十五、この先

 畳の上には、鋼鉄製の軌道レールが楕円形に組まれ、アルコールで走る蒸気機関車模型が走る。精巧に作られた模型は、ペリー来航のさい、幕府に献上された物を縮尺した写しだという。

「へぇー……こんなのが、町を走るんですねぇ」

「いずれはじゃ。たぶん、坊ちゃんらぁの子どものころには、のう」

 坂本が腕を組んで、日本各地どこへと軌道を敷くべきかを説いて聞かせた。千歳たちの前には、塾生たちが次々に洋学の品を出し、その構図や用途を説明していくので、千歳の帳面は何頁も進んだ。

 やがて、話し合いを終えた勝が、近藤と武田を連れて入室した。広げられた物品に、呆れたような声で笑う。

「おやおや、珍し物市が開かれているねぇ」

 塾生たちが礼をして出迎え、大復習会だと声を挙げる。近藤が身を乗り出して、模型をまじまじと見た。機関車はシュンシュンと音を立てて、畳に敷かれた軌道を疾走している。

「勝先生、これは……?」

「機関車だよ。これも、蒸気船も、機械を動かす仕組みは同じだからね。内燃機。説明に使うのさ」

「は、はあ」

 近藤は首を傾げながら、わかったかと千歳に尋ねる。千歳も首を傾け返す。

「ちょっと、僕の理解の範疇を軽く超えていますね」

「よく理解してますけどねぇ、この坊ちゃん」

「そんな……九九と同じですよ。言葉としては頭に入りましたけど……」

「それが難しいんだって」

「なぁ」

 塾生たちが笑い合った。明るく闊達な雰囲気に気を取られ、千歳は隣にいたはずの坂本が部屋を出て行ったことに気付かなかった。


 夕方、勝は近藤と武田を連れて、花街へと出向いた。千歳と啓之助は奥座敷に置かれ、仕出しの膳を食べる。啓之助は先般より、置いていかれた、自分も生きたかったと繰り返しては、勝をなじった。千歳は、おいしいものが食べられれば十分なので、相手にしない。

「海が近いと良いなぁ。この煮付け、すっごくおいしい」

「妓がいねぇんだよー。呼んじゃダメかな?」

「ダメに決まってるだろ。ねぇ、これ、スダチ? 良い香り」

「酒ぇ」

「そう、これは鮭」

「違う。それ、鰹」

 千歳が取り合わないため、啓之助もようやく諦めたようで、電信機が楽しかったとの話題には乗ってきた。

「電信機良いよなぁ、構造自体はそんなに複雑じゃないから、これから国産品も広がるだろうね」

「へぇー、電信機に蒸気船に機関車に……世の中は様変わりするだろうなぁ」

「人の移動が活発になれば、国内外に物が動いて、国を富ませる。な? 洋学って、おもしろいでしょう?」

「うん。今日は、本当によく学べた。攘夷とは、闇雲に異国を遠ざけることではないと、理解できたよ」

「それは良かった」

「だけどさ、国を富ませる必要があるのはわかったけど、西洋は日本が洋学を学ぶまで、猶予を与えてくれるだろうかな……」

 西洋列強は、その気になれば、いつでも日本を従えられるだろう。千歳の不安気な声に、啓之助も強くうなずく。

「国内で争ってる場合じゃない、勝先生がよく言われるよ。そんな暇があるなら、少しでも学んで、西洋に追い付かなくちゃ」

「……弱いってみじめだな」

 千歳は、今まで強者の立場にたったことはない。誰かの下で働き、誰かに庇護を受けてきた。自身の進退が他者にかかっている状況が、世界の中の日本だと気付かされたことは、あまりに大きな衝撃だった。

 しかし、啓之助は相変わらず明るい。

「でも、洋学は楽しいだろう? 純粋に」

「……うん、おもしろかった」

「それが大事だと思うんだよね。国を守るためってキリキリ学ぶより、ただ楽しいから、学びたいからって洋学を学べるようになると良いなぁ……て、こんなことを言うと、叱られるんだけどね」

 啓之助は笑ってみせる。今日の啓之助は、今まで見たことがないほど、楽しそうで生き生きしていた。千歳は箸を置いて、啓之助へと向かった。

「僕、君に謝らなきゃ」

「え、何を?」

 啓之助が新撰組に来て、半月と少し。千歳は「鬼小町」とあだ名されるほど、啓之助に怒ることが多かった。啓之助はお坊ちゃんで、何も知らないと思っていたからだ。

「今日、よくわかったよ。僕と君とでは、勉強してきたことが、まるで違う。ここでは、僕は赤子も同然だけど、君は塾生と議論が交わせる。だから、ごめん。僕が三浦くんをわかっていなかった」

