三、不服
守護職邸を訪れた近藤は、公用方の
勝の敗戦予想と、啓之助から日々聞かされる洋学の断片とによって、近藤の中にあった武力攘夷の灯はとうに吹き消されていたのだ。
武力攘夷とは、新撰組の心柱とも言うべき思想であった。それが破れた。初夏に打診した新撰組の解散は、池田屋とそれに続く禁門の変とで立ち消えになったが、今度こそ隊の存続を考え直さなくてはいけない。
新撰組は攘夷の役に立たない。近藤は不安と焦燥に震える足で座敷を出て、玄関へ向かった。胃が差し込むように痛んだ。一月ほど治らないこの痛みは、心労と接待での飲酒が原因と医師に言われた。どちらも、心当たりは大いにあったが、近藤にはそれを避けて通ることができなかった。
「先生、お疲れさまです」
別室で待たされていた啓之助が呑気な笑顔で大刀を差し出す。受け取って、帰途についた。
道々、長州敗戦の報を啓之助に話してみると、啓之助は、長州を馬鹿にしたり、憤慨したりするかと思いきや、「そうですか」の一言で納得した。
「それだけかい?」
「ええ。だって、負けることはわかっていましたし。そんなことより──講和条約の内容ですよ!」
啓之助が象山譲りの鋭い目で近藤を見上げた。
「賠償金! 全く、いくらになるんだか」
「相場はどんなもんなんだい?」
「うーん、阿片戦争では二千と百万ドルです。百ドルが七十五両だから、一五七五、百万両ですね」
近藤の口から、思わず乾いた笑いがこぼれた。幕府の歳入は、ざっと見積もって年間二百万両弱なので、阿片戦争の賠償金と同額が請求されれば、幕府の財政は間違いなく破綻する。
「ですけど、あっちは二年かけての大戦ですからね。こっちは、一日ふつかでさっぱり敗れてますから、百万両で済むんじゃないですか?」
啓之助の表情に悲壮感はなく、口振りは他人事だった。いつもどおりの明るい顔で歩き、すれ違った花売りの娘がかわいかったと報告してくる。
葛山との一件により、啓之助へは減俸と謹慎処分を言い付けた。今日は六日間続いた謹慎明けの日なので、今日くらいは気を入れて勤めるかと思っていたが。
「君は気楽そうだねぇ」
「近藤先生は重責ですもんね、大変そうです」
やはり他人事な返しを受け、失笑したことで、近藤の気は少し晴れた。
「……下関襲来の黒幕、一橋公だって噂、君はどう思うね?」
長州征伐が決まり、軍勢が整えられて行くなか、幕府軍の先鋒として慶喜が四国艦隊を差し向けたとの噂だ。もちろん、そのような事実はなく、むしろ、攻撃停止の交渉に勝が差し向けられている。長州敗戦の報も、勝がもたらしたものだ。
大火を受けた町衆の長州同情論は強い。そこに攘夷論も加わり、慶喜への嫌悪は高まっていた。
「この噂を言い出した人は頭悪いなって思いますけど、一橋さまの評判落としたい連中の流言だとしたら、賢いなって思います」
「うん……変わっていくことについて、象山先生はなんとおっしゃっていたかな?」
「変わる? 開国してですか?」
「うん」
「変えられる前に、変えていくんだって言ってました」
外圧によるものではなく、内発的な変化を象山は求めた。近藤は、なるほどと言って腕を組み、噛み締めるように綾小路を西へ進んだ。
「だけど、近藤さん……そんな、いきなり、新撰組は今日から攘夷を捨てますなんて、隊士をどう納得させるんだ」
「しかも、五月に鎖港攘夷の勅書が出たばかりではありませんか……!」
武力攘夷論を手放す覚悟を明かしたとき、歳三と敬助は、当然に困惑し、反対した。攘夷こそが、国是だ。横浜を鎖港し、攘夷を全うせよとの勅命が幕府に下されており、水戸の天狗党も横浜鎖港を求めて蜂起しているのだ。
「まさか、幕命にも朝命にも違い、開国を支持するというのですか?」
敬助が珍しく感情をにじませて、近藤に詰問した。
「そうではない。横浜鎖港も武力攘夷も、恐らくご公儀は本気ではない……と、勝先生からの話を伺う限り思われる」
近藤は、神戸に行った際に勝から聞いた話を語った。横浜を鎖港するとなると、違約賠償金だけでなく、そこに住む商人たちにまで、立ち退きの金が発生する。力尽くで攘夷を断行した長州は敗れ、万の賠償金を請求されるだろう。
「今、戦争をすれば負ける。鎖港も……つまりは、攘夷をするには、金がないんだ」
あまりに情けない理由に、歳三も、敬助も黙ってしまう。近藤も、武力攘夷を諦めても、開国進取論を取ろうとまでは思い切れないので、話は止まってしまった。歳三が場を改めるように、口を開く。
