七、交わり

 千歳は目の前にいるはずのない男の姿に目を見開いた。帯刀はしていないし、まとう衣はボロだったが、確かにその男は新堀だ。

「なんで、だって──!」

 千歳は堤防の上を見上げる。辛うじて火の手を逃れた三条木屋町の町並みの向こうには、焼け落ちた長州藩邸がある。

 新堀が長州藩士との見立ては誤っていたのか? しかし、それなら、こうして町人体に身をやつす必要もないと千歳は思い至る。

(やっぱり、長州者だったんだ、新堀松輔。残党狩りから隠れて、ここにいる……)

 新堀も、千歳に自身の出身を見破られたことには気付いたようで、決まり悪そうに顔を背けた。

 しばらくの沈黙があった。千歳は風呂敷から、茶碗と湯呑みを出し、川から水を汲んで、新堀に差し出した。新堀は少しためらいを見せたが受け取った。

 千歳は、この男に聞きたいことがあるのだ。水を飲み、喉を潤してから、帳面を開いて新堀に見せた。七月以降、長州を巡る動きが書かれた頁だ。

「ようまとめられちょるね」

「……心配でしたから。長州勢が、無事に撤兵してくれるか」

 千歳は京言葉を使わずに、小声で話した。

「それで、十八日。一橋公が追討に踏み切ったと知って、これで、不安はなくなると思ったんです。それが、どうしてか、今……」

 日差しが焼け焦げた臭いを舞い立たせていた。三条河原には、水を求める人々が集まり続ける。ある老婆の汗と煤とに汚れた着物も、元の地には絹糸にて秋草の刺繍がなされたものだった。

「……誰が、悪かったんでしょうか?」

 入京禁止を反故にした長州か。池田屋事件を引き起こした新撰組に責があったとは思いたくない。しかし、昨日見たとおり、諸藩連合の側が鎮火をせず、さらに火を放って掃討を行なったことは確かだ。

 新堀は痛ましい声で、長州が軽薄だったと言い、しかし、悔しさを滲ませて反論をみせた。

「じゃが、誰かだけが悪うて、あとの者は正義なんちゅうことぁないんじゃ。……窮鼠は猫を噛む。皆が鼠になって、猫の力を借りずとも話し合える世でなければ、戦争は繰り返されてしまう」

