十三、大砲

 啓之助が新撰組屯所で寝起きをするようになって五日。寝起きの悪さは、治らなかった。

 部屋替えにより玄関正面に移った局長部屋まで出向き啓之助を起こすことが、千歳の毎朝の仕事に加わった。しかも、優しく声掛けをしなければ、朝食後の掃除まで不機嫌を引きずるために、気を遣うこと、この上ない。

 近藤も、近頃は接待が続き、胃炎が治らないまま酒を飲むので、二日酔いで起きられないことが多い。そんな近藤に対して、啓之助は五苓散を行李から出して渡し、二日酔いの辛さを語って、近藤を労っていた。このふたりは気が合うらしい。

 掃除の担当範囲は、部屋替えによって、局長部屋と副長部屋、勘定部屋の合わせて五部屋分に広がった。啓之助が来たので、一人当たりの仕事量はそれほど増えないはずだが、なぜか前より気疲れする。それは、啓之助が千歳の指示がなければ仕事をせず、掃除中もフラッとどこかへ消えるので、どこまで掃除されたかわからない千歳が一からやり直すなど、ふたりで仕事をする利点が全くないからだ。

 啓之助の気が入らないのは、仕事だけではないらしく、稽古の方もだった。総司の評は最低で、

「お仙くん。あいつ、ホントに仇討ちする気あるのか⁉︎」

となぜか、千歳との稽古のときに、千歳が叱られるのだ。


 その日の午後は、台風に備えて溝さらいをすると告げておいたはずなのに、正門前に現れた啓之助は、綾織りを藍の繧繝に染めた絹の小袖に、濃紺の袴を着けていた。稽古着は、午前中の稽古で泥にはまって、洗っているという。

「でも、そんな良い着物を野良着にしちゃいけないよ」

 千歳は啓之助を副長部屋に連れて行き、白茶の船底袖の着物を差し出した。啓之助が着替える。小袖の手触りは、綾女が着ていた四つ身に匹敵する柔らかさだった。

「三浦くん、いつも良い着物着てる。好きなの?」

「うん。俺もだけど、母さんが衣装好きでね。ずっと離れて暮らしてるから、せめて服だけはって、季節ごとに送ってくれるんだ」

「それが、江戸の……?」

「そうそう。あーあ、会いたいなー」

 その声音に哀愁はなく、いつもと変わらない響きだった。

「……お母さまのこと、好きなんだね」

「好きじゃない人なんているかなぁ。君は母さんに会いたくないの?」

 啓之助の大きな目が千歳を見つめ、不思議そうにまばたきした。千歳の目が、一瞬で涙に濡れた。

 会いたい。会いたいに決まっている。会えるなら、志都がどこにいたとしても、会いに行くだろう。

 千歳が言葉に詰まり、目を伏せ震え出したのを見て、啓之助は千歳の頭を撫でた。

「ごめん、しんみりさせる話だとは思わなかった」

 憐憫に満ちた口調だ。こういうときに優しくされると、耐えられる涙もあふれてしまう。

「そんなんじゃないもん……」

 千歳は両手で顔を覆って、涙を隠した。

 そこに敬助が戻って来て、状況を知られる。

「……三浦くん、泣かせたね?」

「え、いや。事故というか。ごめんったら!」

 思わず咎め立てられ、啓之助は部屋を出て行ってしまった。敬助が千歳に寄って、どうかしたのかと聞くが、千歳は首を振って答えない。

「何か嫌なこと言われたのかい?」

 千歳はさらに強く首を振る。敬助はお菓子をたべようかと言って、千歳を座らせた。

 千歳は煎餅を食べながら、心の中で啓之助に深く詫びた。啓之助にしてみれば、藪から棒のとばっちりもいいところだ。

 しかし、その後、溝さらいの段になっても啓之助は帰って来ない。炎天下、千歳ひとりで作業することになったので、結局、終わるころには啓之助への不満の方が勝っていた。

 夕方、啓之助が副長部屋をのぞいた。匂いで遊里と知れる。顔が赤いのは、酒も飲んでいるのだろう。

「どこ行ってたのさ、仕事中に何してるんだよ、全く!」

 なるべく怒りたくはないが、この怒りは正当なものだと思う。啓之助は相変わらず悪びれた様子はなく、

「ごめん、ごめん。はい、どうぞ」

と言って、抹茶色の袱紗を差し出す。

「……何?」

「お饅頭。お詫び」

 どこか不機嫌そうな顔も、鼻先から見下ろすような目付きも、啓之助の機嫌の現れとは限らないと千歳は知った。啓之助は間違いなく、千歳に悪いと思っていることが伝わってきている。

