二、間諜

 副長部屋に寝起きしていた「お仙坊」が、雅の母方の親族が急病で倒れたため、その世話人として洛中の屋敷に出されたと、総司は聞かされた。

「すまない、何分ちょうど大坂下りと重なって」

 歳三は総司から千歳宛ての土産物を受け取って詫びた。

「もう帰って来ないんですか?」

「そうだな、あいつにもあちらの居心地が良ければ、そのまま奉公人に抱えてもらっても良いと言ってある」

「そんなぁ、せっかく稽古付けたのに」

 千歳を惜しむ声は、歳三の耳によく届いた。

 六兵衛は、千歳が夜遅くまで副長部屋に入れないときに夜食を出したり、話し相手になってやったりしていたので、夕方以降が物寂しくなったと言った。

 勇之助も、遊び相手だった千歳がいなくなり、寂しがっている。

 一番寂しがるかと思った敬助は、案外気丈にしていたが、千歳を案ずる言葉を一切出さないことから、反対にその気掛かりが伺える。

 歳三はというと、気は晴れやかなものだった。手放すとなると少しは惜しまれる思いもないわけではないが、それより、何より、千歳に安全な場所で自立の道を歩ませる目処が立ったことに安堵している。

 先月末に捕縛した長州浪人の聴取から、同国の浪士が京都に集結していることを知った。新設の監察方からも、長州人が京都に火を放ち、反長州派の公家や会津侯を殺害して天皇を長州へ行幸させる計画があると報告を受けている。水戸では、攘夷断行を求めて天狗党という集団が蜂起した。

 世情は実にきな臭く、新撰組の行く末も、当月始めに近藤が建白書を出したとおり、不透明なものだった。


 梅雨の時期は遊び場が室内に限られる。春は部屋遊びが好きな娘なので、お付きの加尾かおと人形遊びに興じているが、菊太郎は座敷を走り回って、見えない剣を振り回し、綾女もお手玉を鴨居に投げつけてその命中率を高める訓練をしていた。湧き上がる子どもの衝動は注意して抑えられるものではない。千歳は地蔵の心で、荒れゆく部屋の様子を見守っていた。

「お仙、外行くえ!」

「お仙、お仙ー!」

 綾女と菊太郎が抱き着いてせがんでくる。菊太郎の腕白ぶりに手を焼いていた里幾は、菊太郎が千歳に懐いたのを良いことに、菊太郎の世話の手を抜くようになっていた。

「お仙、川行きたいねん、川ぁ!」

「あきまへん、雨です」

「雨でも、塾には行くやろ? お客さんも来はるやん。何で遊びに行くんはあかんねや!」

 菊太郎が最もな言い分で反論するが、泥跳ねで汚れた着物を洗うのは千歳の仕事だ。

「着物はんがいとうてはります。汚さへんといてやぁ、言うてます」

「聞こえへんの? 雨に涼みたい言うてはるわ!」

 着物の声を代弁する作戦は、綾女によって逆手に取られた。千歳は仕方なく店の斜向かいにある白山神社までふたりを連れて行った。

 ふたりは境内で傘を差して走り回ったかと思えば、楠から落ちる雨垂れの音に静かに耳を澄ませる。千歳は他の奉公人の目がないことを幸いに、帯の間から『霊の真柱』を取り出し、社殿の濡れ縁に腰掛けて読んだ。

 本は『紫文要領』上下二巻と、『霊の真柱』のみしか持ち込めなかった。残りの百冊近い蔵書は八木邸の二階に泣く泣く置いてきている。

「『三大考さんだいこう』も持って来れば良かったなぁ……」

 しかし、読む時間はないのだ。昼間はもちろん、綾女の相手で掛りきりだし、遅くまで灯を点けていると、同室の里幾たちに叱られる。

「そうか、朝早く……!」

 夜がダメなら、朝だ。仕事前にここへ来て読めば良いのだ。

 翌朝、千歳は暗いうちに起き出し、本と傘を携えて、宮本屋の勝手口から抜け出した。久々のひとり歩きだった。思わず小走りになって、白山神社に入る。

 柏手を打ち、濡れ縁に上がる。卯の刻まで、半刻近く、千歳は存分に本を読むことができた。その日の昼、千歳は近所の少年に駄賃を握らせ、八木邸へ文遣いに遣った。

 雅が受け取る。敬助への文が同封された文には、元気にしているとの報告と共に、十冊分の本と小太刀を一本、風呂敷に包んでその少年に持たせるよう書いてあった。

 相変わらずだと微笑みながら、雅は要望の品と共に、菓子類を風呂敷に包んで、少年に持たせた。千歳はその包みを社殿の軒下に隠し置くことにした。

 趣味の時間さえ確保されれば、日々の仕事はそれほど辛くなくなった。綾女のわがままは止まらないが、初めのころのような挑発的な言動はなくなったことで、幾分か楽になった。また、菊太郎の腕白の相手が千歳に集中したことから、屋敷中の奉公人には妙に温かい目で見られるようになった。

