十四、舶来

 初秋の晴天は高く、摂津の海を青色に染めていた。大坂の船着場である天保山には、大小様々な船がひしめく。一行は神戸へ向かう千石船に乗り出港を待った。千歳は啓之助と共に甲板から港を眺め、その中にいくつかの外船を見つけた。

「軍艦がある」

「あれ、商船だよ。三年前に、商人も黒船を買って良いことになったからさ」

「商船なの? 大砲は?」

「ないよ」

「でも、積んだら軍艦にできない?」

「あー、できるだろうね」

「ふうん、豪商が軍艦を持ててしまうね。危なくないかなぁ」

 慶長以来、五百石積以上の軍艦は所有が禁止され、諸大名の海軍力は抑制されていた。天保の改革時、その禁令を解くように求めたのが佐久間象山だ。外船所有の解禁は、諸大名へは嘉永六年に、一般商人へは文久元年になされている。

「物は使い用だよ。黒船の方がずっと速いし、大きいからたくさん積めるし。風がなくても進めるからさ。これからは、黒船の時代だよ」

 そう言って啓之助は、千石船の木の手すりを確かめるように叩いた。

 威勢の良い掛け声が挙がり、船が動き出した。船は大きく揺れながら、ゆっくりと大坂の町並みから遠ざかり、摂津の海を進む。千歳は歓声を上げた。

「うわぁ、すごい! 海だ、海に出た!」

「何はしゃいでんだ、海くらいで」

「自分だって嬉しいくせに!」

「子どもじゃないから、はしゃぎませーん」

「言い方が既にはしゃいでまーす」

 近藤が後ろからやって来て、海に落ちるなよと笑う。武田が湾に面した砲台の数々を指して、堅牢な構えだと評した。


 神戸の港から、勝のいる海軍操練所まではすぐだ。港の関には、勝が出迎えに来ていた。啓之助が手を振って、駆け寄ると、勝も応えた。

「先生、お久しぶりです! わぁ、一度、見たいと思っていたんです、海軍操練所!」

「良いだろう? ──どうも、近藤くん。武田くん。このたびは遠路遥々」

「滅相もないことでございます。お出迎えまでしていただきまして、まことにかたじけない限りでございます」

「このたびは、よろしくお願いいたします」

 近藤に続いて、武田も深々と頭を下げた。その後ろに立つ千歳に、勝は目を留める。

「近藤くん、この子は?」

「勉強させようと連れて参りました。副長抱えの小姓役で──」

「酒井仙之介と申します。お目にかかれて光栄でございます、勝先生」

 千歳が緊張の面持ちで礼をすると、勝は手を叩いて、君か、と言った。

「坊ちゃんからの文にあってね、お仕事教えてくれる『鬼小町』」

 勝の良い笑顔を受けて、千歳が啓之助を睨んだ。

 一行は操練所へと進む。勝は近藤、武田と話すので、ふたりはその後を着いて歩いた。

「何告げ口してるんだい? 三浦の坊ちゃん」

「人の悪口って言うもんじゃないなぁ」

「悪びれないな、ホントに! そも、なんだ。『鬼小町』って。千葉道場のお佐奈さまか」

「あれ、君、会ったことある?」

「お話にだけ。僕も北辰一刀流だから」

 北辰一刀流の宗家筋である桶町千葉道場の娘として生まれた千葉佐奈子は、小柄な少女のころから剣術は免許皆伝の腕前で、その強さと美しい容貌から「鬼小町」とあだ名されていた。千歳は目録すら得られていないので、遠く及ばない。