「猫とは、なんですか?」

「帝じゃ」

「……守護職さまは帝の威を借りていると?」

 千歳の厳しい口調とは反対に、新堀の声は落ち着きを取り戻していた。

「そうじゃない。帝のお言葉ひとつで朝敵になってしまうし、ご叡慮となれば、必要以上に制裁が加えられてしまう」

 朝敵と追い詰められた長州が、その冤罪を晴らそうといきり立ち、挙兵に至った。きっかけは鼠たる長州だが、噛まれるほど追い詰めた会津以下の諸藩も正義ではないのだ。

 新堀は手の中の湯呑みを握り締める。ふたりの間に、また沈黙が流れた。

 橋の南から、九歳くらいの少女が弟の手を引いて、父ちゃん、母ちゃんと呼びながら歩いて来た。新堀がそれを見ながら千歳に尋ねる。

「お仙ちゃん。君、なんでひとりじゃ」

「火から逃げる間に、逸れてしまったんです。お店も焼けて……だから、帰れないんです」

 千歳も親を呼ぶ姉弟に目を遣った。弟はベソをかいているが、姉は凛々しく眉を寄せて声を挙げている。

「逸れモンは……辛いのぅ」

 新堀の表情は見えないが、千歳はこの男が泣きそうになるのを抑えていることを感じ取れた。

 懐から飴の袋を出し、中を見る。ちょうどふたつ残っていた。膝立ちになり、姉弟を手招きする。

「知り合いかね?」

「いいえ、知りません」

 怪訝な顔をしたのは新堀だけではなかったが、姉弟は人をかき分けて千歳に寄って来た。

 千歳は飴を手に乗せて、ふたりに差し出す。

「食べはりや」

 サッと伸ばされた弟の手を、姉が叩いた。千歳は悪いことをしたかと驚いて、差し出した手を引いたが、少女は深く頭を下げ、

「おおきに、ありがとさんです」

と礼を言った。そして、飴を受け取り、弟に渡す。十に満たない年頃にして、良くできた子だと新堀は感心した。

「嬢ちゃんたち、親を探しちょるね?」

 新堀の問いかけに少女はうなずく。

「じゃったら、自分らの名ぁを言いながら、歩くと良え。父ちゃんたちも、気付いてくれる」

 そう助言して、新堀は姉弟を送った。

「……お仙ちゃんは、優しいのぅ」

「逸れ者の辛さはわかりますから」

 少し耳を赤くした千歳は、空になった紙袋を手早く畳みながら、話を切り替えた。

「あの、質問しても良いですか?」

「なんじゃ?」

「……えっと、長州の説く攘夷と、会津・・の説く攘夷。何が違うのですか?」

「……僕ぁ、長州を代表しては喋れん」

 千歳の質問を前提に答えれば、ふたりが対立する陣営にいることは決定的になってしまうのだ。新堀が目をしばたかせて、千歳を見た。心底を見定める鋭さがあったが、同時に温かい。

「じゃけど、僕の思う攘夷なら、君に聞かせられる」

「お願いします。聞かせてください」

 千歳を見つめる潤んだ目が逸らされて、袖に隠されると、誤魔化すように短い笑い声が挙がった。

「君ぁ一体、誰なのかいね?」

「……お仙です、焼け出されて帰る場所もない」

「うん」

 新堀は、意志のある目をした女が好きだった。土埃と煤とに汚れているが、この娘もまた良い目を持っていると思った。一息を吸い、照り返しに眩しい鴨川の水面を睨み付ける。

「攘夷とはね……異国を知ることじゃ。異国が我が国に何を求めているか知り、異国の産業を知る。知らんと、戦えん」

「知るとは……学ぶということですか?」

「そうじゃ。学ぶことだけが、日本を強くする道じゃ」

「攘夷と洋学を学ぶことは、両立するんですか?」

「剣術でも同じじゃ。相手の技を知らずに打ちに行くのは、無謀が過ぎる。洋学を学んだ上でのみ、攘夷は叶うんじゃ」

 白馬に跨った学者の姿が、千歳の眼裏に浮かぶ。洋学は歓迎されない。攘夷とは、異国の一切を排除することと捉える者も多いのだ。

「象山先生は……」

「惜しい人を亡くしたのぅ」

 そうして、また沈黙となりかけて、新堀は妙に張り詰めた微笑みを千歳へと向けた。

「お仙ちゃん、攘夷とはなんじゃ?」

「……攘夷、は」

「君の思うことで良え」

「その……大和魂を大切にすることだと教わりました。帝の治め給う神聖な皇国に、夷狄を入れないこと。軍艦もそうですし、メリケンの布とか……」

 しかし、それは教わったことであって、千歳自身が考えて納得した結論ではないのだ。

 京都の治安維持に働いていたはずの新撰組は、京都の町人からは受け入れられていなかった。正義と思われた池田屋での捕り物は、この戦乱を引き起こしたかもしれない。一度起きた戦争は、町を焼き尽くし、行く当てを奪い去る。

 全部、長州が悪いと言ってしまえば楽だろうが、それでは、新撰組を罵った里幾と変わらない。新堀は正義も悪も分けられないと諭した。

「私には、何も……何もわかりません……」

 膝を抱いて顔を伏せた千歳の肩は、大きな手に抱かれて、引き寄せられる。

「──考え続けることじゃ。どうして、こうなったか考え、どうしたら良かったのか考え、考えて考えて……現状を変えていくために、動かねばならん」


 千歳は、あまり力の入らない足を動かして、夕方の綾小路を西へ向かっていた。昼に行われた奉行所による配給は、並んだものの、千歳よりずっと前でなくなってしまい、得られなかった。宮本屋にも行ってみたが、誰かが戻った痕跡はなかった。

