九、問答

 歳三は、敬助に言われて初めて、十月一日が志都の命日であったこと、そして、千歳が京都に来てから、一年が過ぎていたことを思い出した。

 千歳の娘姿は、一度しか目にしていない。それでも、千歳について思い起こすときは、赤い前櫛を挿した白い浴衣姿が浮かんでしまう。四条大橋の上で、不安気に自分を見つめた目。歳三は、千歳が戻ってから、なるべくその顔を見ないようにしていた。何より琥珀色の目が、「仙之介」を志都に見間違わせる。

 普段、寝るさいは、居室の奥から、千歳、衝立を挟んで敬助、歳三の順に布団を並べていたが、その日は敬助が熱を出して一日伏せていたので、歳三が寝ようと居室に入ったときは、奥に敬助の布団があり、衝立の前では千歳が寝ていた。

 前髪が上がり、白い額が見えた。

 歳三は目を逸らして、枕元の行燈を吹き消した。いつもは右を下にして北向きに寝るところを、その日は襖の方を向いて寝た。子どもの寝息は速いと思いながら、布団を耳元まで上げた。


 志都のことは、別れてからどれくらい思っていただろうか。すぐに、他の娘と付き合ったことを思い出す。

 十六歳ごろから、背が伸びた歳三は、急にモテ始めた。奉公先の女中や客の娘から、恋文をもらうことが重なった。初めは困惑したし、志都と付き合っていたこともあり、全て断っていた。しかし、志都に振られて三日ほど経った日、恋文を渡してきた奥女中──顔も覚えていないが、この娘と付き合いを持った。

 肌の熱が手の内にある間は、その娘を本当に好きだと思えた。着物をまとってしまうと、そこに魅力はなかった。

 何人かと付き合ってみた。初めは、志都だけを愛すると言った口で、別の娘に愛をささやく罪悪感が胸をかすめて行ったものが、数人を経ると、何とも思わなくなり、そのうち、何とも思わなくとも、愛をささやくようになった。

 人を喜ばせることは好きだった。期待に応えること、望まれる役を果たすことは、性に合っている。好きだと言ってくる娘を喜ばせることは好きで、その相手が一時にひとりでなかったことも多い。

 やがて、志都のことも思い出さなくなり、歳三は女好きとからかわれることすら、誇らしかった。自分は多くの女から望まれる存在だと思っていた。

 そんな二十一歳の夏。小石川の顧客先へ注文伺いを初めて任された日。上野から本郷を抜けて小石川に向かう歳三は、無意識に明練堂を経由する道を進んでいた。途中で気が付き、道を変えようかと思ったが、ここで変えては過去に捉われている証になる気がして、歳三は足を止めなかった。

 視界に明練堂の裏庭が入らないよう、真っ直ぐ前を向いて行こうと息を吸い込んだとき、甲高い女児の歓声が耳に入った。

 赤い振袖の娘が兵馬に抱き上げられて、高い高いをせがんでいる。兵馬の掛け声と共に、四、五歳の娘は青空へ高く上がり、赤毛が日にきらめいた。歓声を上げる娘の後ろから、姉さんかぶりをした志都が心配そうに駆け寄って来た。兵馬が娘を腕の中であやしながら、何かを志都に言うと、志都も寄せた眉を解いて、笑い出した。

 志都は幸せそうに、兵馬と娘を見つめて微笑んでいた。

 やはり、道を変えるべきだった。歳三は、駆けるほどの速さで、小石川までの道を進んだ。

 自分がこれと定めた相手もなく、無為に女と過ごしていた間に、志都は兵馬と家庭を築いていた。歳三の元には何も残っていないが、志都の元には、愛らしい娘がいる。歳三との将来を誓ったはずの志都の娘は、自分の子ではなかった。

 四年間、蓋をしていた思いが噴き出した。悔しさ、惨めさ、嫉妬、不信、汚らわしさ、悲しみ、憎しみ……。

 ──何故、あの赤い振袖の娘が、自分の子でなかったのだろう。


 朝だった。浅い眠りから目を覚ました歳三は、久しぶりに夢を覚えていた。

 二十一歳の歳三は、千歳を見て確かに、彼女が自分の子であることを望んだ。けれども、それは所有を望んだに過ぎず、愛すべき対象としてではないと、今ならわかる。ただの独占欲がなさせた考えだ。

