きると思うと、千歳は軍事衝突は避けられるべきだと強く思うが、啓之助は長州の軍事制圧を支持していた。

「今のうちに潰しておかないと、厄介だよ」

「だけど……窮鼠は猫を噛むと言うじゃない」

「お仙くんは、慎重派?」

「あ、いや……というほどでもない」

「ふうん。あー、勝先生も忙しくなるだろうなぁ。海軍、初めての出番だから」

 強硬派は、幕閣の中でも少なかった。征長の勅命は昨年の八月の政変の際には下されている。禁門の変から、三ヶ月。大将を務める将軍家茂の上洛が遅れているため、征長軍は未だに発進していなかった。


 戦争は西国だけで起きているわけではなかった。横浜鎖港を訴え蜂起した水戸の天狗党も動いていた。

 敬助は仙台藩の出身だが、実家はその飛地である常陸の龍ヶ崎にあった。父の塾に通っていた学友など、交流のあった人物も天狗党に加勢していると聞く。そのため、天狗党に関わる情報は、人一倍気を付けて収集していた。

 こちらも、雲行きは怪しい。初めは、攘夷を求める憂国の士であったはずが、町方から軍資金の徴収を強要し、断られると焼き討ちをするなどの暴挙を起こしだしたために、幕命による鎮圧の対象となっていた。


 雨の日を挟んで、空は高い秋空だった。

 千歳は米蔵の南の壁にもたれて、日向ぼっこをしながら本を読む。膝には竹輪が座り、喉を鳴らしていた。

「地と泉と断離きれはなれたるは、何時いつのほどといふこと、知りがたけれど──」

 地上と黄泉の国が繋がっていた神代は、伊邪那美いざなみに会いに行った伊奘諾いざなぎの如く、生者と死者との世界は完全に分かれていなかった。

「竹輪のお母さまは、どうしているんだろうね」

 千歳の問いかけに、竹輪が一声鳴いた。

「竹輪も女の子だから、いつかお母さまになるのね。……うんうん、もしかして、もう良いひといるの? ……へぇー、紹介してほしいなぁ」

「お仙くん、猫としゃべれるの?」

 突然現れた啓之助に驚き、千歳が本を取り落とすと、竹輪も逃げて行ってしまった。

「あー、もう、行っちゃったじゃないかぁ」

「ごめん、そんな驚かれるとは思わなかった。それよりさ、これ見てよ……」

 啓之助が千歳の隣に座って、手にした文を開いた。義母からだと言う。

「三条木屋町の家──父さんと住んでいた家ね、引き払うって」

「そう。君も手伝いに行くの?」

「うん。そうするよう書いてある。はぁあー」

「どうしたのさ」

「嫌だ」

「手伝うのが?」

「母さまに会うのが」

 啓之助は膝を抱えて、頭を蔵の白壁にもたせかけた。

「母さま……あぁ、義理のね、勝先生の妹の方。俺、ホント、折り合い悪くてさ」


 啓之助が語る。

 象山には蝶という女中上がりの妾がおり、一男一女を生んだが、どちらもすぐに亡くなった。そこに迎えられたのが菊──啓之助の実母になる娘で、象山はふたりを自宅に同居させた。

 初めは仲も悪いというほどではなかった。

「だけど、俺が生まれたとき、母さん難産で。乳をくれたのはお蝶だった。そのあともお蝶はずっと、母さんに俺を触らせなかったらしいよ。それで、母さん、気を病んでしまって、実家に帰された。俺を残して」

 勝の妹である順が、正室に迎え入れられたのも、その頃だった。蝶と順は上手くいっていた。

「母さま……厳しくてさ。よく覚えているよ、仏間の柱に縛られてたの。俺があんまり動き回っていたずらするから。勉強を抜け出した罰でも」

 そんなときは、天井の木目や節の数、隣の寺の屋根瓦など、何かを数えて時間が過ぎるのを待っていた。そのうち、目に見えるものの数は覚えてしまったので、ただ数を数えた。一万四五六三まで数えたところで、夕食になった。

 それでも、江戸にいたころは、実家に戻った母の許へも遊びに行けた。芝居小屋も近く、桶町千葉道場にも行った。

 ところが、七つの頃。象山塾の門下生である吉田寅次郎──後の松陰が密航を企てて捕まり、象山もそれを教唆した罪で蟄居となり、松代へ移った。

 最も活動的であったはずの少年期は、座敷に留め置かれる日々に変わった。父が蟄居の身では藩校にも通えない。手習いは義母から教わった。順は漢文にも通じていた。必ずや、父の役に立つ立派な学者になれと、啓之助を一日中机に向かわせた。