 千歳は袱紗を受け取り、一言だけ詫びた。啓之助もうなずくと、伸びをして背を向ける。

「さ、ご飯、ご飯」

 言うことが済めば、その声は明るい。掴めそうで掴めない啓之助だが、愛嬌のある人との見立ては当たっているだろうと千歳は思った。饅頭は三つ入っていたので、食後にひとつ、啓之助に渡し、一緒に食べた。


 翌日、局長執務室である北の広間では、三長に武田が加わった会議が行われ、大砲の導入が決定された。

 その会議後、部屋を片付けるのは千歳と啓之助の仕事だった。千歳は盆に茶器を回収する。啓之助は広げられた大砲の調練絵図を片付けるはずが、目を輝かせて見入っていた。

「良いですねぇ、良いですねぇ、大筒! 武田先生ですか?」

 啓之助の眼差しを受け、武田は誇らし気に語る。

「うちでも大筒くらい、装備しておくべきだと申し上げましてね。大筒は戦を左右しますから。勘定方と相談して、なんとか運用していく目処が立ったんです」

「武田さんは長沼流兵学を修めているから、砲術にも明るいんだよ」

 近藤もにこやかに語った。以前から火器の導入を考えており、池田屋と今回の戦乱の褒賞金を当てられることになったという。

「そうなんですかぁ! ああ……ふうん」

 啓之助が嬉しそうに絵図を眺め、重しにしていた文鎮を砲に見立てて、何やらつぶやいている。

「三浦くんは、砲術とか好きなの?」

 千歳が尋ねると、啓之助は今までにないくらい良い笑顔を見せて振り返った。

「そう! 砲術は算術だから。砲径、角度、火薬の量、ちゃんと計算すれば、違わず狙った場所に落ちてくれるんだよ!」

「ふうん?」

「投げられた物はさ、抛物線ほうぶつせんを描く」

「わっ、ちょっと!」

 啓之助が千歳に文鎮を放った。緩やかな弧を描いて、文鎮は千歳の手の内に収まる。

「ね?」

「え……何が、ね?」

「パラボラって言うんだけど」

「パラ、パラ?」

 千歳が武田を見上げるも、抛物線とは翻訳語なので、戦国以来の砲術を修めた武田にもわからない言葉だ。

 啓之助は、困惑もかまわずに続ける。

「パラボラは度学どがくの言葉で──」

「度学ってなあに?」

「……測量?」

「測量……と、砲術……?」

 千歳の疑問を他所に、啓之助は大砲の発射が、目的地の半分の距離で弾が最も高くなるように、射角と火薬の量を調整するのだと説明した。

「計算は嘘をつかないよ、風にはやられるけど」

 そう言って千歳の手から文鎮を回収して、絵図を箱に収める啓之助を見て、近藤が武田に小声で、

「なんとなく、三浦くんが総司の稽古に馴染まない理由がわかった気がしないかい?」

と言うと、武田も大いに賛同を見せてうなずいた。啓之助は、あははと笑っている。

 総司と啓之助の相性の悪さが、千歳との稽古にも影響しているので、千歳は一言、

「笑うところじゃないからね?」

と釘を刺した。


 それから、しばらく。衣更えや葦戸の交換が行われた後の、八月八日。

 千歳と啓之助が局長部屋に掃除に入ると、近藤が啓之助を呼びかけ、

「勝先生に会いに行かないかい?」

と言った。

 勝麟太郎。勝海舟として知られるが、この男は長崎海軍伝習所に学び、四年前に咸臨丸に乗って渡米、その経験を買われ、今は軍艦奉行を務めている。

 彼は、啓之助の義理の伯父になる。勝の方が、象山より一回り年下で弟子でもあるが、象山は勝の妹を正室に迎えているため、勝は象山の義兄にあたるのだ。

 近藤は、新撰組で砲術を行うため、大砲を購入したい旨を山本覚馬に伝えたところ、山本が勝に繋ぎ、勝が手頃な物を見繕ったと話す。

「それを、武田さんと一緒に検分に行くんだが」

「連れて行ってくださるんですか?」

「うん、勝先生にも君のことをお話しておきたいからね」

「はい!」

 啓之助が嬉しそうに返事をして、千歳はハタキを握りながら、良いなぁとこぼす。

「神戸でしょう? 海軍操練所には黒船があるんでしょう?」

