五、赤い櫛

 梅雨明けを思わせる晴天の下、今までにない歓声を浴びながら壬生へ帰る歳三の足取りは軽かった。やった。紛れもない、新撰組の大手柄だった。

 池田屋に居合わせた浪士は二十余名。その内、四名は斬り捨てとなってしまったが、二十名もの捕縛者を得た。長州派の浪士たちによる京都御所や壬生屯所への討ち入りは回避されたと見て良いだろう。

 歳三は幼いころから、武士になることを夢見ていた。思春期、次兄に諭され一度は捨てた夢だ。けれども、奉公を経て、家伝薬を売り歩くようになっても、やはり諦められなかった夢だ。

 名字すら名乗れなかった自分が、今や武士として四条大橋を渡っている。深い感慨が歳三を包む。先頭を歩む近藤も、きっと同じ感慨を味わっていることだろう。今までの人生が全て肯定されたような高揚を歳三は噛み締めた。

 そのとき、沿道の観客の向こうに、赤毛を島田に結い上げた娘が目に入った。夏の日差しに照らされた稲穂色の髪に、赤い前櫛を挿した娘は、十五の夏に出会った志都の姿を胸中に呼び起こさせた。

 驚きの余り、目を凝らして見る。娘も橋の欄干に上り、一心に歳三を見つめていた。

 千歳だとわかった。初めて見る千歳の娘姿に、歳三は目を見張り、すぐに逸らした。暑さ故ではない汗が、額を流れた。

 歳三にとって、志都は昔の女、しかも、理由も明かさずに自分を振った相手だった。あのまま付き合い続けていても、今日という未来には繋がらなかった相手だ。

 志都へは一度だけ、武士になりたいと語ったことがある。志都は困ったような顔を歳三に向けて、

「武士……ね」

とだけ言った。志都の想起した対象が、彼女の父親であることはわかった。明るい色をした目が涙を帯びた。歳三はそれ以上、語れなかった。

 もう一度、千歳に目を遣る。赤毛に調和した赤い前櫛は、歳三が志都に見立てて贈った物に違いなかった。

 あれから、十五年。過去となったはずの志都への思いは、娘の格好をした千歳によって揺り起こされた。この娘を前にすると、歳三はただの「歳三」に戻ってしまう。琥珀玉からこぼれる涙を拭い、抱きしめて安心させてやらなくてはならない気になるのだ。

 けれども、それも終わりだ。歳三は千歳に向かって、大きくうなづいてみせる。別れの挨拶のつもりだった。

 志都は歳三を選ばなかった。歳三も武士として生きていく。千歳は娘として、幸せを得る。遅くなった決別を済ませた。


 昼になり、千歳たちは屋敷に帰った。そこで千歳は、箏の稽古から戻った春に興奮気味に詰め寄られた。稽古仲間から「池田屋」の顛末を聞かされたらしい。

「お仙どんの兄さんも池田屋行かはったん? 聞いてん、ほんに芝居みたい、格好良え!」

 春の熱い眼差しを受け、千歳はくすぐったくも誇らしかった。

 この日を境に、京都における新撰組の地位は不動のものになったように見えた。守護職と幕府からは、それぞれ褒賞金を下賜されたというし、見廻組と同じく直参身分を得るらしいとも噂された。

 千歳は、梅雨が明けて綾女や菊太郎が外で遊びたがることを内心で喜んだ。外に出て、巡察の新撰組に会えないかと期待しているのだ。もちろん、すれ違いそうになれば、綾女の帯を直すふりをして顔を隠し、こっそりと彼らの後ろ姿を追うだけだったが。

 笠に陰って顔は定かでないが、先日は総司らしき長身の隊士を見たし、その前は槍を担いだ原田と思しき人物が、隊士たちに指示を出していた。

 彼らによって、京都の町は守られた。千歳には、前年の政変以降続く長州復権勢力の鎮静がもうすぐ達成されるように思えた。

 ところが、世情のきな臭さは深まる一方だった。

 六月十六日。禁裏御守衛総督きんりごしゅえいそうとくたる一橋慶喜の側近が、京都町奉行所与力屋敷側の路上で暗殺された。

 池田屋騒動の数日後には、その首謀者が慶喜であるとの張り紙が五条橋になされていたとおり、反体制側からの非難は強まっていた。その張り紙には、慶喜が叡慮を曲げて開国を唱え、攘夷を阻んでいるとの弾劾も含まれていた。

 以前から、会津侯容保も同じような誹謗を受けているが、慶喜も容保も、その思想は紛れもない鎖港攘夷派だ。加えて、新撰組は守護職である会津を通して慶喜の指揮下にいるのだから、池田屋の指示を慶喜が出したなどは、何を今更言い立てることがあるものだろうか。

 下らない政論に逸って秩序を乱す浪人勢を、千歳は嫌っていた。無責任に噂話をささやき合う町人と変わらない。


 宮本屋に奉公に上がってから一月が経ち、千歳の早朝の日課に三味線の稽古が加わった。

 加尾は三味線と唄、里幾は三味線と踊りを習っているらしい。はつから、千歳も三味線を習ってはどうかと勧められた。今まで歌舞音曲の類は一切やってこなかったと尻込みしていると、はつは、