「初めはなぁ、ほんになんもしゃべらんと、ぶすくれて」

「方言もあったしなぁ。それが、今では、ほんによく坊さんともこいさんとも遊んでくれはって」

「この前、坊さん負ぶうて走てはったわ」

「細いのに強いなぁ」

 主に総司の稽古によって鍛えられた体力のお陰で、千歳の評判は回復したようだった。

 どんよりと曇った日の午後、千歳は綾女と塾から戻った菊太郎を連れて外に出ようとしていた。そこに宮本屋の主人が祇園御霊会の打ち合わせから戻り、呼び止められる。

「佐吉、連れてき。遠くへは行かんよに。なんや、ここんとこ仰山、捕物してはんねんて」

「……新撰組ですか?」

「新撰組も、新しいアレ──見廻組も、所司代さんも会津さんもや。長州モンがおらんか、血眼になって探してはる。近寄ったらあかんえ」

 鴨河原に下りて三条大橋を見上げると、抜き身の槍を持った会津兵が通っていた。向こうの四条大橋の上には新撰組と思われる黒羽織の一団も見えた。

「お仙!」

 菊太郎に呼びかけられ、棒を渡される。剣術の相手をしろとのことだが、千歳は受け取らない。

「あきまへん、また叱られます」

「良えやん、良え棒あってんから!」

 理由にならない理由を述べて、菊太郎は千歳に二尺の棒を押し付けた。綾女も一尺ほどの棒を手に持っている。後ろでは佐吉が渋い顔で千歳を見ていた。

「こいさん、叱られますえ? とおさんがそないして」

「お仙かて誰に習うてん。叱られへんかってんな? そやから、上手いんやんなぁ」

「お仙も叱られとりました」

「そやけど、しはってんな?」

「ええ……まあ」

 隠れて木刀を振り回しているのは、今もって変わらない。毎朝、素振りをして身体を温めてから本を読んでいる。

「でも、ダメです。いけません」

 菊太郎は渋々棒切れを下ろした。千歳が関東言葉を使うときは、押しても無駄なことをわかっている。綾女はまだ納得がいかないようで片足をブラブラと揺らしながら、棒を抱きしめていた。千歳はしゃがみ込んで目線を合わせる。

「こいさん、あんな──」

 けたたましい警笛の音が三条河原町の辺りから響いた。五、六人の浪人を会津兵が追い、橋の上で斬り合いとなる。

「こいさん、坊さん!」

 佐吉が綾女を抱き上げて、四条大橋の方へ走った。千歳も菊太郎の手を引き、後を追う。

「こいさん、目をつむってて!」

 千歳の言葉に綾女が両手で顔を覆う。振り返ると、三条大橋の橋板から、血が滴り落ちているのが見えた。

 治安は明らかにここ半月で悪化していた。

 屋敷に帰ってから、綾女は外遊びを中断された鬱憤を千歳の背中へお手玉を投げることで発散していた。千歳はなされるがまま、もうすぐ行われる御霊会の宵々山で綾女に着せる浴衣の肩揚げを行った。


 翌日の払暁、千歳は日課どおり、白山神社の神殿の濡れ縁に上がり、本を読んでいた。

 宮本屋にての暮らしは、衣食住に不自由ない。仕事もある。しかし、どこか張り合いがないのは、勉強が足りないから。寝る前に必ずしてもらっていた、敬助の講義がないからだ。