 啓之助は、幼少期の江戸の屋敷が千葉道場の近所であったため、遊んでもらったり、稽古をのぞいたりしていたことを話す。

「君もね、似てるなぁって思ったんだよ、足捌きとか、声の出し方が」

 本当だとしたら嬉しいと、千歳は照れて黙った。啓之助は操練所の前に繋がれる外船を指して、

「先生、あの船! あの船が、観光丸ですか?」

と興奮した口調で、勝に駆け寄る。

 しかし、大人組の話題は深刻なものだった。近藤と武田が非常に厳しい顔で、勝の話を聞いていた。

「──それで、先月の二十七日だよ。英米仏蘭が出港したそうだ」

 啓之助が何の話かと尋ねると、勝は四国艦隊が下関へ向かうために横浜港を出た報を知らせた。

 昨年の五月十日。長州藩は攘夷と称して、下関を通る米国商船を襲った。その後、フランス、オランダの軍艦にも砲撃を加えたため、報復が行なわれるのだ。

「英米仏蘭の十七艘もの黒船だ。長州も砲台を築いて迎え撃つ気だろうが、無理だろうねぇ」

「無理とは、どういう意味でしょうか? 勝先生は、負けるとお考えですか?」

 武田が青い顔で憤慨するが、勝は動じず、

「そりゃ、負けるよ。場数が違うんだもの。俺が近藤くんに真剣の試合を申し込むようなものだね」

と言い切った。近藤も尋ねる。

「横浜から下関へ向かうとなれば、摂海に異国船が侵入するということではありませんか……?」

 開国以来、兵庫開港は見送られ続けている。天皇の住まう王城にほど近い兵庫へ異国船を入れることを嫌ったためだ。攘夷の先駆けとなると京都に残った近藤にとって、兵庫開港阻止、異国船の摂津侵入阻止は最重要課題でもある。

「俺のところにも一橋公から通達が来ていてね。異国船が現れたら、丁重に応接してお帰り願うようにと」

「そうですか」

「しばらくは、ここで見張り役さ」

「……打ち払えないのでしょうか」

 近藤の声は震えている。薄々勘付いていた、攘夷とは空論に過ぎないとの考えが、頭の中を占拠した。彼らふたりの緊迫を他所に、勝が気の抜けた声で答える。

「あんたたちだって、いきなり浪人を斬ったりはしないだろう。御用改めだって宣言して、抵抗するなと警告する。戦にも手順がある。長州はそれを仕損じて報復を受けるんだから、もう我らに打ち払いはできないさ」

 これから行われる戦後処理を思うと、攘夷と叫ぶ連中は足枷でしかない。勝はそうとは口に出さなかったが、啓之助はまだ子どもだった。

「馬鹿ですよね、攘夷攘夷って。あんな鉄の塊浮かべて海の向こうからやって来る相手に、本気で敵うと思ってるんですかね? 結局、負け戦仕掛けて、国土を植民地にされる危機に陥らせるのは、馬鹿な──」

