十一、仲直り

 坊城通に飛び降りた啓之助は、夕方になっても帰って来ない。草履は履いていたが、大刀も差さずにどこに行っているのだろうか。

 千歳が敬助にこぼす愚痴の内容を聞くに、先ほどの屋根登り事件は一定の同情に値すると、歳三は胸中で認めた。

「雑巾すら、絞れないなんて! ホント、お坊ちゃんって嫌」

 敬助がゆったりとうなずきながら聞いてくれるので、千歳の口は止まらない。

「坊ちゃんも、いとさんも、どうして、あんなわがままに育つんだか、わかりましたよ。労働にどれだけ手間暇かかってるのか知らないんです」

 思い返せば、明練堂の女将も、市川では名の知れた地主の一女で、上三人が男の子だったため、蝶よ花よと育てられたお嬢さまだった。最後、生活が困窮して下女の清に暇を出してからも、家事の全ては千歳が行っていた。

「私だって、家事する暇あるなら、勉強に当てたかったですよ。剣術だってやりたかったし。あの坊ちゃんが十何年間、何してたかは知りませんけど、私はそのあいだ──」

「うんうん、頑張ってたんだよね」

 敬助が千歳の頭を撫でた。千歳の勢いが削がれて、黙ってうなずく。そのまま、千歳が敬助の手の下で静かになったことに、歳三は驚いた。感情的になった千歳を抑えることは無理だと思っていたのだ。

 千歳は敬助の対応によって、今の自分が興奮していたと気付かされた。新堀の考えろとの言葉を思い出す。

(どうして、自分は怒っているのか……)

 千歳が新撰組にいたかった理由は、掃除洗濯さえしていれば、自分の時間が確保されるからだ。明練堂や宮本屋では、それがなかった。やっと、そんな新撰組に戻って来れたのに──

「三浦くんは、出て行きたいなんて言うんです……」

「隊を?」

「はい」

 千歳は、啓之助が屋根の上で語ったことを敬助に話し、取り潰しにあって、何故、名字まで奪われるのか尋ねた。

「仇討ちだからね。佐久間象山の息子が新撰組に入ったなんて、名前でわかってしまったら、相手に警戒されてしまう。三浦は佐久間の氏だよ。啓之助は象山先生のご幼名らしい」

