新しきconnaissance

一、ABC

 近頃、千歳が謎の呪文を唱えだしたと、歳三は気付いた。「エス、エー、ケー、エー、アイ」などブツブツ言いながら、指先を宙に振ったり、あるいは、無言のままトントンと床を指で叩いては、時々首を傾げて、「違う……」と言うのだ。

「山南さん、あれはなんだね?」

「なんでも、三浦くんに洋学の一種を教わったみたいで……」

 朝食時に歳三から尋ねられて、敬助も首を傾げながら答える。千歳の手による電信機なる絵図を見せられたが、千歳自身もよくわかっていないのか、説明は要領を得なかった。

「全く……洋学に染まられるのは、困りものだね」

「僕だって、そう思うけど、仙之介くんが──」

「したいって言うんなら、やらせておこう……だろ? わかってるよ」

 外を歩き回って、政情を探られるよりはまだマシだと、歳三は汁椀を傾けた。

 昼、武器庫として使っている米蔵に、購入予定の大砲を置く場所があるか確認しに行く。ふと、庭の北を見ると、洗い張りの反物が張られた戸板が立て並べられる塀の前で、帳面を開いて立つ啓之助と、それに平伏する千歳が見えた。

 異様な光景に息を呑んで様子を伺うと、啓之助が、

「トントントントン、トントン、トンツーツーツー」

と帳面を読み上げ、千歳は啓之助の声に合わせて、手にした小枝で左から右へと地面に文字を書いていく。啓之助の読み上げが終わると、はいと手を上げた。

「土方歳三!」

「正解ー!」

 歳三は思わず、「なんのことだ」と割って入ってしまった。

 千歳が驚いて立ち上がり、地面に書いた文字を足でならして消す。消し残された文字を見るに、洋文字だった。啓之助はにこやかに帳面を見せてくる。

「モールス記号です。お仙くんにアルファベットと一緒に教えたら、すぐ覚えて。きっと、電信機も使えると思いますよ」

 歳三には全くわからない説明をした啓之助は、続けて、電線や電気について解説しながら、電信機の構造を解いて聞かせる。

「──おい、お前、この説明わかるのか?」

「えっ、はい……えっと、なんとなくですが、一応」

 千歳による戸惑いの返答に、歳三は応じる気もなく小刻みにうなずきながら、背を向ける。

「では、わかる者同士で話していてくれたまえ。失礼」

 米蔵より出て来たときも、ふたりは変わらずに「モールス」で遊んでいた。


 天下の大学者、佐久間象山の遺児は、父の血を濃く継いだ変わり者だと、すぐに隊に知れた。何を話しているのかわからないと、専らの評判だった。

 ただの変わり者ならまだ良いが、生活態度並びに勤務態度が良くない。

 稽古は何かと理由をつけては休みたがるので、遂に怒った総司が集団稽古ではなく、総司との個人稽古を言い渡した。それすらも、逃げ出す始末で、総司の啓之助評はすこぶる悪い。

 遊里へ行く頻度は、幹部隊士よりも多い。実母が江戸でも有力な札差ふださし(武士を相手にした米問屋・金貸し)の出なので、月給の何倍もの仕送りがあるのだ。

 朝は千歳が起こすまでは起きないようで、仕事中にいなくなることも多い。五回に一回は千歳ひとりで食事の用意にやって来て、啓之助がまたいなくなったと愚痴をこぼす。その割に、仲は良く見えるのだが、敬助から聞くに、千歳曰く、

「同僚としての評価は、友人としては別にかまわない」

らしい。歳三はいつの間にか、千歳が啓之助を友人として認識していることにも驚かされた。

 ここまでなら、ただの手の掛かる少年隊士だが、啓之助には加えて怒り癖があった。屋根に取り残された千歳の他にも、啓之助が突然に機嫌を損ねて困るとの訴えが、永倉や斎藤たちから上がっている。

 佐久間象山の息子、勝海舟の甥、近藤の小姓、客分隊士、本願は父の仇討ち。そんな啓之助に、隊士たちは強く出ることをためらった。近藤が啓之助をかわいがることも、扱いの難しさに拍車をかけた。

 そのため、啓之助の評価は、おおむね「困った奴」で一致している。


「三浦くん。今日は未の刻より、沖田先生の稽古がありますね。お忘れなく」

 昼食を食べながら、千歳は啓之助に釘を刺した。

 午前の巡察に出る総司から、くれぐれも言い聞かせておけと言い付けられているのだが、当の本人は姿勢を崩して、道場が燃えないかなどと物騒なことを言うばかりで、千歳のため息を誘う。