「……先生、もう教えてもらえないのかな」

 開いた紙面へと、そうつぶやいたとき、

「先生ってお稲荷さん?」

と声をかけられた。驚いて本を取り落すと、先日の丈高な西国訛りの武士が立っていた。

「お仙ちゃんじゃったかね」

 固まる千歳を気にも留めず、本を拾い上げ、表紙を確認する。国学書のひとつ、服部中庸の『三大考』だった。

「お主ゃ、本当に女の子かね?」

 本来の姿である女の格好をしたときに男だと疑われては、元々低かった女としての自信がますますなくなる。千歳の消沈を見た武士は慌てて、

「いや、君は十分にかわいい。そこは、安心したまえ。賢く丈夫な女は、女の中の女じゃ、うん!」

と取り繕いながら、本を差し返した。

「僕ん仲間から、ここで毎朝、女の子が小太刀振るうとる聞いて、きっとお仙ちゃんじゃ思うたわ。本も読むんじゃな」

「……これも、神さんが教えてくれはりましてん」

 千歳は受け取ると、揃えた草履を履いて立ち上がり、軒下から風呂敷を取り出した。本と木刀を包む。

「なんじゃ、もう帰るのか?」

「へえ」

「なぜ、ここに置いておくんじゃ?」

「……神さんのやもん。持って帰られへんのです」

「ふうん、ここは稲荷さんじゃないけど?」

「か、神さんは呼んだら来てくれはる、どこでん──名乗らへんおじさんとは、しゃべったらあかん言われてますねん」

「おじ、さ……」

 千歳は素早く傘を差して、雨の下へと小走りに出た。歳三よりも四、五歳上に見えるこの男は、千歳にとって「お兄さん」ではない。背後から高らかに笑い声が挙がる。

「わかったよ、名乗る。僕は新堀松輔あらほりしょうすけじゃ」

 千歳は傘の下で振り返り、新堀と名乗った武士を見た。

「中国の方?」

「安芸じゃ」

「ご浪人?」

「まあの」

 浪人にしては身なりと品が良い。薄絹の着物に、折り目の正しい袴を着けている。怪訝に見てくる千歳に、新堀はさらに吹き出した。

「新撰組みたぁな目で見よるなぁ」

 動揺を隠して千歳は目線を逸らす。新堀はその反応にも笑っているようだった。千歳はふと気付いて、

「新堀さん、ほんまは新撰組に狙われてはる人ですか?」

と努めて心配そうな、健気な雰囲気を作って新堀を見つめた。

 新撰組には恩があるのだ。少しでも役に立ちたいと、千歳は間諜を図った。

 新堀は穏やかに笑ったまま、答えない。千歳はそれを応と受け取った。紅潮する頬を傘で隠す。とても、新堀の顔を見ていては心臓が持たないと思った。

 とっさについた、剣術を神さまの使者から習ったという嘘に乗せて話す。

「神さん……ほんまはな、長州のお人やないか思うとりますねん。松陰先生、尊敬する言うてはりました」

 千歳は新堀が安芸の浪人ではなく、長州藩士もしくは脱藩浪士だろうと踏んでいる。

 明練堂にいたころ、広島出身の寄弟子がいたが、彼は新堀と異なる言葉だったこと。入京禁止の長州者が洛中に入ってきていると聞いていたこと。「僕ん仲間」が千歳を見て、新堀もこの時間に白山神社へ現れたのなら、近くに拠点を置いているだろうこと。それはつまり、ここより三筋東にある長州藩邸だろうこと。

「鈴木、名乗てくれはりました、狐さん」

 願わくば、この手の震えが、師を心配する少女の不安と新堀に捉えられるように。そう思いながら、新堀を伺う。

「新堀さん、ご存知ないでっしゃろか……?」

「鈴木……西国じゃ珍しいがのぅ」

 腕を組み、偽名だったらわからないと続けた新堀の返答は、千歳の仮定を確信に変えた。長州の浪人を当たれるこの男は、やはり、長州者なのだ。

「すんまへん、おおきに。ありがとさんでした」

 頭を下げ、震える足に力を入れて歩き出す。

「狐さんのこと、心配なんじゃね」

「はい」

「きっと大丈夫じゃ。大志を抱く者ぁ、そう簡単に死にゃあせんけん」

 振り返ると、新堀は涼しい目元を細めて手を振りながら、千歳を見送っていた。

 朝のうちに敬助への「新堀報告書」を書き上げて、昼間には前回と同じ少年に八木邸まで文遣いを頼んだ。

 夕方、町会所の男が返答を届けに来たが、送り主は歳三だった。間諜など今後一切するなとの説教に始まり、皆様にちゃんと挨拶しているか、真面目に奉公に励みなさい、ひとりでは決して出歩くな、長々しい小言が書き付けてあった。総司からの大坂土産という飴の小袋が同封されていたので、千歳はつまらない気持ちを飴で紛らした。

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