 歳三は寝返りをうって、北を向いた。千歳の細い背中と、娘にしてはしっかりとした肩、腕が布団から見えた。十月が近付き、明け方は冷える。歳三は、千歳の布団を肩まで上げてやり、顔を洗いに出た。

 あの日、所有を望んだ娘が今、目の前にいる娘だとは、にわかには信じられない。しかし、赤毛と琥珀色の目が、否応なしに志都を思い出させ、志都の心変わりの結果が、この娘だということを突き付けてくる。

 歳三は深くため息をつき、冷たい井戸水で顔を濡らした。

 自分の嫉妬深さが嫌になる。もっと、寛容な人間であれば、千歳を愛せていたかもしれない。

(──あんな夢を見たからだ)

 所有だなどと、くだらないことを考えることなく、普段はもっと理性を持って「仙之介」と向き合っている。志都を思い出せている。

 歳三は部屋に戻り、袱紗に金子を包んだ。去年は線香すら上げさせてもらえなかったが、今年は読経代くらいは出せそうだった。


 参拝を終えた千歳は、知恩院の石段を下って行った。山門越しに街を見下ろす。

 長州へは、先日の戦乱の責を問うため、将軍直々に大将となって出兵がなされることになっている。

 前尾張藩主徳川慶勝が、兵を率いて上洛しており、他藩も出陣を控えて、それぞれ兵を揃えている。京都の町は、片付けきれない焼け跡と相まって、戦争が続いているようだった。

 千歳は縄手通を上り、三条大橋に至った。新堀がいないかと、橋の下や制札の脇を探したが、姿は見えなかった。

 そのまま、宮本屋へも訪れた。再建途中の蔵を見て、千歳は、台所跡から掘り出した食器や小刀を返していないことに気が付いた。

 雅に聞けば、宮本屋の一家の避難先はわかるだろう。返さなくては。しかし、今の格好では返しに行けない。

 新撰組に戻って二ヶ月。「お仙どん」の影は、ほとんど千歳の中に残っていないように感じられた。

 千歳は、壬生に帰るため、綾小路を西へ進んだ。

 帰ったら、歳三へと志都の供養料に対するお礼を言おう。そのときには、今一度、話をさせてほしいと願おう。また泣いたり、黙ってしまうかもしれないが、自分が隊にいたいと思っていることだけは、改めて伝えておかなくてはいけない。

「隊にいたい……勉強できるから」

 ──役に立たないのに? とすぐに声が聞こえた。

「……世の中のことを知るには、勉強が必要で」

 ──女には、知る必要のないことだ。

「でも……三浦くんは、この世に生きるなら政治を知って良いと言ったし、山南先生は、知りたいと思うことは仕方ないって言った」

 ──お前自身は何と言う。山南先生は、三浦くんのことを、自分がどうしたいのか、なぜそう思うのかを言えるから良い子だと言った。お前は、どうなんだ?

 胸の中での問答は、そこで止まってしまった。千歳は焦りからくる動悸を誤魔化すように、早足で歩いた。

 二月後には、十五歳になってしまう。

 どうか、もうしばらく、隊に置いてもらえないか、この交渉は自分でしなくてはいけない。自らの去就を、自らの意志で決められなくても、どうしたいかを示すことだけはできる。

 隊にいたい。

 確固たる根拠を示せなくても、そこだけは伝えておかなくてはいけない。

 自らを奮い立たせ、千歳は前川邸の正門をくぐった。副長部屋に戻り、歳三の在室を確認する。歳三は着替えをして、出かけるところだった。

「ああ、戻ったのか。俺はもう出るから。夕食はいらないが、布団は頼む」

 歳三が羽織紐を結びながら、千歳の方を見ずに言った。

「わかりました。行ってらっしゃいませ」

「うん」

「あの……」

「うん?」

「お参り、行って参りました」

「そうか。ご苦労」

 歳三はそう言い残して、さっさと大刀を提げて出て行ってしまった。無関心は痛いほど伝わってきた。

 居室にて療養する敬助の様子を伺う。敬助は、千歳の帰還を労い、志都の冥福を祈ってくれた。千歳は、歳三が志都の命日を覚えていたのではなく、恐らく敬助にせっつかれて金子を包んだのだろうことを察した。

 夜、歳三は帰ってきてからも書類仕事をしていたので、千歳は話を切り出すことが出来なかった。

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