十二、不詳

 八木邸の土間に続く納戸で、雅と一緒に蚕の世話をしていた千歳は、酉の刻の鐘を聞いて、夕食を出すために前川邸へ戻った。雨は降り出しており、小刀を濡らさないように袖の下に隠しながら、坊城通を走って横切った。

 ところが、副長部屋では歳三と敬助、それに、馬越と原田が詰めていて、夕食はいらないから先に食べていなさいと歳三に言い渡された。垣間見えた馬越の顔が青いのを見て、また何か問題に巻き込まれたのではないかと千歳は訝しんだが、心配に思う心を抑えて広間に戻り、総司の隣で夕食をとった。

 その間にも、原田が隊士を一人ずつ副長部屋へ呼び付けに行く。どうやら、前川邸の離れに寝起きする者たちを順に尋問しているらしく、そのなかには、謹慎が明けてから部屋替えになった岸本もいた。近藤も帰って来て、副長部屋の話し合いに参加しているようだった。


 問題の争点は、この事件が馬越の証言以外に証拠がないことだった。馬越に名指しされたある隊士は、頑として容疑を否定した。

 自分は前川邸に寝起きするのだから、戸締りがなされた後の八木邸に忍び入ることはできないし、馬越が二階に寝ていることも知るはずがない、床を抜け出していたら同室の者が気付くはず、全員に聞いてみたら良いと言った。同室の者からも、その隊士が毎夜床を抜けていた証言は得られない。せめて、恋文が残っていれば、筆跡から当人かを調べられたが、今は手立てがない。

 歳三も馬越に味方してやりたい気持ちはあるが、証拠がない以上、手立てがない。馬越自身、次第に自分の推量に自信がなくなってきて、敬助に「本当に彼で間違いないのだね?」と問われるたびに、沈黙の時間が長くなっていった。

 近藤がその隊士を下がらせた。腕を組み、眉根に厳しさを浮かべながら、馬越に問う。

「君はなぜ、その場で助けを呼ばなかった?」

 馬越が手を着いて、頭を下げた。

「申し訳ございません。僕……ほんに、短い間でこないに問題起こして……この身を以って償います」

「気が早い。聞いているのだよ、なぜ呼ばなかったんだい?」

 馬越は震える唇を噛んだ。責任の所在を問う、このような悪気のない「お尋ね」を、以前にもされたことがある。なぜ逃げなかった。もっと抵抗できたのではないか? 本当は──。

「……僕に考えがございませんでした」

 涙声で額を畳に着けた。脅されたなど、情けなくて言えない。馬越が抵抗を見せるたびに、あの手はきつく馬越を締め上げ、騒ぎが知られたら今度こそ隊にいられなくなる、帰る家もないのだろうと、逃げ道を奪っていった。

「申し訳ございません……」

「──こんなん、おかしかねぇですか? なんで、今こいつが謝んなきゃなんねぇんです!」

 原田が畳を叩いた。馬越の目に浮かぶ恐怖を実際に見た原田は、この四人の中で最も馬越の味方だった。しかし、近藤は腕を組んだまま冷静に返した。

「謝る必要はないが、彼を巡っての問題が続いているんだ。また、なんの処分もなく戻すわけにはいかない」

 発言を促すように、近藤が歳三を見た。歳三は深く息を吸って馬越を見つめた。今は怯えが支配するが、この美しい目がもっとも輝く瞬間を、歳三は知っているのだ。二、三のまばたきを繰り返し、尋ねる。

「君は隊を出るのは嫌だろうね?」

 歳三を映す馬越の目が、一瞬で涙に濡れた。か細い声で弁明する。

「喧嘩は……即ち、切腹。騒ぎを、起こしてはいけない……そう思って、耐えました……」

 馬越の頬を涙が伝った。脱藩どころか、勘当された身故に、隊を出されては生きていけない。どうか、一度だけ慈悲をと頭を下げる。

「お願い申し上げます。立派な武士になれと……お指し示しくださった道を……歩ませてくださいませ」

 馬越にとって、何よりも大切なことは隊にいることだった。それは──

「土方先生……」

 歳三への敬愛だ。

 自分の人生に幾分退屈しながら、目標もなく生きていた馬越は、その容貌故に何をせずとも褒めそやされ、苦しみを与えられた。少しくらい、自らの容貌を良い様に使おうと、かまわないはずだと、種蒔き・・・に手を出し、人を弄んだ。

 そんなことで紛らわされる退屈は一時のものだとわかっていた。それでも、一時の気晴らしを止められずにいたときに与えられたのが、学問と、敬愛の対象としての「土方副長」だった。

「先生に諭されるまで、自ら改心できなかったことは、ひとえに……僕の弱さでございます。しかしながら──」

 一連の騒動と、軽薄な行いに対する罰は、以前──本気ではなかったにしろ──千歳を抱きすくめたあの部屋で、自分に下された。心配をしてくれた原田には申し訳ないが、どうか、昨夜の件の処分として、自分を除隊させるのはやめてくれと頭を下げる。

