十、眺望

 庭の北にある井戸で盥に水を汲み、洗濯をしながら啓之助を待ったが、取り込んだらすぐに戻って来るよう言ったはずの啓之助がなかなか現れない。副長部屋で休んでいるのかと、土間を抜け、廊下を進む。

「三浦くん。おーい、三浦くん」

 襖が開け放たれた副長部屋から北の広間に、夏の南風が抜ける。局長部屋の真ん中には、取り込まれた洗濯物の山だけが見えた。

「……いない、なぜ」

 厠かと思い、廊下を引き返すと、総司や武田たちの部屋の縁側から伸びる厠の棟に、竹を組んだ梯子が立て掛けられていることに気付く。もしやと、庭に降りて梯子を登ると、南北に下りる屋根の棟にまたがり、洛中を遠眼鏡で見遣る啓之助の姿があった。

「何してるの?」

 咎めるつもりはなく、千歳も屋根に上った。瓦は日に焼けて、熱い。遮られることのない風が、前髪を吹き上げた。

「おい、三浦くん」

 隣に座ると、啓之助は遠眼鏡を支えたまま、身体を退かして、

「俺のいた家」

と示した。のぞいて見ると、黒々と焼けた洛中の中に、一列だけ残った三条木屋町の屋敷があった。

「右から四番目」

「先生と住んでた?」

「うん」

「残ったんだ、良かったね」

「うん」

 啓之助は遠眼鏡を膝に抱いて、風に吹かれる。

 ふたりは、黒焦げた京都盆地の底を静かに眺めた。綾女たちは、無事にしているだろうか。新堀はまだ、あの河原にいるのだろうか。

 啓之助を見ると、ツンとした唇は不機嫌そうに締められていた。

「仇討ちかぁ」

 ため息混じりに啓之助がつぶやいた。諦念が強くにじむ声だった。

「三浦くん、頑張ってよ。みんな、応援してるんだから。きっと、大丈夫」

 強くうなずいた千歳を、啓之助は鋭く睨みつけた。くっきりとした二重に、太い眉毛の陰が落ちる。

「……三浦くん?」

「俺、三浦じゃない!」

 啓之助が顔を背けた。変声したばかりの掠れた声が響く。

「佐久間象山の息子だぞ。佐久間に決まってるじゃないか!」

 千歳は、啓之助の変わり様に肩を縮こまらせ、後退った。啓之助の不満は、堰を切ったように止まらない。

「──なんだって、みんな口揃えておんなじことばっか言うんだ! 勝手なことばっか! 仇討ちなんか、したい奴がすればいいだろ!? 俺だって、さっさと帰りたいんだ、江戸に!」

 そう言って啓之助は勢いよく立ち上がる。

「とっとと、出て行きたい! こんなとこ!」

 啓之助は千歳を振り返りもせず、屋根の端まで棟の上を大股に歩き、坊城通へ飛び降りた。呆気に取られた千歳は屋根にひとり取り残される。

「な、な……なんなんだ、あいつは……!」

 予想したとおり、付き合いにくい人間だとわかるが、こんな予想が当たったところで、誇らしくもない。千歳は口の中で文句を繰り返しながら、梯子を降りようと屋根の南へ向かった。しかし、登って来たはずの梯子は、そこになかった。

「ええ、なんで⁉︎」

 その叫びを受け止めるべき武田は、邪魔な梯子・・・・・を蔵に片付けに入っており、お互いに事情を知る由もない。千歳は地上を見下ろして、目がくらんだ。水も苦手だが、高いところも苦手だった。

 啓之助が飛び降りれたくらいならばと西へ移って見下ろすも、やはり高さは二間ほどあって、飛び降りるにはためらわれた。雅を呼ぼうかと思い至る。大声で呼べば、来てくれるだろうが、それはあまりに恥ずかしいし、情けない。

 首筋は日差しに焼かれてひりつき、掌も足裏も瓦の熱を受けて痛い。千歳は、入母屋造りの西の破風に背をもたせて、眼下の通りを見下ろした。一刻も早く、ここから降りたかったが、足はすくむばかりだった。