「……江戸に帰りたいっていうのは? 松代出身ですよね、象山先生、信濃の」

「うん。でも、産みのお母さまは江戸の出だって。三浦くんが幼いころに、お里に戻されたけど、彼、上京する前の一年はお母さまの許にいたと言っていたよ」

 千歳が哀れむような、悔しがるような顔で、何か言いた気に口を開け、少し迷ってから、うーんとうなった。

「なんだい?」

「……同情はしますけど、いきなり怒ってきた時点で相殺ですね。母さま恋しさを人に打つけるな、馬鹿!」

「おやおや、手厳しい」

 敬助は笑った。千歳の言い方は、ひとまずの納得を見せたものだった。六兵衛の手伝いをしてくると言って立ち上がった千歳は、頬を膨らませたまま部屋を出て行った。


 日暮れには、啓之助も帰って来た。甘い香りがするのは、嶋原にでも行っていたのだろう。

 おかえりと呼びかけた敬助は、部屋割り案を清書するように啓之助に依頼し、文机を空けた。

「仙之介くんと喧嘩したの?」

「すみません。違うんです、俺……俺が勝手に、カッとなっただけです」

 書き写される文字は、重みのある顔真卿の特徴を表している。よく練習された筆跡だった。

 敬助は、千歳が台所にいることを伝え、謝りに行くかと尋ねるが、啓之助も直接謝りに行く心の準備はまだできていないらしく、黙ってしまう。

「慣れないことばかりで大変だろう。まあ、少しずつ、だ」

「すみません……」

「三浦くん、好きなことはなんだい?」

「好きなこと?」

「剣術は好きかい?」

「うーん、そっちはあんまり。学問の方が好きです。政策とか経済とか。あと、舎密学せいみがくみたいな実験と……船を見に行くことは好きでした」

 挙げていく啓之助の顔は、明るさを取り戻していったが、敬助が、たくさんあるのだなと褒めると、

「別に、好きってだけで、できるわけじゃないです。本当にすごい人、塾生にはいっぱいいました」

と言って、また萎んでしまった。

「好きなことを聞かれて、それだけたくさん挙げられること自体に感心しているんだよ」

「そんなもんですか?」

「うん。仙之介くんも学問は好きだよ。何が好きか聞いてごらん?」

 敬助は仲直りのきっかけが、学問にあるだろうと見定めた。

 清書を終えた啓之助は、土間にしゃがんで桶の中の豆腐を切り分ける千歳の許へ行き、

「……ごめんよ、さっきは」

と謝った。千歳も、気にしていないと返す。目線は手元に落としたままなところは、まだ幼い。

 啓之助は座敷から千歳の様子を見下ろす。

「何?」

「す、好きな学問はなんですか?」

 唐突な質問に千歳は言い淀むが、「国学?」と首を傾げて答えた。啓之助はその答えに、

「……ごめん、俺、そっちは苦手だった。うん、わかった。ありがとう」

と忙しなく手を振って立ち上がり、部屋に戻って行った。

「なんで、勝手にがっかりされなきゃならないんだよ、もう!」

 千歳の叫びは届いていない。夕食を出す間も、千歳は必要以上に啓之助に指示を出さず、手早く支度を終わらせて、広間へ下がってしまった。

 他人にあまり興味がない啓之助も、千歳の不機嫌が自分の行いにあることくらい自覚している。何か楽しませてみたら良いのではと考えて、近藤から紙を、六兵衛から鋏と糊を借りる。

 夕食の片付けが終わった土間にて、啓之助はあるものを作っていた。蚊帳を吊るすと呼びに来た千歳が見せられた物は、細長い紙の両辺が糊で合わせられた輪っかだった。

「なあに?」

「不思議な輪」

「どこが?」

「見てて」

 変哲もない紙の工作物だと千歳は首を傾げる。啓之助は輪っかの縦半分の位置に鋏を入れた。

「この真ん中を切り進める。すると、この輪っかはどうなる?」

「──? 二個に分かれる」

「そうだろうか」

「どうしてさ」

「ほら」

 輪っかを切り終えた啓之助の手の上には、大きなひとつの輪っかが出来上がっていた。千歳が驚きの声を挙げる。

 もう一度と言って、啓之助は新しい輪っかを切ってみせるが、こちらも、切る前の大きさとは倍の輪っかがひとつ生まれた。

「……嘘だぁ」

「次は輪違いを作るよ」

 目を丸くする千歳の手に切り終えた大きな輪っかを乗せ、啓之助は別の輪を手に取る。よく見ると、紙は捻られて輪になっている。

 宣言通り、切り終えた輪っかは、お互いに抱き合うふたつの輪になった。

「……これ、どうして?」

「算術を知らないと説明は難しいんだけど、紙を捻った輪っかを切り分けると、その捻った回数に応じて、違う形の輪っかができる。英国の算学者が考えたんだ」

 象山の持っていた洋書にあった奇術の一種だ。千歳は手にした輪っかを引っ張ったり、捻ったりしながら、構造を考えた末に、これは不思議だと「不思議な輪」の存在を認めた。

「これ、あげるよ。さっきは悪かった」

「……ありがとう」

 千歳は啓之助がわざわざ謝るために手の込んだ場を設けたことに驚き、啓之助の為人の一端を理解したような気がした。


 部屋に戻り、布団を敷いて、蚊帳を吊るす。歳三は文机で書類を書き写していた。千歳は敬助の机を借りて、「不思議な輪」を試作する。風呂から戻ってきた敬助に捻った紙を持たせて糊の代わりをさせた。

「──たぶん、こうだと思うんです。捻った輪っかを縦に切っていくと……あ! ほら、大きな輪っかになる!」

「へぇー、おもしろいねぇ! 歳三くん、見てた? すごいよ」

 千歳の再現により、敬助の手には大きな輪が出来ていた。千歳は、敬助に促され、もう一度行う。

「切ると……大きくなるんです」

「……たしかに、不思議だな」

 歳三も興味深く敬助の手元を見る。千歳が啓之助から教わったと話すと、敬助は満足そうに微笑んだ。千歳は顔を赤くして、

「ちゃ、ちゃんと仲良くしますから!」

と宣言とも、弁明とも取れることを口にした。

「そうか。これから楽しみだね。三浦くん、きっと色々知っているよ」

 敬助は啓之助の荷解きを手伝ったさい、硯箱の隙間に詰められた紙が遠眼鏡の製作図であることに気付き、啓之助に尋ねた。すると、啓之助は自分が描いたと言い、仕組みなどを説明してみせた。その顔が、千歳が学問に取り組むときの顔と重なったのだ。

 きっと、仲良くなれると思っている。

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