「三浦くん!」

 千歳は啓之助の腕を掴み、首を振って制止した。冷や汗を浮かべながら唇を噛む近藤たちを見て、啓之助も悪いことを口にしたと気付き黙った。

 千歳が気丈な声で、勝に尋ねる。

「え、えっと、米仏蘭は当事国なのでともかく、英国は関係ないんじゃないですか? 去年の事件と」

「そこが英国の賢いところさ。戦に参加しさえすれば、莫大な賠償金と割譲地が得られるんだからな」

 日本側の負けを前提にした答えは、千歳までをも消沈させた。近藤が意を決した顔で、勝を見た。

「我が国は異国に敵わない。これは、覆らないことでしょうか?」

「今すぐの武力攘夷は返り討ちになる。それは、もう明白だよ。だけど、大事なのは『西洋の芸術と東洋の道徳』だ」

 そう言って、勝は啓之助の肩を抱き寄せた。

「そのために、俺はここで洋学、ひいては海防に就く者を育てているんだ」


 操練所に着くと、近藤と武田は奥座敷に案内される。勝は千歳と啓之助へと塾を見学しているように言った。来ることは、伝えてあるらしい。

 操練所も、家屋の造りは純和風だった。ふたりは砂っぽい廊下を歩く。千歳は啓之助に、「西洋の芸術と東洋の道徳」の意味を尋ねた。以前、歳三からも聞いた象山の言葉だ。

「『西洋の芸術』は、洋学のこと。進んだ技術、強大な軍事力。これを日本も身に付ける。だけど、西洋人は利益ばかりに聡くて道徳がない。阿片アヘン戦争、知ってる?」

「えっと……けっこう前だよね、英国が清国に阿片を売った……みたいな」

「二十四年前だね」

 啓之助は阿片戦争の経緯を説明した。

 英国は、清国からの茶葉や陶磁器の輸入超過により、膨大な貿易赤字に陥っていた。その打破のため、芥子の実から取れる麻薬──阿片を清国に輸出する。阿片は中毒性があるため、清国では阿片中毒者が蔓延し、大量の銀が阿片と引き換えられた。こうして、英国は対清貿易を黒字化したのだ。

「それで、清国が輸入禁止に動いて、阿片を焼却すると、戦争仕掛けて打ち負かしたの。負けた清国は、お金払わされて、国土も奪われた。全部、英国の思惑どおり。英国だけが得をした戦争さ」

「そんなひどいことが許されるの? まるで、道理がないよ!」

「だから、『東洋の道徳』が併せて必要なのさ。『西洋の芸術』は強力が故に、使い方を誤りがちだ。抑え、鑑みる道徳がなくてはいけない」

「道徳をもって、芸術を扱う。それは重要なのはわかった。じゃあ、それがどう攘夷になるんだ?」

「弱いから、奪われるんだ。日本は強くならなくちゃいけない。洋学を学び、西洋と同等の力を得れば、蹂躙されることはない。これが開国進取論だよ」

「進んで洋学を学ぶことが、国を強くし、攘夷となる……」

「うん」

 啓之助の言うことは、新堀と通じる。黒船でやって来れる相手に勝つには、日本も黒船を造る必要があり、それを学ぶ相手とは、悔しいが、やはり西洋諸国になる。

 塾の教場に続く廊下には、大きな世界地図が張られていた。淡い色で着色された図面には、西洋の横文字と、様々な曲線が描かれていた。

「日本国」

 千歳が地図の右端にある小さな弓形の島国を指した。知っていたのではない。目立つように、日の丸が書き加えられていたのだ。

「こんなところにあるのか……」

「そう。日出る処。朝日の国、日本」

「じゃあ、ここが朝鮮で、ここは清国。英国は?」

「ここ」

 啓之助は伸び上がり、地図の中央上部にある島国を指した。日本よりも小さいと、千歳は二国を見比べる。

「本国はね。でも、ここもここも、英国領さ」

 啓之助は、インドや南洋諸島、オーストラリアなど、地図のあちこちを示していく。

「米国は?」

「これ」

 千歳は、啓之助に指し示された米国まで、地図上に指を滑らせて、日本からインド洋を経由する航路を辿る。

「……ペルリはだいぶ遠くから来たな」

「そうだね。でも、先生たちは太平洋を渡っている。さ、洋学を見に行こう!」

 啓之助が勇んで塾の引き戸を開けた。


「おお、啓之助くんだね。おや、ご友人も。入った、入った」

 塾生に促されて入った十六畳敷きの室内には、壁一面に本棚が立てられ、重厚な革表紙の洋書が並んでいた。卓上には洋燈ランプがあり、土間にはガラスの機材が置かれた棚と、その前には小型のカノン砲が据えられている。

 千歳は目を輝かせて、帳面と矢立を取り出した。矢立は、大火の混乱で失くしたことを謝ったら、敬助が再びくれたのだ。

 招き入れてくれた塾生に、並べられた本の中身を尋ねる。英語や蘭語の辞書。航海図の束、航海法──。

「後悔?」

 千歳が字に迷うと、塾生は掌に宙書きして見せた。書き付けていると、

「あー! これ、電信機じゃないですかー」

と嬉しそうに、啓之助が声を挙げた。見れば、啓之助が手を着く卓上には、硯箱に入る大きさの器械がふたつ向き合い、黒い線で繋がれていた。

「デンシンキって?」

 千歳の問いに、後ろから大きな声が響く。

「離れていても、会話ができる機械じゃ、坊ちゃん!」

 驚いて振り返ると、声の主は千歳より一尺近く高い身の丈をした大男だった。その言葉は、馬越や原田と通じるので、四国の者とわかる。男は千歳の手から矢立を取ると、「電信機 デンシンキ」と書き付ける。