「君、昨日また逃げたろう? 僕がお説教食らうんだから、今日はちゃんと出てよ」

「あの人、やだよ。荒っぽいし、教えるの下手だし。元々剣術好きじゃないのに、もっと嫌いになった」

「あのなぁ……」

 仇討ちはどうしたとの言葉を飲み込む。この言葉は、確実に啓之助の機嫌を損ねるのだ。

「ねぇ、僕も一緒に稽古受けさせてもらおうか?」

「嫌だよ、余計比べられるじゃない」

 啓之助はつまらなそうに沢庵をかじった。

 それから、半刻後の未の刻。八木邸の縁側で本を読んでいた千歳の許に、荒っぽい足音が近付く。稽古着の総司が、木刀を掴んで庭に立っていた。

「──僕、ちゃんと言いました!」

 何を言われるよりも早く、千歳は抗議の声を挙げるが、総司の形相は変わらず険しい。

「探し出して、連れて来なさい!」

「え、えー……」

「えー、じゃない!」

 藤堂から、啓之助が坊城通を南下して行くのを見たとの証言を得て、嶋原に当たりを付けた千歳は、まず輪違屋を当たった。しかし、来ていないとのことだった。

 うんざりしながら、何店かを訪ねて回るが、いずれも啓之助はいない。千歳は軒をくぐった瞬間に寄せられる、こんな子どもが何の用だとの視線が耐えられなかった。

 亀屋に至る。ここに来るのは三度目なので、手代も千歳のことを覚えており、にこやかに膝を着いて出迎えた。

「あれ、坊さん。ご予約のお遣いですか?」

「いえ。あの、新撰組の三浦啓之助、来てませんか?」

「坊さん、えろうすんまへん、お名前──」

「隊の酒井仙之介です」

「確認して参ります」

 座敷に通そうとする番頭に断りを入れて、千歳は手持ち無沙汰に待った。

 玄関の脇には赤い格子の見世があり、既に華やかな着物を着た妓がおしゃべりに興じていた。格子の中にいる妓は、遊女であると千歳はわかっている。あそこに並んでいたかもしれない自分の人生を考えながら眺めていると、気付いた妓たちがクスクス笑いながら手を振ってきた。

