十、展望

 桑名侯松平定敬は会津侯容保の弟にして、若干十八歳で京都所司代に任命されている。兄が厳格な鎖港攘夷派であるのに対し、弟の方は洋学好みで、洋装することも珍しくない。兄に劣らず美形なため、乗馬で町を行くと娘たちから歓声が上がった。

 定敬は開明派の象山を私淑していた。そのため、佐久間象山の息子が松代藩を浪人して新撰組にいると聞き及び、啓之助の帰藩を仲立ちしようと近藤宛てに文を送ってきた。局長代理として受け取った歳三は、その処理に九月の後半を費やした。

 ちょうど、敬助から、啓之助が仇討ちをする気がないと聞かされたころでもあった。

 定敬と面会し、紹介状を得て、松代藩の北沢という男を訪ね、何度か啓之助帰藩の交渉を行う。北沢も始めは、洋学者である象山に対する藩内の反感を理由に断りの姿勢を見せていたが、四度目の折衝の結果、帰藩の受け入れを約束した。

 帰営した歳三は、雨戸を閉める千歳に、啓之助を呼んで来るように言い付けた。居室で身体を起こしていた敬助も呼び、啓之助を待つ。すると、廊下から力む千歳の声と、抵抗する啓之助の声が聞こえてきた。

「──もう、諦めろったら!」

「嫌だよー、絶対お説教じゃないかぁ」

「まだわかんないでしょ? いいから、ちゃんと歩いてよ、ほら!」

「お仙くんもいてよ」

「お説教くらい、ひとりで受けなよ」

「やっぱり、説教じゃないか!」

 障子を開けると、夕飯の支度に忙しい土間の廊下を千歳に引っ張られてやって来る啓之助の姿があった。啓之助が歳三に気付き、

「あ、副長! お話、酒井くんも一緒でよろしいですか⁉︎」

と尋ねる。すかさず、千歳が抗議の声を上げるが、歳三はそこにこだわりはなかったため、千歳に同席するように言った。


 啓之助は帰藩の話を渋った。

「──だって、父さんを邪魔に思った人たちが同僚に待ってるんですよ? 俺、学校行ってないので、友人もいませんし……」

「けれど、三浦くん。君、仇討ちするつもりないんだって?」

 歳三の問いに、啓之助はうつむいて答えないが、総司との稽古態度を見ても、答えは明らかだ。

 啓之助の仇討ちは、象山への弔いのためだけではない。父の汚名をそそぐことで得られる再仕官の道でもあった。

「三浦くん、死ぬ気で相手に向かえない奴は、結局は死んでしまう。仇討ちに迷うんなら、素直に松代藩に帰らしてもらいなさい」

「それは、おっしゃる通りですけど……」

 啓之助は肯定を見せなかった。歳三が困って敬助を見ると、敬助は、やはり江戸に帰りたいのかと啓之助に尋ねた。啓之助がうなずく。

「江戸に行って、お勤めはどうするつもりなのかい?」

「あぁ……そうなんですよねぇ、浪人のままじゃいけないですけど、母さんの再婚相手、御典医じゃないですか。俺……医者はちょっとなぁ」

 啓之助はため息をつく。

「三浦くん、何がしたいのか、それを成すためにどんな道があるのか、今一度、考えてみよう」

 そう言って、敬助は地袋戸から囲碁の石を持って来た。

「しなくてはいけないことはなんだい?」

「……仕事。自立ですかね」

 仕事と敬助は繰り返し、白い碁石をひとつ、啓之助の膝の前に置いた。

「したくないことは?」

「……仇討ち?」

 今度は黒い碁石を置く。

「では、したいことは?」

「うーん」

「江戸に戻りたいのは、お母さまがいるからだね?」

「はい。うん……母さんが心配なんです。母さんの側で孝行したいです」

「なるほど」

「あ、あと『佐久間』。佐久間と名乗りたいです。……できたら、洋学の塾とかに行って、そしたら、うん……そこから、仕官も叶うかもしれない」

「洋学の塾とは、砲術とか?」

「あー、俺、目があんまり良くないんで、砲術はちょっと厳しいんですよね。だから、外交とか法典とかが良いです」

 啓之助の言葉に合わせて、敬助は白い碁石を出していく。畳の上には、いくつもの白い碁石が並べられた。

 敬助によるこの「儀式」が何を導くのか千歳にはわからなかったが、先程まで不機嫌に何をするにも嫌がっていた啓之助から、前向きな答えをいくつも引き出していることは、白い碁石の数を数えれば確かだった。