 三日間、ろくに食事をとれていない。千歳はついに雅を頼ることにした。

 西堀川に至るまで、洛中は焦土となっていたが、火は川を超えなかったらしい。壬生村は、二ヶ月前に千歳が新撰組を出ていったときと変わらない様子だった。

 懐かしさと安堵、それから、恐れによって、涙が流れた。千歳の足が止まる。ここは、千歳のいる場所ではないのだ。既に出された場所なのだ。

 千歳は道筋にある西方寺の境内に入った。井戸から水を汲み上げ、手足と顔を洗った。着物を一旦脱ぎ、着直す。裾を切り取ったため、端折らずに着て、兵児帯は低く結んだ。

 小刀を取り出し、元結に当てる。何重にも縛られた元結の紙縒を切っていく。しばらくして、島田髷は肩の上に解けた。櫛は懐に仕舞い、前髪も切った。長めに残った紙縒で、低く髪をくくり直す。

 西方寺より出て来た千歳の姿は、仙之介に戻っていた。

 邸内は静かで、新撰組の本隊は戻っていないことがわかった。八木邸の脇玄関を開けると、土間には雅がいた。雅は一瞬固まったあとに驚きの声を挙げると、駆け寄って千歳を抱き締めた。

「お仙さん、大変やったなぁ。ほんに、無事で良かったわぁ、ほんに!」

 千歳は雅の柔らかな胸に顔をうずめて、力なく泣いた。先程まで、追い返されたらどうしようなどと不安に思っていた自分が馬鹿らしい。雅はいつでも、千歳を案じ、その訪れを歓迎してくれるのだ。

 風呂を出ると、雅は粥を炊いて待っていた。千歳は、初めて八木邸に訪れた日も、雅が粥を出してくれたことを思い出した。

 二階の納戸には、千歳の着物や本などの荷物が置かれたままだった。袴を着け、小刀を帯びる。暮れかけた坊城通を横切り、千歳は前川邸に入った。

「──お仙くん!」

 離れの玄関先に座って声をかけた総司は、浴衣を着ていた。

「総司さん、どうして……」

「食当たり」

 その顔は不機嫌に歪み、出陣できなかった悔しさを隠そうともしなかった。

「もうなんともないんだけどさ、留守居役も兼ねて。君こそ、どうして……あ、奉公先が……?」

「ええ、焼け出されてしまって」

「そう……でも、無事で良かったよ」

 総司は隣に座るように、框を叩いた。千歳が座ると、総司はため息をつき、

「あーあ、先生たち、今どこにいるのかなぁ」

とボヤいた。顔色は悪くなさそうだった。

「お仙くん、久しぶりだね。急に出て行っちゃったから、寂しかったよ。あ、飴もらってくれた? ──うん、良かった。しばらく、ここにいるの?」

 立て板に水の総司の話しぶりに千歳はうなずくばかりだったが、最後の質問だけは答えられなかった。

「あのね、安藤さん──あのおじちゃん、昼に亡くなったんだ」

 千歳は息を飲んだが、総司の口調は、あくまで淡々としていた。

 安藤は、池田屋の捕り物の際、裏手に回って奮戦した隊士だ。普段の温厚そうな振る舞いからは想像つかないが、若いころから武芸者として名を馳せていた。格別の働きだと、近藤も褒めたという。

 新撰組本隊の帰営は明日なので、葬送だけでも皆でできるのは幸いだと総司は話す。

「あの、藤堂さん……お怪我されてたみたいですけど」

「ああ、平助くんは元気に出陣してったよ」

 その言い方には、うらやましさが隠しきれない。

「あと、山南先生はね──」

 千歳がサッと顔を青くした。

「大丈夫。池田屋でも留守居役だったし、今も部屋にいる。だけど、ちょっと臥せっているんだ。実は──」

 そう言って、総司は昨日の大火の話を始めた。

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