六、迷子

 二条城にて事態の収拾に当たる慶喜は、伏見に布陣する長州藩本隊へ永井尚志ながい なおゆきを派遣して、朝命の許、撤兵を勧告した。しかし、「一会桑政権」に憎悪を抱く長州にとっては、擬勅を持ち出されたとしか受け取られなかった。

 戦乱の危険を逃れるため、天皇を彦根に一時遷座させる計画を立てた者が、佐久間象山だった。その計画は、驚きと反発を招いた。天皇は決して京都を離れない存在なのだ。

 佐久間象山は天皇を軽んじた。開国派であったことも併せて、激しい非難が尊攘派の浪士たちの間で高まった。それでもなお、象山は白馬に乗り、白い羅の羽織を着て町中を歩く。千歳も何度かその目立つ姿を遠目にし、身を案じていたが、七月十一日、三条木屋町の邸宅へ差し掛かった道中、四人の浪士たちに取り囲まれ、暗殺されたという。

 象山暗殺により、彦根遷座計画は頓挫したが、天皇の御身が危うくなるほどの戦争が、入京を図る長州とそれを阻む守護職らの間で起きるのではとの恐れが、洛中に広がった。

「なぁ、お仙。戦争ってどんなん?」

 千歳に扇がせながら、金鍔を頬張る綾女が、のんびりとした口調で尋ねた。

「鉄砲やら大砲やらで撃ち合うんです」

「危なない?」

「危ないです、とても」

「ふうん」

 まだ五つの綾女には、実感の湧かない話だろう。千歳とて戦争などは知らないが、五つのころに安政の大地震を経験している。あのときに見た、昨日まで広がっていた町並が焼け野原に変わってしまった様は忘れられない。

「こいさん、しばらくは外遊び、お休みしましょ」

「えぇ! なんでや」

「遠く行ってるとき、何かあったら、父さんたちと逸れてまうかもわかりまへん」

「……戦争?」

 綾女が口元に持っていった金鍔を高槻に戻して、千歳を見上げた。眉は寄せられ、赤い唇はへの字になっている。千歳は微笑んで、再び綾女の手に金鍔を持たせた。

「平気です。きっと……守護職さんや、新撰組が守てくれはります」

 近頃の千歳は情報収集のため、早朝に三条大橋まで行き、制札や瓦版の内容から長州への対応を抜き取り、帳面にまとめている。

 それによると、即時の長州討伐を唱えているのは、会津と桑名のみで、慶喜は慎重論、薩摩は静観、公家衆は長州の要求を飲むように言っていた。公家の戦争嫌い──武力をちらつかされると言うことを聞く姿勢は、古来から変わらないと千歳は焦れていた。

 それが、事態の膠着を経て、薩摩、土佐、越前などの雄藩も討伐を唱え出したのが、十五日。

 十六日、つまり昨日、慶喜は四度目にもなる撤兵勧告を永井に持たせ、十七日を限りに撤兵を行うよう最終勧告を出した。今日中に長州が伏見と嵯峨野、山崎の各陣を引き払わなければ、諸藩連合軍が征討を行うとなった。

「やっとか……やっと、一橋公も」

 容保は、長州が兵を率いて上京しただけでも討伐に値すると主張する厳格派だったが、慶喜は、体面と手続きを重んじる。何度、勧告しても応じない長州が悪いのだから、武力掃討になっても仕方がないとの構図ができるまで、動かないつもりらしい。

 時間はかかったが、やっと長州の脅威から解放されるのだと、千歳は安堵の息を吐いた。

 その見立ては甘かった。十九日の早朝。嵯峨野に布陣していた長州勢が、洛中に進軍し、御所の西にある中立売門、蛤門の守備を突破したのだ。

 小銃、大砲の発砲音に目覚めた宮本屋一家と奉公人たちは、身を寄せ合って朝食を食べた。主人と手代は避難すべきかと相談していたが、屋敷から二本西の通り、堺町通でも戦闘が開始されたため、外に出るのは危険と判断し、千歳たちは屋敷の奥座敷に固めて置かれた。

 絶え間ない砲声に揺れる座敷には、恐怖にすすり泣く声だけが響いていた。千歳はしがみ着いて怯える綾女の背中を撫でながら、唇を噛みしめて堪えた。

 戦闘はすぐに終わるはずだ。会津、桑名、薩摩、土佐……大藩が連合して、守ってくれる。きっと、大丈夫。頭の中で繰り返そうと、綾女を撫でる手は震えていた。

 一斉に銃声が響いた。そして、しばらくの沈黙の後、「火事や!」と庭から佐吉の声が上がった。


 堺御門の傍、鷹司邸から上がった火は瞬く間に洛中に回った。珍しく強い風の吹く日で、千歳たちが退避の支度をする間に、火は目前に迫った。

 洛中は逃げ惑う人々であふれ、叫び声や怒鳴り声の飛び交う上に、砲声が響く。

 綾女や菊太郎は男衆に抱き上げられ、宮本屋の家人は三条の六角堂まで逃げた。昼過ぎ、火は勢いを増すばかりで、ここもじきに火に呑まれるだろうと、今度は四条の南にある仏光寺へ走った。しかし、境内は既に避難者で一杯で、さらに一筋南にある因幡薬師へ向かったが、ここも入れなかった。