 敬助がひとつずつ指しながら言う。

「自立、江戸、お母さま、佐久間、洋学。これは、松代藩士になっては、叶えられないことかい? 一度でなくても」

 敬助が黒い碁石をひとつ見せながら、啓之助に尋ねた。啓之助は、ややあってから首を振った。

「そうだね。慣れない場所に行くことは大変だけど、例えば、藩に願い出て、江戸に遊学を望むとか、そんな手もあると思えば、悪くないんじゃないかな?」

「……わかりました」

 啓之助は、完全に納得したわけではなさそうだが、帰藩を受け入れた。


 ところが、その後、新撰組の屯所にまで話にやって来た松代藩士の北沢と対面して、啓之助の怒り癖が出てしまった。

 北沢から提示された帰藩後の家禄は、象山が加増を得る前の佐久間家の禄である五両五人扶持。啓之助の実母から送られてくる毎月の仕送り額よりも少なかった。

 歳三と敬助も、この額にはわずかに眉を寄せた。象山の功績を認めない采配と言える。

 北沢はふたりの反応を受けて、

「我が藩も、台場を作らされ、横浜港の警護を命ぜられと、余裕はないのです。微禄でしか迎え入れないんですよ、申し訳ないが」

と無表情に言った。

 啓之助は元来、金への執着はないので、禄の額は気にしない。しかし、北沢の声ににじむ海防に対する軽視は見逃せなかった。

 啓之助は海防論の重要性について問うた。北沢は議論をかわし、啓之助の話し方も意見も象山そっくりだと返す。

「若者に求められるものは、上の言うことをよく理解して従う慎ましさだよ、佐久間くん」

「何が正しいか、国のためになることは何かを考え、議論することこそが、士たる務めと思いますが?」

「やめたまえ。父上の二の舞になりたくはないだろう」

 北沢の態度に、啓之助が立ち上がった。

「副長! 俺、やっぱり帰りません。父さんのこと、なかったことにしたいような家に戻ったって、馬鹿な政策の片棒担がされるだけです」

「三浦くん、やめたまえ」

「佐久間くん! 馬鹿とは何だ!」

 啓之助は歳三の制止を意に介さず、下関戦争の敗戦から、日本の海防力が西洋に劣ることを説き、

「それすらわからないだなんて、馬鹿じゃないなら、何だって言うんですか?」

とまくし立てた。北沢も途中から立ち上がり、啓之助を蛙の子は蛙と言い、啓之助ばかりでなく象山の態度をも批判し出した。

 交渉は決裂に終わった。歳三は重たい足取りで所司代邸まで向かい、事の報告に上がった。

 もっとも、象山を快く思わない保守的な松代藩に戻ったところで、啓之助が早々に適合不良を起こすことは容易に予想され、帰藩が叶っても、いずれは再び松代を離れることになっていただろう。


 話が流れた啓之助は、やはり嶋原へ向かったのか、総司との稽古に現れなかったらしい。千歳は総司の説く剣を持つ者の心構え、つまりは啓之助に対する説教を身代わりに受けて、副長部屋へ戻った。

 地袋戸を開け、碁石を出す。

 敬助による考え方の手法は、千歳自身の将来を考えることにも使えるのではないだろうか。

「したいこと。したくないこと。しなくてはいけないこと……」

 勉強と言って白い碁石を置く。黒い碁石を手に取り、したくないことを考える。

「隊を出ること。……でも、あの人と住むことも。また、奉公に出る? そう……自立はしなくちゃいけない。……でも、三浦くんとは違って──」

 国学や英語など、今やっている学問を積んでも、女としての千歳の人生に役立つことはない。これらの学問は、千歳を助けるものではなく、何かを生み出しもしない。

「役に立たない、暇つぶし……」

 そうに過ぎないことに、なぜ自分はこだわるのだろう。

 総司の剣は、近藤を守るために振るわれる。近藤は尽忠報国のために働く。啓之助は、学びたい理由は楽しいからだけで良いと言ったが、やはり、自分のみに向かう行いは脆く、反対に、他者への忠義は強いこと、これは間違いない事実だと思えた。

 自分の行いが、他者を結び付ける。そう考えると、千歳の目の前にひとつだけ置かれた白い碁石は、誰とも結び付きはしない。それは、寂しく、無力であるような気がする。

「アイ ワン ツー ビー……」


 『I want to be……』


 啓之助から習う英語は、簡単な作文まで進んでいた。千歳は、なりたいものが何か、この例文を答えられない。

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