 稽古を終え、道場から出て来た歳三の目に、前川邸の母屋の屋根の上で、膝を抱えて鎮座する千歳の姿が映った。

「……何やってんだ、お前」

「や、えっと……み、三浦くんが!」

「いいから、さっさと降りなさい。屋根壊したら、雨漏りするだろうが」

 歳三はため息をついて坊城通へ出た。

 一月半前に四条大橋で見た娘は、やはり幻だったようだ。どうして、十四の娘が屋根に登るのだろう。

 昨日、千歳が戻って来たと聞かされたときは驚いたが、その姿が完全に「仙之介」へと戻っていたことは、さらに驚いた。

 それは、良いとして。歳三は、陣中にあって洛中が燃えているとの報を耳にしたとき、真っ先にとはいわないが、千歳の無事を心中で祈り、心配していた。再会に際しては、お互いの無事を喜び合うくらいはするかと思いきや、千歳は歳三に言葉を発させない勢いで、開口一番に詫びを入れた。顔の強張りが、追い出されると怯えてのことだろうとは、想像にたやすい。頼る先もない少女を、焼け跡に追い返す鬼がどこにいるというのか。

 歳三は自分が千歳からの信用をまるで得られていない事実に直面し、認めたくはないが、それを気にしている自分がいることを自覚した。あの顔の娘に拒絶されたくない心とは、一月半前に四条大橋の上で別れたはずなのに。

 千歳を見上げると、身を乗り出して道を見定めては、上を向いて目を固く閉じることを繰り返している。

「……お前、怖いのか?」

「ち、違います!」

「わかったから、ほら」

 歳三は両腕を伸ばして、屋根の下に寄った。千歳は大丈夫だと繰り返して、飛び降りようとはしない。

「早く、降りろったら」

「降りますから、退いてください!」

「あ、それ以上、下りるな!」

 千歳が軒先に足をかけようとしたところを、歳三は止めた。軒は柱に支えられていない分、負荷に弱い。千歳は慌てて足を引っ込めて、歳三に背を向けた。助けを借りるつもりは、毛頭ないことが伝わってくる。

 猫だって登る木を選ぶぞと呆れた歳三は、

「あそこを伝って降りたら、良いんじゃないですかね?」

と言って、母屋の北庭に沿う白壁の塀を指した。既に涙目の千歳は、素直に白壁の方へ向かう。屋根にしがみ着いて、足先で庭壁の棟を探り、半間ほど下にある壁の上に降りた。壁から道までは一間と少しだ。

 千歳は、手を貸そうと待つ歳三をチラリと見てから、意を決して庭側に飛び降りた。

 着地は崩れたが、すぐに立ち上がり、駆け出す足音が塀越しに聞こえた。歳三は、相変わらず逃げ足の早い千歳の肩に揺れる赤毛の房を想像して、ため息をつく。全くもってかわい気がない。


 歳三が裏門を抜けて、部屋へ戻ると、敬助も戻って書き物をしていた。親指が動かない敬助は人差し指からの三指で筆を挟んでいる。

「南部邸、何人入りそうだったね?」

「離れも入れて、十二人だね」

「うん、十分だ」

 南部邸とは、八木邸の南に隣接する屋敷で、以前はこちらも分宿に使っていたが、屋敷には家族と使用人合わせて十一人が住んでいるので、隊士が減った今は、数人が下宿するのみだ。ここに、追加で十人ほどの隊士の分宿を願うことにした。

 前川邸母屋には、局長部屋、副長部屋のみを残し、新たに勘定部屋を設けて、本部棟とすることにしたのだ。これで、副長部屋も執務室と居室とに分けられ、毎月末の給与会計に合わせて三日ほど身動きが取れない状況からも開放される。

 保管資料は日々増えるし、千歳も戻ってきた。蚊帳の外に寝かせるのはかわいそうとのことで、昨夜は布団二枚に三人が横並びに寝ることになった。八畳間なので、布団は三枚敷けるはずだが、部屋の隅に置かれる長持や行李と衣桁に阻まれていた。

 部屋を分ければ、敬助が体調の優れないとき、歳三に気兼ねせず休めるだろうとも思っていた。

 こうして、部屋替えが決まった。

 歳三は新しく副長部屋居室になる、現局長部屋を見た。取り込まれた洗濯物が小山になっている。

「……山南さん、さっき、あいつ屋根登ってたんだぜ?」

「あー、だから、あそこから落ちて来たのか」

 敬助が北の庭を振り返った。歳三は、やる事をやってから遊びに行けと小言を言いながら、洗濯物を畳む。出陣中に身につけていた単の衣や足袋などだった。

 その後、千歳が戻ってきて、洗濯物がなくなっているのを見ると、

「先生、すみません、ありがとうございます」

と甘えたような声で敬助へと笑い、やったのは歳三だと敬助に教えられると、顔を青くして謝るのだから、歳三はやはり千歳の態度に納得がいかないのだった。

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