 火を逃れるには、鴨川を越えなくてはと、松原橋を渡る途中、その細い橋幅と、行き交う人の波に阻まれ、千歳は前を行くはつを見失った。

「はつさん! 佐吉さん! 佐吉さん──!」

 橋の上は身動きも取れないほどの人だった。足を進めているはずが、後ろへと流されて行く。

「綾女さん──! 菊太郎さん──!」

 その姿はどこにも見えない。千歳は混乱の中で、ひとりになってしまった。

 千歳は鴨川東岸の河原で避難者の間に座り、眠れない夜を過ごした。

 翌朝になっても、火は夏空に上がる。砲声は聞こえないが、長州は逃走したのだろうか。お腹が空いた。千歳は川の水で顔を洗い、口をすすぐ。

 少し前には、綾女と水遊びをし、菊太郎とは剣術ごっこをした対岸の河原も、茅花の揺れていた土手も、今は身を寄せ合う人々で埋め尽くされていた。

(どうしよう……)

 堪えようとしても、涙は止まらなかった。昨日の朝以来、食べられていないので、店の家人たちを探して歩き回ることは難しい。身ひとつで焼け出された。懐にあるのは、帳面と手拭いと総司からの飴が入った袋だ。矢立も入れていたはずだが、落としたらしい。

 敬助がくれた矢立だ。敬助はよくお菓子もくれた。本を読んでいると、雅がお茶を入れてくれた。白山神社に置いていた本や木刀も、焼けてしまっただろう。

 千歳は、袋の中に飴が四粒残っていることを確認して、一粒だけ口に入れた。その甘さに、また涙がこぼれた。

 ここで座っていても、誰も助けてはくれないのだ。千歳は立ち上がると、上白山町の宮本屋の様子を見に行くことにした。

 もしかして、戻って来ているかもしれないとの千歳の望みは、寺町を抜けた瞬間に打ち砕かれた。一面は焼け潰れた家の瓦が高く低く連なる焦土だった。整然とした町並みは跡形もなく、かつて、歳三と参った堺町御門の跡まで見通せるほどの、視界の良さだった。西では、まだ火が上がっている。あの火は、壬生まで達したかもしれない。

 灼熱の熱さの中、千歳は足を進めた。草履はなくしてしまったので、裸足だった。

 ほとんどの建物は焼けて、倒壊していた。辛うじて残った家屋敷も、守護職の兵が改め、放火していく。潜伏浪士の寝ぐらに使われることを回避するためだろうが、これほど、焼き尽くされた洛中に、さらに火をかける必要が千歳にはわからなかった。

 宮本屋の屋敷は跡形もない。蔵まで焼けていた。裏手から台所の跡地へ入り、何か食べられる物は残っていないかと倒壊した柱を退かしながら探った。

 米櫃は焼け焦げており、ひっくり返すと、炭となった米の固まりが落ちた。味噌壺も焼けていたが、中心部にはわずかに生の状態の白い味噌が残っていた。千歳は帳面を割いて、紙切れに味噌を包んだ。使えそうな茶碗と湯呑みを拾い、煤けた火箸も掴んで、井戸で洗った。

「泣くな……」

 自分に言い聞かせて、落ちていた鞘の着いた三寸ほどの小刀を鞘から抜いた。刀身は日中の光を受けて白く光る。千歳は着物の裾を一尺ほど切り取り、風呂敷の代わりとした。

 その夜、千歳は白山神社の燃え残った木の下で寝ることにした。社殿はやはり燃え落ちて、千歳の本も見当たらなかった。境内には、土埃にまみれた人々が、そこここで寝ていた。

 夢を見た。地震が起きたとき、千歳は五歳だった。建設中の森下の道場に隣接した平家建ての奥座敷で、箪笥の下敷きになり泣き叫んでいたところを、兵馬に助けられたのだ。その後は、迫り来る火の手から逃げるため、兵馬に担がれて、深川八幡宮まで行った。一夜明けて、森下に戻ると、そこには何も残っていなかった。

 千歳は涙の中で目覚めた。今日は二十一日のはずだ。お腹が空いている。風呂敷を手に持ち、飴玉をひとつ口にして、千歳は店の井戸に向かった。ところが、そこは目付きの悪い男たちに占拠されていた。近付くとニヤニヤと値踏みするような目で見られる。千歳は、身を翻して三条大橋の制札場に向かった。

 火は、木屋町通で止まったようで、三条木屋町は鴨川西岸に一列だけ軒を連ねていたが、制札場は焼けていた。お救い小屋が立ち、配給が行われるとの情報を期待したが、そこでは、避難者による仮小屋が建てられている最中だった。

 池田屋も焼けていた。一月前に、新撰組によって避けられたはずの大火が、洛中を襲った。なぜなのか。里幾の叫びが耳に響く。


『ほんに、戦争起こったら、新撰組のせいやわ』


「──そんなことない!」

 逃れるように頭を振ると、めまいを引き起こす。しゃがみ込んでも、周囲に千歳を案じる者はいない。皆が皆、今日明日をどう凌ぐかだけを考えていた。

 深呼吸をしてから、静かに立ち上がり、河原に降りる。橋の影と川風で、いくらか気分は良くなった。川には、北山からの材木を乗せた舟が、既に多く下って来ていた。

 千歳は老女と町人体の男の間に座った。家族に見えるかと思ったのだ。ひとりと思われて、得することはないだろうから。

 風呂敷から味噌を取り出して舐めた。配給が行われるまで、飢えを凌ぐものはこれしかない。

 長い昼だった。前櫛を外して、額に当てる。呼んだときには、必ず幽冥より会いに来てくれると強く念じて、小さな声で志都に呼びかけた。

「お母さま……助けてください。助けてください──!」

 そのとき、千歳を呼びかけた声は、母のものではなく、右隣りの町人体の男からだった。

「──お仙ちゃん?」

 ほっかむりの下には、涼やかな目鼻があった。

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