十四、詩文

 馬越が隊を去って、十日が経った。噂はたちまちに広がったが、京都守護職の越前松平侯が職を辞して帰国すること、代わって会津侯が軍事総裁を辞して守護職に復職したことなど、次々と舞い込む新たな話題に霞み、やがて、何事もなかったかのような日常が戻ってきた。


 初夏の日差しは例年より暑く感じられ、軒の燕の雛たちも日増しに大きくなっていった。副長部屋の南の庭に立つ白梅の枝には青葉が繁り、その葉陰では小さな実がなっている。

 副長部屋には、昨夕から微熱を発した敬助が寝ていた。千歳はその隣に座って、針を進めた。衣更えはまだ半月後だが、連日の暑さのため、袷の着物から裏地を取り、単衣に直していく作業を既に始めていたのだ。

「助かるよ。お針子さんに頼むより、君の方が丁寧だ」

「そんな……ふふふ」

 千歳がくすぐったそうに笑った。志都は裁縫を得意としていた。千歳も、幼いころから志都に教わっていたため、お針の稽古では、誰よりも早く正確に運針ができたのだ。

「お針で身を立てていくつもりはないのかい?」

「うーん……」

 千歳は手を動かしてばかりいて、何とも答えない。十五には隊を出るとの約束だ。身の振りをどうするか、そろそろ決めなくてはならない。

「隊を出て……」

「うん」

 隊での生活は、居心地が良い。衣食住の心配はなく、学問と剣術を教わりながら、こうして細々とした仕事を与えられている。この生活を近々手放さなくてはいけないことは、大変惜しまれた。

「うー……」

 千歳が手にした着物に顔を埋めて、うめいた。小刻みに揺らされる身体に、もどかしさが見て取れる。

「先生とお別れなんですか……?」

 甘えた声で言われては、敬助も慰めずにはいられない。洛中に勤めたら、休日には会えると言っても、毎日は会えないじゃないかとゴネられる。

 この娘は、素直で聞き分けが良いが、根源たる性質は頑固でわがままであることは、ひとりで京都まで上ってきたところからもわかる。普段は抑えられている我の強さが、時折、現れるのだ。

「お武家さんか、お公家さんか、お屋敷に勤めるのはどうだい? お店に上がるよりは良いだろう」

「……ん」

「それか、塾で助教をして、いずれお師匠さんになるとか」

 千歳は着物に顔をうずめたまま、首を振った。深くため息をついて、つぶやく。

「本当に男だったら……なぁ……」

「うん?」

 敬助には聞こえない。何でもないですと顔を上げ、再び針を進めた。寂し気な横顔に、敬助が優しい声で尋ねる。

「燕さんは、漢詩なんかはやらないのかい?」

「作りはしないです、読むだけで」

 敬助は千歳のことを、燕さんと呼ぶようになった。学問を教えられることを何より喜ぶ千歳を、燕子と見立ててのあだ名だ。千歳も始めて付けられたあだ名を気に入っていたようだった。

「書いてみるかい? 教えてあげるから」

 千歳は黙ったまま、うなずいた。千歳が実は万葉歌を真似て和歌を詠み、それを帳面に書き入れていることを、敬助は知っていた。


 同じころ、歳三はというと、総司と永倉の率いる見回りに同行し、三条木屋町にて脱走隊士の捜索を行っていた。先日制定した法度の仔細──戦闘に怖気付き逃走すること、背中に傷を受けることなどを禁じるもの──を公布したところ、ひとり、二日後にはまたひとりと脱走が続いていた。

「ねぇ、土方さん。そう思いません? なんの覚悟で剣を握ってんだって」

 旅籠屋を改め終わった総司が間延びした声で言った。手中の紙切れある脱走隊士の名は合わせて六人。

 木屋町界隈は旅籠屋が並び、今は参与会議に参加する将軍家茂や各雄藩の上洛に付き従った諸士が多く逗留している。立地としても、祇園と三本木、先斗町の花街が近いため、朝夕相当な賑わいで、正に、人を隠すには人の中となり得る場所なのだ。