 千歳がうろたえていると、手代が戻って来て、妓たちを叱る。妓たちは悪びれもせずに、また笑い合って、前に向き直った。

「すんまへん、もう、躾の悪ぅて。お待たせしました、酒井はん、お上りください」

「いえ、僕は──」

「佐久間はんが、中でお話聞く言うてはります」

 千歳は口の中で啓之助に対する文句をつぶやきながら、草履を脱いだ。


「やあ!」

「やあ、じゃないだろうが! なに明るいうちから飲んでるんだ!」

「ちょっとだけだよ、なぁ」

「へぇ」

 通された座敷では、屏風の前で膳を食べながら、妓に酒を注がせる啓之助がいた。千歳は襖のすぐ前に座って、畳を叩く。

「三浦くん、総司さんが君を連れて帰って来いって言うんだ」

「えー」

「良いから、さっさと稽古行けよ」

「まだ、してないから、やだぁ」

「してない? ──うわ、最低! 何言い出すんだ、気持ち悪い!」

 思わず後退り、叫ぶ。啓之助の背後に立つ屏風の向こうには羽二重の布団があることくらい、千歳も理解するところだ。

 千歳の嫌悪とは裏腹に、啓之助は純粋な疑問を浮かべた顔を向けていた。

「気持ち悪いって……みんな、してることだよ? 君だって、父さんと母さんが──」

「やめろ! 考えたくもないわ!」

「これだから、ネンネは」

 鼻で笑われるが、親のそういうことを考えられるのが大人の証なら、一生ネンネでかまわない。

 啓之助は、千歳をつまらないと評しつつ、手招きをした。

「わかるよ、君、色事嫌いそうだもんね。でもさ、そんな端っこ座ってないでさ、ちょっと、おいでよ」

「なんで」

「良いから」

 千歳は仕方なく応じて、啓之助の側に控える妓より差し出された座布団に座った。啓之助が膳を脇に避けて、かしこまった様子で背筋を正す。

「ご教授いたしたく御座候」

「手短にね。早く帰って──」

「お静かに」

 啓之助が鼻先から見るように、千歳を半眼で捉える。

「お仙くん。君は、女を馬鹿にしてるね?」

「し、してないさ……」

「そう? じゃあ、君、男と女だったら、どっちが価値あると思うのさ」

「そんなの……男に決まってるじゃない」

「どうして?」

「……政治を行うのは武士で、武士は男しかなれなくて、つまり、世の中を動かすのは男だから」

 千歳はうつむきながら答える。北野の座敷では歳三に楯突いたが、これは否定の隙もない事実なのだ。

 啓之助はふうんと長く相槌を打って、畳半畳分居座って、間合いを詰めた。

「だけど、それは世の中の仕組みのことでしょう? ただの人間として、俺は聞いているんだよ」

「……どう言うこと?」

 考えたこともない質問に、千歳の胸が騒ついた。啓之助が両手を広げた。千歳は啓之助の言葉を待つ。

「女がいかにすばらしい生き物か、君はわかっていない!」

 その芝居がかった言い回しに、千歳は脱力する。一瞬でも、高尚な見方で諭されるのではないかと身構えた自分が悔しい。

「こちらにおわすは、亀屋一の名妓、弥生!」

 啓之助が指す遊女は、たしかに優しい顔立ちをした美人だった。

「弥生はね、頑張ったときは褒めてくれる。落ち込んでいるときは慰めてくれる。迷ったときには励ましてくれるし、悲しいときは寄り添ってくれる。そんな、心の優しい女だ」

 啓之助の絶賛に弥生ははにかみ、袖で顔を隠す。

「ほら、この恥じらいもまた良いんだよ。わかる?」

 啓之助は千歳の反応など、おかまいなしに語り、いつしか話は、床の中での弥生の言動にまで移る。千歳は居た堪れず、弥生の方が見れなかった。

「──つまりね、男は自分だけ気持ち良くなろうとしちゃいけないし、女も男に身を任せてちゃいけない。一対の満たされた者同士として、愛し合うことが幸せだ。そうは思わない?」

 千歳の耳は途中から言葉を捉えることを放棄していたので、啓之助に意見できることはない。ただ口を突いて出て来た言葉は──

「気持ち悪……」

 真夏の生ゴミにたかる蛆虫を見るよりも拒絶感を孕んだ目で、千歳は啓之助を見ていた。それでも、啓之助には何も響いていないらしく、

「若衆姿に蔑まれるのも、ゾクッとするねぇ」

と弥生に話しかける。千歳は呆れて言葉も出ない。

 櫓時計の鐘が鳴り、二字を報せた。

「ねぇ、三浦くん」

「うん?」

「僕が何しに来たか、わかってるよね?」

 千歳の低い声に、啓之助は一瞬で無表情になり、ため息をついた。

「うるさいなぁ、お小言鬼小町」

「き、君がそうさせるんだ」

「嫌なの? じゃあ、放っておけば良いじゃないか!」

「それじゃ済まないってこと、わかってるだろ!」

 千歳が畳を叩いて立ち上がると、啓之助も応じる。

「帰れよ!」

「もちろんさ! それで、君は?」

 啓之助は身を翻すと、屏風の裏へ行き、布団に倒れ込んだ。

「あ、そう! じゃあ、もう帰って来るな! 象山先生の息子が、聞いて呆れるな!」

「父さんのことを言うな!」

 屏風の向こうから、枕が飛んで来た。


 千歳は、総司に啓之助は見つけられなかったと報告して副長部屋へ戻り、洗い張りした夏の反物を縫い直した。心を落ち着かせるには、裁縫のように、無心でできる細かい作業が向いていると気付いた。

 その後、夕食になっても、日が暮れても、啓之助は戻らなかった。布団を敷き終えた副長部屋を近藤がのぞき、啓之助の所在を知らないかと千歳に尋ねた。

「し、知りません……」

「三浦くん、わかってるのかな? 無断外泊は──」

「切腹ですか?」

「さすがに、いきなり腹切れとは言わないが」

「だけど、近藤さん。あの坊や、随分、甘い奴らしいじゃねぇか。一回くらい、腹切らしといた方が良いんじゃねぇのか?」

「歳三くん……」

 歳三の口調は軽いものだが、顔を青くした千歳を示して、敬助が首を振って諫める。歳三はわざとらしく伸びをして、

「ガキじゃねぇんだから、明日帰ってきたら尋問する、それでいいよ」

と言い、千歳へと寝るように言い付けた。

 執務室と居室に分けられてから、歳三は遅くまで仕事をし、敬助もそれに合わせて残るようになった。

 千歳が眠れずにいると、敬助が蚊帳の中へ入って来て、小声で尋ねる。

「仙之介くん、三浦くんがどこにいるか心当たりがあるね?」

「……はい」

「どこだい?」

「亀屋にいました……」

「そう。どうして、戻って来ないんだろう」

「すみません……」

「別に君に怒ってはいないよ。どうしてかなって」

「……喧嘩しました」

 千歳は掛け布を頭まで被って、背を丸める。

「帰って来るなって言ったら、本当に、帰って来ない、から……!」

「心配かけるなんてひどい奴だねぇ、全く」

 敬助の手が、布団の上から千歳の震える背中を打つ。だんだんと千歳の息が落ち着いて、千歳は眠りに落ちた。


 翌朝、局長部屋に布団を上げに行くと、そこには正座する啓之助と、説教の姿勢をとる近藤がいた。

「おはよう。さっき帰って来たよ」

「どうも、すみませんでした」

 啓之助は太々しくも、千歳に頭を下げる。千歳は、スッと息を吸い込むと、

「B、A、K、A!」

と言って、踵を返した。

 近藤が啓之助に意味を尋ねると、啓之助は、

「あー、『おかえり』って意味ですねぇ」

と平然と答えた。

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