 千歳が深く頭を下げた一瞬の沈黙の後、啓之助が吹き出した。笑い声を抑える様子もない。

「あははは、何さ急に。こっそり、酒でも飲んだんじゃないのか? 坊ちゃん、もうお休みよ」

 千歳の顔が赤くなった。神妙な謝罪を笑われたら、「鬼小町」になるのも仕方がない。

「君、君はやっぱり、僕のこと、馬鹿にしてるんじゃないか?」

「ええー? してないよぅ」

「絶対、してる!」

 千歳が畳を叩いて悔しがるのを見て、啓之助はさらに笑った。それが、急に真顔に戻り、目を凝らして障子戸の方を見た。

「──どなた?」

「すまんねや。もう食べ終わっちゅうかと思うて来たんじゃが」

 障子を開けながら入って来たのは、坂本だった。緊張を解いた啓之助が膳を後ろに寄せる。

「どうぞ、お入りください。酒も妓もありませんが」

「酒はある!」

 威勢良く差し出された徳利は、千歳の顔ほどはあった。


 千歳は初めて酒を口にした。歳三の監視下では飲めないが、ここは京都から十八里も隔った場所だ。汁椀の蓋裏に並々と注がれた酒は、少し濁っており、香りは甘酒のようだった。

 しかし、口に入れた瞬間、辛さと熱さにむせ、舐めるようにしか飲めない。啓之助は、何度も汁椀の蓋裏の杯を空けては坂本に注がれている。坂本は、汁椀本体に酒を注ぎ、水の如く飲み下していった。噂に違わぬ土佐っ子の飲み様に千歳は感嘆する。