「僕たち、なんのために巡察してるのかって。臆病な坊ちゃん捕まえて尻叩くためじゃないんですって。ねぇ、土方さん。土方さぁん」

「口じゃなくて、足動かせ。ほら、次」

 歳三は町絵図を開きながら、幼い口調で文句を垂れる総司を小突いた。たしかに、不逞浪人を取り締まるための市中見回りが、ここ数日は脱走隊士の捜索に代わっている。見つかったら、尻を叩かれるどころか、切腹が待っているので、脱走した側もそう簡単に見つかるような隠れ方はしない。

 歳三は路地から出てくる者たちに目を配りながら歩いた。永倉が戻ってくる。脱走隊士のひとり、阿部慎蔵らしい男が、三日程前に泊まった旅籠を突き止めたと言う。

「けれど、その一泊限りで、その先はわかりません」

 そう話す間にも、芸妓の集団や、振売の若者が側を通り抜けて行く。まっすぐ五歩も歩けない賑わい振りだった。

「もう、土方さん。いっそ、目明し方作って、捜索はそいつらに──」

 永倉が途中で言葉を失って、歳三の後方に視線を定めた。敵かと左手を刀に添え振り返ると、柳の繁る高瀬川にかかる三条小橋を、白馬に乗った壮年の武士が渡って来るところだった。

「スッゲェ、なんだあの羽織」

 永倉が呆気に取られたとおり、白馬の上の男は、初夏の日差しに眩しい白羅紗の羽織をまとい、袴はこれまた大きな唐草文様が織られた金襴緞子のものだった。

「……佐久間象山か、ありゃ」

 歳三が検討を付けた。先日、神保が言っていた開国派の学者だ。


 新京都守護職となった松平春嶽が率いた参与会議さんよかいぎによって、公議政体論は実現された。しかし、その議場は公論を尽くすために機能することはなく、薩摩藩主島津久光と一橋慶喜との間で主導権争いが行われる場と化してしまった。

 参与会議の崩壊から、春嶽は守護職を辞して帰郷。再び、容保が守護職に就いたのだが、同時に、軍事総裁職を辞しているので、征長軍が発せられることはなくなった。

 参与会議の議題は、征長問題と横浜鎖港の是非だった。開国派の春嶽、島津久光は鎖港反対を訴えたが、双方共に帰郷した今、方針は横浜鎖港と定まった。慶喜は二条城に留まり、容保は京都守護職に、容保の実弟である桑名侯松平定敬は京都所司代の職を得て、公武一和、尊王攘夷の色合いが強い「一会桑政権」が成立することになる。

 そんな、攘夷色が占める京都において、象山は果敢にも開国論を説き続けていた。


「にしてもよぅ、ありゃ、目立ちすぎじゃありませんかい? 俺はここにいるぞって、宣伝しているようなもんじゃないですか」

 道脇に寄る人々に押されながら、永倉は言った。ただでさえ、乗馬に正装は目立つというのに、象山の容貌は特異なのだ。

 年齢のためか落ち窪んだ大きな目は鋭く光り、細い顎をおおう髭は長く蓄えられ、口元は嘲笑するかのように左側だけが上がっている。目立つ上に、居丈高ときたら、浪士たちの格好の標的となってしまう。

「いかにも学者って顔立ちだな」

「頑迷も頑迷、おおぅ、睨んでますぜ」

 批評が耳に届いたわけではないだろうが、象山は歳三たちの傍を通り過ぎるさい、彼らを傍目に捉えて、微かに鼻を鳴らしたように見えた。永倉が吐き出すような小声で、象山の護衛を指す。