「そやったらなおさら、お三味くらい弾けへんとなぁ」

とにっこり笑う。暗に、剣術なんかやっていないで、娘らしくしろとの圧力がかかっている。早朝に白山神社へ行って、木刀を振っていることは、知られていたらしい。

 できれば、文学を習いたいと思っていた千歳だが、結局、はつに押されて、三味線を習うことになったのだ。

 三日に一回の稽古は、始めてみれば楽しかった。音階と、押さえる弦の位置はすぐに覚えた。芸妓を引退した師匠からは、音を聞き分ける耳があると褒められたのだ。しかし、運指は苦手だった。師匠の手拍子に合わせて曲を歌うまではよくできるのだが、実際に弾けるようになるのは先に思えた。

 日中、綾女がひとり遊びをしている間に練習しようかと思ったが、綾女は千歳が側を離れることを許さなかった。綾女を寝かしつけてから、女中部屋で練習しようとすると、里幾から、下手な音を聞かされると、こちらまで下手になるとの盛大なイケズをもらい、これも断念した。

 そこで毎朝、白山神社に三味線を持って行き、練習をすることにした。舞妓だったころの師匠も、同じように早朝の寒稽古をしていたそうだ。

 しかし、これでは本を読む時間がなくなってしまうため、千歳は一計を講じた。三味線を練習するとき、見台に本を置くのだ。素振りと同じで、三味線の手の形も考えずに動かせるほど叩き込めば良いだろうと千歳は思ったのだ。

 ふと、新堀のことを考える。もしかすると、新堀も連日の池田屋残党狩りで、捕縛されたかもしれない。捕縛された者がどうなるのか、千歳は知らない。


『きっと大丈夫じゃ。大志を抱く者ぁ、そう簡単に死にゃあせんけん』


 あの穏やかそうな新堀も、幕府の転覆を狙っているのだろうか。


 日に日に世情は逼迫していった。長州の兵団が大坂に入り、伏見まで兵を進めた。その数、五百名とも千名とも伝えられ、山崎や嵯峨野にもそれぞれ長州勢が駐屯している。守護職や所司代は、洛南の竹田街道に布陣して長州勢の入京に備えた。新撰組も出陣していると聞く。

 いよいよ、長州本隊による京都討ち入りが行われるのではないかと、宮本屋の主人は店先の品物の多くを蔵に入れてしまった。他所の店も同じく、商品を仕舞い込んだり、家人を洛外に退避させたりしていた。

「なぁ、ほんま堪忍してほしいわ」

「なぁ」

 女中部屋の布団の中で、里幾と加尾が言い合っているのは、近江から出てきているお気に入りの蕨餅の行商人が、戦を恐れてしばらくは来ないと言ったことらしい。

「なぁ、お仙どん」

「え、はい」

 千歳は既に寝ようと目を閉じていたところを、里幾に起こされた。

「長州さんが来てはるの、あのせいやあらへんの? 池田屋でたくさんお仲間はん、殺されはったんやろ?」

「うち、聞いたんは、一橋の総督さんも、守護職さんも所司代さんも、お役解かれるんやないかって」

 加尾も枕を抱えたまま尋ねた。千歳は少し考えてから、背景を説明しようと試みる。

「長州が上京するとの見立ては、随分前からありました。ですが、そも、入京禁止の勅命は、長州がご叡慮を捻じ曲げて──」

「難しいことはええんて! ほんに、戦争起こったら、新撰組のせいやわ。あれ以来、我が者顔で町歩いて」

「……池田屋での戦いも、巡察も、新撰組の仕事です」

 不穏な空気に落ち着かないのは、千歳も里幾も同じだが、千歳は新撰組の義を知っている。新撰組を悪と決め付けられることは、我慢ならない。

「悪いのは、朝命に背いて入京する長州じゃないですか」

「長州さんは尊王攘夷のために働いてはんねん。うち、父ちゃんがお屋敷出入りしててんから、知ってんねん!」

「長州は勅書を偽造して、御公儀の政を阻むんですよ。ちっとも、尊王じゃありません!」

 既にふたりとも布団から身体を起こしていた。応酬される声の大きさに加尾はしきりと障子戸の向こうを気にして、里幾の袖を引っ張ったが、里幾はかまわず、布団を叩いて言う。

「長州さん追い落とさはったんは、守護職さんやん! 守護職さんこそ、擬勅作たはるてなんで思わへんねん」

「帝直々に会津さまへお文をご下賜し給うたのに、そんなわけないじゃないですか。尊王攘夷は、新撰組こそがその先駆けになるんです!」

「尊王攘夷なん、長州さんかて言うたはるやないの。新撰組、新撰組て、長州さんの言わはる攘夷と何がちゃうねん!」

 千歳が言葉に詰まる。里幾は、坂東モンがと吐き捨てると、千歳に背を向けて寝転び、薄い掛け物を頭から被った。

「ほんに嫌や。長州さんさえ都にいてくれはったら、うちの父ちゃんかて仕事なくさへんかったし、うちも奉公なん来ぃひんと良かったねん!」

 わざとらしい寝息はだんだんと落ち着き、やがて静かになった。

 千歳は新撰組の説く攘夷と、長州の説く攘夷の違いを言葉にできず、いつまでも布団の上で膝を抱えて考えていた。最近、考える際に前櫛を手に取り、櫛の歯を指で弾くことが癖になっていた。

 明日から七月になる蒸し暑い夜だった。

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