「それで、もうひとつのお話って?」
「うん。お取り立てのことだ。私が両番頭次席、副長は与力上席」
「ふうん、騎乗身分だな。お受けしよう」
「ちょ、ちょっと待ってよ、土方くん!」
あまりにも軽い結論に、敬助が歳三を抑える。
「攘夷が叶わぬうちは、お取り立ては受けないと申し上げたじゃないか」
「だけど、山南さん。また今度打診されたら、そのときは平伏して受けようと言っただろ」
「ご公儀が攘夷をなさらないと聞かされたうえで? 君はそれで良いのかい?」
幕臣取り立てを論じた去年の十月と変わらず、近藤と歳三は賛成、敬助は反対だった。このふたつの議題は、副長助勤を集めての会議にかけられた。
攘夷に関しては反対多数で、副長助勤以上で賛成を明示したのは、武田のみだった。藤堂と尾形は、放棄も止む無しとの立場で、それ以外はそろって反対した。幕臣取り立ても、武田と藤堂、尾形は賛成を示し、残りは反対だった。
会議から数日。隊士たちの間で、武田らを「局長派」と呼ぶ声が起こり、千歳の耳にも入ってきた。上の意志に追従する軟弱者との軽蔑が感じ取れる言い方だった。
「お仙くんは、局長派?」
掃除の最中、啓之助は無邪気に聞いてくる。
「別に、僕……そういうのはない」
政治に興味を持つなと歳三に言われて以来、千歳は政情を尋ねる質問は口にしなかったし、政治的な言及もしないようにしている。その代わり、歳三に多少嫌な顔をされようとも、啓之助から洋学、とりわけ英語を学んで憚らなかったが。
「でも、お仙くん、武力攘夷派じゃないでしょう?」
「う、うん」
「お取り立ては反対?」
「それも、別に……」
「じゃあ、局長派じゃないの」
そうなのだろうか。千歳は首を傾げて、回答の放棄を示すと、雑巾を絞り直した。千歳には、明確な論拠を持って攘夷や禄位のあり方を批判できない。
「三浦くんは、局長派?」
「そりゃ、そうだよ。先生のお小姓だよ?」
その理屈ならば、千歳は「山南派」になるが、敬助は攘夷を支持している。
「……派閥って難しい」
三条河原で新堀としたやり取りを思い出す。大火から一月が経つ。あの男は何をしているのだろうかと、密かに案じた。
近藤の胃痛は日増しに悪くなるように見えた。
先日は、驚くべきことに、近藤よりも啓之助の方が先に起きていた。食事の量も減り、顔には疲労が伺える。稽古に出ることも、ぱったりとなくなった。昼は居室で書き物をして、夕方前には談合のため、花街へ出かける生活が続いている。
談合の相手は、会津や見廻組の士もあるが、献金を申し付ける商家の旦那衆も多い。名を上げたとはいえ、新撰組の経営は楽なものではなかった。
そんなある日の午前、守護職から急ぎの遣いが来た。掃除中の千歳は、慌ただしく副長部屋へ呼び付けられて敬助の正装を行い、そろって出掛ける三長を見送った。
千歳は玄関に座ったまま、掃除に戻れずにいた。急に呼び立てられ三人共に出向くことなど、今までになかった。何か重大な出来事が起きたのではないか。例えば、もう一度、池田屋事件のような捕り物が起きるような……。
啓之助が稽古から戻ってきた。両手にできたマメが潰れて、血が流れている。ふたりは勘定部屋へ薬箱を借り受けに行き、縁側にて手当てした。
「どうも」
「ん、頑張ってるのね」
「はぁー……。ねぇ、局長たち、みんないないの?」
「う、うん……守護職屋敷から急ぎの文が来て」
「ふうん」
啓之助は副長部屋へ入ると、歳三の机の上に開かれたままの書状を手に取った。
「ちょっと! 勝手に見たら──」
「でも、出しっぱなしもダメでしょう? 仕舞おうと思ったときに、ちょっと見えちゃうくらいは仕方ないよ。どれどれ……」
「しっかり見る気じゃないか!」
千歳が啓之助の腕を掴んで制止するが、啓之助は、千歳の手を捉えて足払いをかけ、
「俺、剣術苦手だけど、柔術は得意なんだよね」
と言いながら、組み敷いたうえで文を読む。啓之助はお坊ちゃん育ち故に、少しばかり丸い。
「重ーい! 退いてったらー!」
「え、ちょっと……読んで、これ!」
千歳の足掻きを無視し、書状を千歳の面前に突き付ける。
「だから、読んじゃダメだってば!」
書状を押し返しながら叫んだところで、勘定部屋との襖が素早く開く。
「何してはんねん、静かにしい!」