 勝が五月より神戸で始めた海軍塾の話は、千歳も聞いていた。水は苦手だが舟は好きな千歳は、一度、黒船を見てみたいと思っていたのだ。

「じゃあ、酒井くんも一緒に来るかい?」

「うーん、行きたいですけど、お仕事ありますから……」

「二日くらい平気だよ。君はいつもよく働いてくれているから、たまの息抜きと思って」

 近藤の申し出はありがたいが、歳三が許すとは思えない。予想どおり、夕食の片付けに上がると、歳三が座るように言い付けた。

「お前、何の話かわかるね?」

 千歳は黙ってうなずいた。行けないことは、わかっている。

「三浦くんと仲良いのは結構だが、隊に置いてやるってのは、あの子と同じように行動して良いってことじゃない。神戸に行けば、泊まりになるだろ? そのことを考えずに行きたいと言ったのか?」

「……違います」

「なんだって?」

 縮こまった千歳の小声は、聞き取れない。敬助が間に入る。

「仙之介くん、神戸に行きたかったのかい?」

「もういいんです。行きたかったわけじゃないですから……」

 千歳は表情もなく答えた。行きたかったのではなく、行ってみたいと思っただけだ。絶対に行きたいなど思っていない。

 敬助は千歳の横に座って、背中に手を当てた。緊張を解すように、トントンと叩く。

「行きたいなぁって思ったんだよね?」

 千歳はややあってから、小さくうなずいた。敬助が理由を問うと、またしばらくの間を置いて口を開く。

「……船が見たくて。攘夷は……僕の中で、言葉でしかなくて……」

 千歳はそこで言い澱み、敬助を見た。敬助は千歳の目を見て、ゆっくりとうなずく。千歳は泣きそうになるのを堪え、息を吸って言葉を整理する。

「黒船が来て、日本国は開国しました。攘夷とは夷狄を討ち払うこと……だけど、討ち払うには大砲が必要で……」

 落ち着け、と千歳は自分に言い聞かせる。よく考えろと言った新堀の言葉を思い出す。

「戦うには、相手を知らなくてはいけません。黒船が……どんな大砲を持っているのか、薪で動くって聞きますけど、補給なしで、どれくらい動き続けられるのか、とか……だから……」

 見に行けばわかるのか? わかったら、攘夷が叶うのか? そも、お前には関わりのないことだろうと言う声が、頭の中に生じた。千歳はそれ以上、続けられなかった。

 それでも、千歳の考えは敬助に届いた。千歳が自分の言葉で考えを示したことは大きな成長と感心する。人を説得させるには、あまりにも弱いが、敬助には十分だった。

「歳三くん、僕は行かせてあげたいな」

 そう言われると歳三も返答に窮する。


『あの子が、自分の言葉で気持ちを話せるようになったら──それは聞き入れてあげてほしい』


 去年の暮れ、千歳が副長部屋に来るより前の晩、歳三は敬助の言葉を背中で聞いていた。

 壬生に来たばかりの千歳は、歳三が志都に線香を上げることを拒み、しかし、言葉に表せず、泣いて逃げ出した。

 それが今は、どうしたいと言い、形にはなっていないが、理由らしきものも述べるようになった。

 剣術の稽古に同じく、良い形ができたら、それを認めてやり、繰り返させることで、形は定着する。自分の意志を語り始めた千歳に歳三が求められる態度はひとつ。

「……わかったよ、行ってこい」

 千歳が驚きと喜びが交じる顔を上げた。歳三は、千歳を行かせることは判断として間違っているとは思う。

 けれども、奉公と大火を経た千歳が変わったことは確かだった。洋学を知りたいと言ったころの、興味からだけの訴えではない。今も、先日の北野でも、自分に関わる問題として世情を知りたいと訴えた。

 女に必要ないことであっても、千歳が必要とするのなら、敬助の言うとおり、認めてやるべきだと思わないわけでもなかった。

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