 歳三は、その訴えの後半に突如現れた千歳の名に隠しきれない動揺を覚え、同じく言葉を失った敬助と目を合わせたが、額に手を当てて息をゆっくりと吐き、

「ひとまずは……」

と声を絞り出した。

「ひとまずは…………しかし、昨夜のことは既に隊内に周知の事と思わなくてはいけない。これを不問にはできないので───」

「馬越くんには謹慎を命じて、その間、調査は続ける。処分はその後」

 敬助が歳三の言葉を引き継いだ。妥当なところだろう。近藤もうなずいた。原田だけは、馬越を哀れんで抗議の姿勢を見せたが、馬越が受け入れたことで引かざるをえなかった。

 敬助は馬越に北の広間で待つように指示をしてから、千歳を呼んで、馬越の布団を八木邸に取りに行き、広間に敷くように告げた。見張りに付けられた原田も共に部屋を出た。

 馬越の処分は、敬助が除隊を述べた。歳三は、近藤の小姓にすることを提案した。

 敬助は優しくとも、甘くはない。春先にまとまった離隊者が出たうえに、馬越を巡ってまた騒ぎが起きたら、何かしらの処分のために、動かせる隊士がさらに減る。それを避けるには、馬越ひとりに辞めてもらうことが、一番影響が少ないのだ。

 対して、歳三は自分自身が大人の手を煩わせる少年期だったこともあり、年少者に対して寛大な姿勢を取る。まして、馬越は歳三が目を付けて入隊させたのだから、隊を出すことはためらわれた。隔離の意味も含めて、近藤の側に寄せておくことが望ましいと考える。

 近藤は、隊士の条件を一に忠心、二に剣技としている。馬越の剣技は、若年にして申し分なく、先程の平伏する姿に忠心がないとは見えない。そのため、しばらく謹慎の後に、隊士の様子を伺いながら、処遇を決めるべきと言い、歳三と敬助も了承した。


 土間にて会議が終わるのを待たされていた千歳が入室を許されたのは、亥の刻をとうに過ぎたころだった。

 千歳はいつもどおり、座敷に布団を延べ、枕を置いていく。行灯を枕元へ移そうと振り返ったとき、文机に座る歳三と敬助がふたりとも自分を見ていることに気付いた。

「な、何か……?」

 不手際でもあっただろうかと思いを巡らす。歳三は眉間に深い皺を寄せているし、敬助は妙に微笑みを浮かべている。

「いや、すまないね。遅くまで待たせてしまって。寒くなかったかね?」

「平気です。竃に背をもたせかけていると、温かいんですよ」

「そう。また、本を読んでいたのかい?」

「はい」

 敬助が目を細めて返し、ところでと続けて尋ねる。

「馬越くんのことだけど、君との間には何か……何かあったかい?」

 千歳がまばたきを繰り返し、唇を固く引き結んだ。座りなさいと、敬助が延べられた布団の間を示す。

「話してごらん」

 正座した千歳が袴の裾を握り込んで、うつむいた。

「……ま、馬越くんが言ったんですか?」

「うん」

「でも……違うんです、その……」

 千歳が小刻みに手を振って、弁明をする。

「か、蛙……顔に投げたのは、悪いと思ってますけど、あれは、偶然っていうか……そもそも、馬越くんが急に手に乗せてくるから、驚いて投げちゃっただけで、わざとじゃ──」

「えっと……蛙?」

 敬助が手を挙げ千歳を制して聞き返すと、千歳は、「違うんですか?」と顔を赤くする。

「あ……みみずの方?」

「みみずも聞いてはいない」

「じゃあ……お布団に桜の花を撒いたこと……?」

「お前、どんな悪戯してんだ、一体」

 歳三のため息に千歳が縮こまる。千歳にしてみれば、突然手の上に蛙を乗せられた仕返しに、みみずを乗せてやったり、本を読む千歳の頭に花弁をハラハラと落としていった仕返しに、布団の中に花弁を仕込んでやったりしただけだ。お互い様と思っている。

「何か他には? 嫌なこととかは、されていないかい?」

「……馬越くんの悪行を連ねたら、本にできるくらいですけど」

 叱られるわけではないと悟った千歳が、幾分か緊張を解いて敬助に向き合う。

「でも、馬越くん……切腹になるんですか?」

「──どうしてだい?」

「広間で、みんなが。あの人、また問題起こしたから、きっと切腹だって。みんな、おもしろ半分に言います……」

 敬助が小さくため息をついて、歳三と目を合わせる。歳三が髷の元結をかきあげる。

「そんな簡単に死なせられないよ」

「うん。だから、確認するけど、君との間には何かなかったかい?」

 千歳とて、二ヶ月前の出来事を忘れたわけではない。しかし、その翌日には手打ちを申し述べているし、今更告げて、馬越の罪が重くなり、万が一、切腹にでもなっては困る。馬越は大切な学友候補なのだ。