 坂本は酔って、元より大きな声がさらに大きくなった。

「ほんに、ほーんに、象山先生が生きててくれちょったら、どれだけ日本は進んだか! 今んままじゃ、日本は清国の二の舞ぜよ! 象山先生ー!」

 そう叫んだかと思いきや、千歳の一杯目が空かないのを見つけて、

「なんじゃ、坊ちゃん。足りちゅうか?」

と言いながら、手で飲むように煽った。千歳は返事だけはして、笑って誤魔化す。

 啓之助が空の杯を差し出して、注ぐように求めた。

「坂本さん、この子、本当にネンネなんですよぅ」

「先輩が教えてやんにゃあ」

「それが、俺のが後輩ですから、シゴかれるんです。こっそり、『鬼小町』って呼んでるくらい」

「ほぅ、仙の坊ちゃんも剣をやるがかね?」

 坂本の細い目が、興味深そうにさらに細められた。千歳が慌てて経緯を説明すると、坂本が笑う。

「ほうか、ほうか。お小言のう」

「ええ、僕だって言いたいわけじゃないんです。この人が、言わすんですもん」

「ほんなら、仙坊は剣は何を遣いゆぅ?」

「あ……一応、北辰一刀流を」

「同門じゃー! 北辰一刀流で『鬼小町』言うたら、懐かしい人を思い出すのぅ」

 坂本が千歳の頭を激しく撫でた。啓之助も坂本の反対の手の下へと撫でられに入る。

「お沙奈さまですねぇ。俺、あの人、初恋ですよ」

「お沙奈さまはいかん。ワシのもんじゃ」

「えー、でも俺、結婚申し込んだら、十四年後に待ってるわねって言われましたよ。あと三年ですー」

「お沙奈さま、ワシという者がありながら!」

「そのとき、まだ坂本さん、出会ってもないじゃないですか」

「お前……小さいころ遊んでやったの忘れたがか?」

「全く記憶にないっすねぇ」

 坂本が啓之助に制裁だと言って、くすぐった。身をよじって抵抗する啓之助を見て、千歳も声を立てて笑った。

 一通り笑い合うと、坂本がしみじみと言う。

「同門は良いモンぜよ。同じモンを習った人間とは、すぐ打ち解けられるもんじゃ」

「北辰一刀流は強いですねー、その点。いっぱいいますもん」

「そうだね、山南先生、藤堂さん。あ、総司さんもね、習ってたんだって!」

 天然理心流を早々に修めた総司は、出稽古の傍ら、北辰一刀流も学んだという。そのため、千歳との稽古のさいは、全て北辰一刀流の形で相手をしてくれるのだ。

 ところが、坂本は急に顔を曇らせ、

「──沖田総司か?」

と低い声で尋ねた。千歳はサッと顔を青くする。池田屋で切り捨てや捕縛された浪人のなかに、土佐出身者も多くいたことを思い出した。

「……すみません」

 わずかな沈黙が流れ、啓之助が切り出す。

「坂本さん……昼間、近藤先生がお部屋に来たとき、出て行きましたよね。やっぱり──」

「いや、これは。違う!」

 坂本が啓之助を遮り、髷の元結をかき揚げた。しばしの逡巡を挟み、千歳へと頭を下げる。

「ワシが大人気なかった」

 千歳は言葉を返せず、何度も首を横に振った。顔を上げた坂本は、険しい眼差しで啓之助へと向き直る。

「坊ちゃん、大人として言うておく。仇討ちなんか辞めい」

「坂本さん……」

「気持ちはわかる。ワシも、象山先生が討たれたち聞いて、何度も心ん中で剣を振るうた! じゃが、実行はせん。してはならん」

 坂本はあぐらにかいた膝に拳を叩き付けながら続ける。

「人斬りの世界は一度、踏み入れたら帰って来れん。一生、付いて回るがじゃ! 坊ちゃんは、来ちゃならん」

「……周りの人はそう言いません。俺を追い立てて来ます」

 啓之助は新撰組に来たばかりのころのような、不機嫌そうな半眼でうつむいていた。静かな座敷内には、遠く波音が聞こえる。坂本は乱雑に目を拭うと、悲嘆の声を挙げた。

「──武士は馬鹿ばっかじゃ。力で強さを示そうとしゆう、物事を動かそうとしゆう。違う、力は見せつけるもんじゃ! 物事は、言葉で動かすもんじゃ!」

「父さんが……威嚇以上に力を使う奴は馬鹿だって、言っていました、よく。だけど、俺に力はないんです。だから、死を覚悟して挑むしかないって……」

 坂本は大きく息を吸って、啓之助の肩を抱き寄せた。

「力は腕っ節に限らん。坊ちゃんは学問で力を着けっせい。ほいで、勝先生くらい偉うなって、仇らの家に正式に処罰を依頼しっせい。ちっくと脅してもかまわん。海防費用、大目に負担させるぞち言うたれ。そんで、処断させぇ。それが、一番良え」

 力は示すだけに留めるのが、一番賢いのだと言って、坂本は酒を飲んだ。


 夜、近藤も武田も帰って来ないので、ふたりは先に寝ることにした。啓之助は膝を抱えて、千歳が布団を敷くのを見る。いつもなら、見ていないで手伝えと言うところだが、千歳は啓之助へと声をかけられなかった。

「……お仙くん」

「……うん?」

「仇討ち、君ならしたい?」

 千歳は答えられず、手を止めた。思い出した光景は、志都が亡くなった日の夜。

 白い布を掛けられた志都の枕元で、兵馬は涙を流しながら「仇も討てない」と畳に伏した。その直後、兵馬もまた咳をし始めたときには、絶対に治して志都の仇を取ってやると千歳に言ったのだ。

「もし……お母さまが誰かに殺されたのだとしたら、仇を討ちたいと僕も思う、気がする」

「刀で?」

「……わからない。人を……自分の手で誰かの命を終わらせることなんて、考えられない」

「でも、仇は討ちたい?」

「……矛盾してるな、僕」

 千歳はため息をついて、再び布団を敷きだした。気は晴らしたいが、誰かの命を奪う勇気などない。

 奪えるのは「勇気」なのだろうか。芹沢の葬儀後、千歳がまだ仔猫だった竹輪へと刃を向けたとき、自分の中にあったのは「狂気」だと思う。

 啓之助が敷き終わった布団の上に枕を据えた。

「俺……母さま──勝先生の妹の方ね、佐久間を名乗れるまで帰って来るなって言う。でも、俺は母さん……本当の母さんに会いたい。そっちの方が、大事」

 啓之助に父を悼む気持ちはあっても、仇討ちに燃える心はない。

「不孝者だよ、俺は……」

 布団に倒れ込み、啓之助は顔を布団に押し付けて、一度鼻をすすると、静かになった。

 帰る場所がなく、会いたい人に会えない。千歳にはその辛さが、苦しいほどよくわかる。涙を堪えて、啓之助の背中を撫でた。千歳が悲しみに暮れていたなら、敬助はきっとこうしてくれるだろう。


 翌朝、勝に見送られながら、一行は神戸港へ向かった。船場にて、近藤が深く頭を下げる。

「では、お世話になりました。今後とも、よろしくお願いいたします、勝先生」

「こちらこそ、よろしくお願いします。坊ちゃんのことも」

 勝に肩を叩かれた啓之助は、いつもどおり明るい顔をしていた。

「先生も京都来てくださいよー。嶋原も祇園も北野も、良いところいっぱいありますよー」

「はははは。坊ちゃんも遊びはほどほどにな。俺に当てられたせいだって、かかさまが訴えてくんだから」

「はいはーい。わかりまぁしたー」

 啓之助は気のない返事を響かせて、勝に手を振り、さっさと千石船へ乗り込んで行った。

 船は神戸の港を離れ、大坂へ進む。

 千歳も啓之助も、同じく新撰組において何をすべきかわからない者同士だ。どうしたら良いか、一晩考えても、ちっとも進まない。

(でも、やっぱり、たまには足を延ばすことも重要だ)

 千歳は淀川を上る川舟の中で帳面に描いた電信機の絵を眺める。啓之助がのぞき込み、気に入ったかと尋ねた。

「うん。京都と神戸に通っていたら、いつでも勝先生とお話できるのにね、三浦くん」

「そしたら、毎日お叱りが飛んでくるじゃないかぁ」

「あははは」

 足を延ばせば、世界は広いことに気付く。身の周りだけで、世の中は完結していないとわかるのだ。


 副長部屋では、敬助が手習いをしていた。

「おかえり、燕さん」

 千歳は神戸で見聞きしたことを、敬助に話したくてたまらなかった。敬助はやはり、穏やかにうなずきながら、聞いてくれるのだった。

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