兵庫に叱り付けられ、千歳は啓之助の胸を押し退けて正座し、深く謝った。啓之助は素知らぬ顔で手も着かない。兵庫は薬箱を回収すると、
「今な、お給金包んでんねん。静かにしたらんと、抜くで? 三浦くん」
と脅し文句を残して、襖を閉めた。それと同時に、千歳の手が啓之助の腕を叩くが、啓之助は書状を離さない。
「お仙くん、気にならない? 三長がそろって黒谷へ出掛けた理由。お文も出したままなくらい慌ててさ」
「……いいよ、別に」
そっぽを向いて立ち上がった千歳の背中に、啓之助のワザとらしい声が降りかかる。
「じゃあ、君は山南先生が青い顔して帰ってきても、平然たる顔で羽織の紐を解いてあげれるんだぁ?」
啓之助は千歳の呼吸を待たずに続ける。
「──永倉さんたちが、会津さまに局長を弾劾する建白書を出した」
千歳が息を飲んで、啓之助を振り返るが、啓之助の表情に厳しいものは見られない。
「永倉たちの切腹か、局長の切腹か、そのどちらかしかないって訴えているみたい」
「な、何に関して──?」
啓之助は書状を畳の上に広げ、黙って千歳を見上げる。千歳はためらいながらも、腰を下ろした。
訴え出たのは、永倉を筆頭に原田、斎藤、島田、尾関と葛山の六人。会津浪人の葛山が旧縁を頼って上訴したらしい。
その内容は、
一、近藤が攘夷を放棄したこと
一、攘夷を果たさずに、禄位は得ようとすること
一、外政にかまけ、内務を怠ること
一、同士である隊士に序列を付けること
一、攘夷こそが、我々の本願であること
との五箇条だった。
千歳が第一条を指差して言う。
「武力攘夷の放棄って、やっぱり、隊には受け入れられないんだ……」
「
「局長、お外周りが多いから」
「ふうん、何が悪いんだろうね」
会津藩からの給金だけでは、隊の運営は成り立たないのだから、その分は近藤が外回りに行き、商家から借り受けてくるしかないのだ。
「ねぇ、お仙くん。この内容さぁ、永倉さんたち六人の命を懸けるほどのこと?」
「それほど、攘夷はみんな……大事なことなんだよ……」
「この人たち六人が死んでも、攘夷に影響はないと思うけどなぁ」
「命を懸けてでも、訴えたいことがあるってこと」
「目的過ちたまうなぁ……」
啓之助は丸い頬を手遊びにつまみながら書状をのぞき込んだ。当人は思い至っていないが、第四条の「隊士に序列を付けること」に関して、永倉と葛山が啓之助を想起しなかったことはないだろうと千歳は予測立てる。啓之助の処分の軽さを、葛山が相当不満に思っているとは耳に入っていた。
「……永倉さんたち、大丈夫かな」
「大丈夫だよ」
「ど、どっちかの切腹がかかってるんだよ?」
「命懸けるほどしたいことがある人は、それを成し遂げるまでは生き抜くよ。局長も永倉さんたちも、こんなところで死ぬつもりないでしょう?」
啓之助は立ち上がり、着替えなくてはと言いながら出て行った。千歳は床に残された書状をしばらく眺める。
『大志を抱く者ぁ、そう簡単に死にゃあせんけん』
梅雨の白山神社でも、啓之助と同じことを聞かされていた。
夕方、前川邸の土間には、事態を耳にした隊士たちが集まって、噂し合っていた。「局長派」と見做された武田と尾形、藤堂は姿を見せていない。
総司は、こういうときによく話す藤堂と斎藤がそろって不在なので、井上に寄りかかって愚痴を言う。
「なんで、斎藤くんたち僕も誘ってくれなかったのかなぁ?」
「だけど、誘われたら、お前、近藤先生に切腹しろって言う立場になるんだぞ?」
「そうですけど……」
どうやら、事態はあまり深刻に受け止められていない。誰も切腹など本気にしていないのだ。
夕食の支度が整ったころ、三長と永倉以下六人がそろって帰って来た。啓之助が千歳の背中を叩いて、耳打ちする。
「な? 言ったとおりだろ? そんな、心配することはないんだよ」
永倉たちは謹慎を言い付けられ、三人ずつ前川邸の東西の蔵に入れられていたが、それも、形式上の処分だった。
翌日、大筒調練用の盛り土を築くため、稽古着の隊士たちが壬生寺の前庭に集められた。千歳も笠を被り、武田の指揮下で縄打ちを手伝った。作業中、隊士たちのおしゃべりに耳を傾けてみると、永倉たちの話はそこそこに、来月上旬に近藤が隊士募集のため東下する話や、新しく始まる砲術調練などに移っていった。
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