 千歳の沈黙を肯定と取った敬助が千歳の手を握って言う。

「大丈夫……ちゃんと、話しなさい」

 千歳はわずかな沈黙を挟んで、静かに首を振った。重ねて問う敬助に、目を伏せたまま、また首を振る。

「おい、目を見て答えなさい」

 歳三の言葉に、千歳は恐ろし気に顔を上げ、敬助の目を見た。敬助の細い目が千歳を真っ直ぐに見返す。手を握ってくる力が強くなったように感じた。

「……ないんですもん」

 耐えられずに千歳が視線を膝に落とす。敬助がその前髪を撫でて、わかったよとなだめた。

「寝る支度をしなさい。もう遅いから」

 千歳はうなずいて立ち上がった。


 歳三は、隊士たちの間でおもしろ半分に馬越の切腹がささやかれている辺り、馬越が隊士としてではなく、見るに美しく、娯楽を引き起こす対象と密かに下に見た存在になっているのではないかと危惧した。ただでさえ、以前の謹慎の際に、副長部屋が「美童の部屋」と呼ばれているとの報告が斎藤から上がっていたのだ。近藤の小姓にすることが、根本的な解決にならないことを歳三は気付き始めた。

 翌朝、給仕を終えた千歳を下がらせたうえで、ふたりは調査の方向を話し合った。

 馬越からの証言以外に証拠がなく、その証言も揺らいでいる。これ以上、新たな証拠を得ることは望めない。また、探れば馬越の素行が良好でなかった答えは容易に出てきそうだ。

「困ったねぇ、あんまり他の隊士に聞き立てて、噂が盛んになっても面倒だし」

 敬助が覚束ない左手で箸を取り、そうこぼしたとき、副長部屋を尋ねる声があった。障子を開けると、岸本がいた。


 岸本は、一連の事件は自分が行ったと自白した。謹慎が明けてから、前川邸の離れに部屋替えになって、馬越と接する機会がなくなり、夜毎に八木邸へ忍んで行った。やがて、気持ちを抑えられずに無理を強いてしまった、と。

 岸本が八木邸へ行った日の証言は、馬越のものと一致していた。あの夜、なぜ馬越が二階の納戸にいたことを知りえたのかと問えば、

「彼は、よく二階に上って本を読んでいましたから、床にいないのなら、納戸にいるはずだと思って……行ったら本当にいたので、気持ちが伝わったと思いました」

と微笑みすら浮かべながら答える。

「岸本くん、では何故、昨日の尋問のさいは何も知らないと言ったのだね?」

「……死ぬ覚悟ができました、今朝」

 岸本は緊張のない真っ直ぐな目をして、ふたりを見つめ返していた。

 局長部屋への襖を開け、近藤も聴取に招き入れる。歳三は北の間に詰める馬越を訪ね、岸本が自白したことを伝えた。

 馬越は青い顔をして震え出し、

「違う、あれは岸本さんやない! 岸本さんは嘘を言うてます!」

と立ち上がった。落ち着けと肩にかけられた原田の手を、馬越は掴んで訴えた。

「岸本さんやない……岸本さんは、そないなことせん人です!」

「馬越、落ち着けったら!」

「馬越くん、座りたまえ──座りたまえ!」

 歳三の声に、馬越が座る。唇は白く、手は震えていた。

「君は、なぜ岸本くんじゃないと思うのだね?」

「わかります、岸本さんやったらわかります。字も知っとります、声も違う……岸本さん、なんでそないな嘘、言いよるんですか?」

「しかし、岸本くんが君の部屋に行ったと言う日は、君の証言と合っている」

 馬越が狼狽を見せた。馬越が名指した隊士は、断固としてその証言を否認した。馬越もその気迫に圧され、記憶に自信がなくなってしまったが、岸本ではなかったことは断言できる。

 岸本は決して馬越に触れようとはしなかった。いつでも、穏やかで兄者らしく振舞った。長山との果たし合いの前夜ですら、その接吻は短なものだった。「お前」などとは言わないし、その手は──

「そうや、手ぇ。手ぇ、です。岸本さん、左手に傷なんなかったはずです。僕、見ました」

「それが、あったんだよ」

 歳三が左手の中指の腹を斜めになぞって示した。馬越は嘘だとつぶやき、涙を流す。

「き、岸本さんに会わせてください!」

「今、山南副長が取り調べ中だ」

「会わせてください!」

「馬越くん!」

 袖にすがり付く馬越の手首を固く握って、歳三が制する。動揺のあまり、今の馬越が聴取に参加させられない状態にあることは明らかだった。

「しばらくしたら、また話を聞きに来る。静かに待っていなさい」

 歳三は原田に目配せして、部屋を出た。

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