「──毎日、変わらないんだから、あのころのことはよく覚えていないよ。父さんは学問を教えてくれても、家のことに口は出さないから。……とにかく、逃げ出したかった」


『坊ちゃん! いい加減になさいまし!』

 十五歳になると、啓之助は、昼間の鬱屈を夜遊びで発散させるようになり、佐久間邸にはほとんど毎日のように順の怒鳴り声が響いた。

『近頃は全く勉強にも身が入らない。左様なことで、旦那さまのお力になれると思っているのですか!』

 啓之助は玄関を監視する順の目を避けて、二階から壁伝いに家を出るようになった。深夜、いつもなら閉まっている表玄関が開いていた。框に置かれた洋燈の側で、象山が腕を組んで座っていた。

『母さまに心配かけさせるな』

『あれは俺に対する心配じゃないよ。良い息子が手に入らないで、嘆いているだけだ』

 啓之助は草履を脱ぎ捨てて、二階へ上がった。

 象山には三男一女があったが、長じたのは啓之助のみで、順との間には子がなかった。父の厳格さと、義母からの重責。さらには、三子を亡くした蝶の啓之助に対する偏愛が、啓之助の精神を病んだ。

 些細なことにも我慢が効かず、物に当たることが増えた。城下では悪い仲間と一緒になって、祭の屋台を荒らしたりもした。

 十六歳の春先、いつものように順の監視の下、勉強をさせられていた啓之助は、筆の置き方が悪いと言った順に対して、教本を投げ付けた。それを見ていた象山が、啓之助の襟首を掴む。

『母さまに向かってなんだ、その態度は!』

『俺の母さんはこの人じゃない!』

 その一言に、順は泣き崩れ、部屋を走り出た。啓之助も涙で顔を濡らして、肩で息をする。

『もう嫌だよ、父さん。こんな暮らし。俺、ずっと良い子だったでしょう? ちゃんと勉強してるじゃない。なのに、母さま、全然、ちっとも許してくれないんだ!』

 啓之助は力なく座り込み、象山に向かって手を着く。

『父さん、俺……母さんのところ行きたい。お願いです、俺を江戸にやって!』


「江戸での一年は、本当に楽しかった。母さん、再婚先では子がなくて、旦那さんの親戚筋の人を養子に迎えてた。兄さんと呼んで、仲良くしてたよ。連れ子同士みたいな、ちょっと変な家庭」

 それが、今年の初め、象山の蟄居が解かれ、上京することになった。啓之助も象山に呼び出されたので、泣く泣く江戸を出て、東海道を上った。松代を経由しようとも思わなかった。

 象山との京都暮らしは、それなりに楽しかった。象山は毎日どこかへ出かけては、夜にその日見聞きしたことを聞かせる。山本覚馬など、昔の塾生がよく訪ねて来て、洋学を教えてくれた。

「でも、父さんが殺されて……母さまが松代から飛んで来た。お家が取り潰しになった報せも一緒にやってきた」

 順は泣かなかった。食事もとれず布団の中に籠もっていた啓之助を引き起こして、必ず仇を取り、佐久間家を再興しろと熱く言って聞かせた。山本も、それを強く支持した。

「それからは、アレよアレよと言う間に、新撰組隊士だ」

「大変だったんだな」

「……俺の勤務態度、母さまに絶対漏れてるもんな。うわぁー、行きたくない!」

 啓之助が頭を抱えて、身をよじった。今の話を聞けば、その反応も無理はないと千歳は啓之助をなだめにかかる。

「落ち着いてよ、三浦くん。それ、いつのことなの?」

 明後日とつぶやいた啓之助が、パッと顔を上げて、

「そうだ! 君も一緒に来てよ!」

と千歳の肩を掴んだ。

「はぁ? なんで!」

「お願い、お願い! ホントに、一生のお願い! 俺の友人として紹介させて。それで、ちゃんと隊で仕事してるって母さまに言って。そしたら、母さまも少しは態度、和らげるだろうから!」

 修羅場の予感しかしない千歳は断りを重ねるが、啓之助は諦めない。とにかく行かないからと逃げ出すも、その日の夕食後、歳三に呼ばれた。

「三浦くんのお母上さまによろしく。よくお手伝いして来なさい」

 文を一通差し出され、明後日は一日暇をもらうことになった。

 千歳が局長部屋にひとり寝る啓之助を訪ね、根回しの早さに不満を漏らすが、啓之助は、

「頼むよー。きっと、おもしろい本、いっぱいあるよ。なんでも、持ってって良いから。ホント、切り取り次第!」

と千歳を落としにかかる。この男は、無断外泊の後など、何かと千歳に菓子を与えたりする。物で釣る作戦を使いがちだ。千歳も、

「そんな手は効かない!」

と言おうと構えるが、佐久間象山ほどの学者の居宅から書物を切り取り次第とは、あまりに抗えない魅力だった。

「……ホントか?」

「ああ!」

 啓之助には、いつも丸め込まれる。

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