「ありゃ、いけませんね。剣技の方もよろしからずだ」

「ふふん。お前にかかれば、大概の奴の剣技はよろしからざるもんだろうが」

「差し引いても、ダメです。遊山のつもりですかね。開国派の連中を弾劾する張り紙やら、投書やら、どれだけ上げられてるか、知らぬわけでもあるめぇに」

 それら張り紙投書類の調査と摘発を行うことも、新撰組の仕事だった。

 人垣を割って進む象山の許へ、身なりの良い少年が駆け寄って話しかけていた。息子だろう。よく焼けた血色の良い顔は、象山と対照的に丸く福々しい。

「いやぁ、賢そうっすね。親が違えば、子も違うってか」

 永倉はそう言い残し、再び旅籠を改めに行った。


 その後、新たな手がかりは得られず、歳三は帰営し、副長部屋へ戻った。部屋では布団の上に座って算盤を弾く敬助と、敬助の文机に突っ伏して眠る千歳がいた。敬助が小声で、おかえりと声をかける。

「ただいま。……こいつ、よく寝るな」

 日中に副長部屋へいられない千歳は、土間で本を読むか、最近は八木邸の縁側で裁縫をしていることが多い。それも、歳三が目を遣るときには、しばしば膝に抱えた赤猫と共に寝こけている。

「仕方ないよ。背が伸びるころは、眠いものだ」

 敬助が笑って応じる。勘定方より上げられた先月の会計報告の正誤を確認していた。

「差異無しかい?」

「むしろ、あってほしい赤字具合さ」

「あー……ああ、ご苦労さま」

「脱走するつもりの隊士諸君、給与をもらう前に出て行きたまえ」

 敬助の祈りに、歳三は苦笑いをこぼして羽織を衣桁に掛けた。

 永倉より提案の「目明し方」を定める話をすると、敬助は賛同し、さらに平素の任務に隊士の素行調査を入れるべきだとした。

観察使かんさつしだよ」

 平安初期に置かれた、地方行政の不法を摘発する「水戸黄門」の役割のことだ。

「なるほど。たしかに、普段の素行を把握できていれば──」

 「馬越くんのことも」と続けようとした言葉を歳三は飲み込んだ。あの事件も、隊士の素行が把握できていたら、もう少し違った結末を迎えていただろう。

「──そう、精勤調査ってことで、褒賞の指標にもなるんじゃないか?」

「そうだね。なるほど、観察使兼式部省か」

 敬助の言葉に、歳三が布団の上へ組織の系譜図を描き出す。局長、副長、勘定方、観察方、賄い方、そして各副長助勤と平隊士。

「いよいよ、隊らしくなってきたな」

 目を輝かせて言う歳三に、敬助も強くうなずいた。

「書き留めておこう。ちょいと、お貸しくださいよ」

 歳三が筆を借りようと千歳の眠る文机へ立つ。千歳の顔の下には漢詩を推敲した跡が伺える半紙があった。引き抜いて見る。

「これは、この子が……?」

「昼間に教えたんだよ。随分、うなりながらやっていたけど、できたのか」

「……ふうん。まあ、決まりは守れているみたいだな」

 ふたりは共に千歳の詩を眺めた。


──────────


更衣こうい

梅子薫風息 梅子ばいし 薫風にいこ

抱其葉愈茲 其れを抱きて 葉 いよいよしげ

把衣懐製母 衣を把りて製しし母をおもへば

惜断袷衣糸 断つを惜しむ 袷衣こういの糸


梅の実が初夏の風に安らぎ、

実を抱く葉は、ますます茂ります

着物を手に取り、作ってくれた母を思うと、

袷の裏地を縫い付ける糸を切ってしまうことが惜しまれます


──────────


 千歳が京都を訪れて、七ヶ月が過ぎた。今日の千歳が着ている着物は、ちょうど上京のさいに着ていた白茶の舟底袖だ。黒谷東の河原にて神保に会った時の着物で、歳三が「神保さまに会わせるには恥ずかしい格好」だと言い放ち、千歳を怒らせたときのものでもある。

 千歳の荷物は少なかった。母を偲ぶものが位牌とあの着物しかないならば、母の手が触れたものなら、糸すら惜しい気持ちはよくわかる。歳三は無神経にも志都が縫い上げた着物を貶してしまったことを胸中で詫びた。

 しかし、そんな思いも、しばらくして目覚めた千歳による、

「勝手に見ないでくださいよ!」

との、歳三のみに向けられた叫びと、敬助に涙を拭われながらなだめられる様子にさらされて、どこかへ消えてしまったのだった。

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