「訓練用じゃきに、この距離にあるが、電線さえ延ばせば、ここから京都でだって使えるがじゃ」

「会話できるって、どういうことですか?」

「文字を送れるがじゃ」

 千歳は理解ができず、怪訝な顔を啓之助に向け、解説を求める。

「これはね、『あ』って打つと、電気が流れて、あっちに伝わって──」

「電気って、なあに?」

「電気! 冬の日に、バチッてなるでしょ? あれ。あれを起こして──使っても良いですか? 見せた方が早い」

「おお、坊ちゃんは電信機打てるがやねぇ。ほじゃ、ワシが受けるぜよ!」

 癖っ毛の目立つ大男が机の向かい側へと腰掛け、啓之助も対面して座る。千歳は啓之助の背後に立って、手元をのぞき込んだ。

 硯大の台木からは、二十度ほどの角度で三寸少しの腕が伸びる。腕の上部には黒いツマミがあって、啓之助がそこへと手を掛けた。

「この腕の先を押しているとき、電線を通って向こうの器械に電気が流れるんだ」

 啓之助がトントンと打鍵すると、向かいの糸車のような器械も合わせて動いた。調べ糸の代わりに、半寸幅の紙が巻かれている。長い巻き紙は、中央の何やら複雑そうなカラクリを通り抜けて、四国言葉の男の手へと回収されていった。

「ほれ、ここにチョンチョンが印刷されちょるじゃろ? このチョンチョンは、坊ちゃんが押したとおりに書かれるがじゃ」

「うーん……ふうん?」

 千歳は示された紙を、目を凝らして見たが、理解に及ばないうなり声を挙げることしかできない。啓之助はかまわずに実演する。

「『イ』は『・・』、『ロ』は『・ー・、ーーー』って、一音ごとにトンとツーの組み合わせが当てはめられているんだ。俺が『・・』と打てば、あちらにも『・・』と刻印される。まあ、見てて。コレを送るよ」

 掌に『カウベ』と宙書きすると、啓之助は素早く打鍵を繰り返した。

「ほう……『カウベ』じゃきに、神戸じゃの」

「ね?」

 おもしろいでしょうとの表情で啓之助が千歳を見上げる。千歳は何度もうなずいて、

「すごいよ! 本当に伝わってる」

と手を叩いた。新鮮な反応に、周りから笑い声が立った。啓之助はうなずき返して、前に向き直る。

「じゃあ、今から君の名前を打つよ。教えて差し上げよう」

 繰り返されるトンとツーに、周りの塾生たちも宙を見上げながら指先を動かす。啓之助の手が止まると、男は紙を切り取り、大袈裟にうなりながら、千歳と紙を見比べた。千歳は緊張して様子を見守る。

「ほんほん、はぁ。ようし、わかったぜよ。よう来たのぅ、『サカイ センノスケ』くん!」

「ええー! すごい! 僕、酒井仙之介っていいます! ありがとうございます!」

 千歳は甲高い声を挙げて、周りを見渡しながら繰り返し頭を下げた。ただの断続的な音が、どうして文字になるのか、不思議で仕方がない。

「どうなってんだろうねぇ、これ。不思議だよ、不思議! あれはどうやって、刻印しているの?」

「受けてみる? せっかくだから、この方のお名前も教えていただこっか。──お願いします」

 啓之助は立ち上がると、受信機の前へと千歳を座らせた。打鍵音と共に送り出される紙には、やはり『・』と『ー』しか書かれていない。啓之助は千歳の手元を覗き、少し考えてから手を叩いた。

「──良し、わかったよ。この方はね、『サカモト リョウマ』さん!」

 坂本龍馬は無精髭の生えた頬を子どものように丸くして、千歳たちに笑いかけていた。

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