十一、痛み

 初夏の風が遠くから湿気を運び、一刻の内に来る雨を報せている。副長部屋の前の軒には燕の雛がかえり、親鳥が餌を運ぶ度に、銘々にさえずっていた。

 その声を聞きながら、敬助は文机に向かい、人差し指以下の三指に筆を挟んでの手習いをしている。歳三は出掛けている。箒を手にした千歳が、敬助の手習いをのぞき込んだ。

「先生、さすが。その持ち方でもきれいな字です」

「大きい字ならなんとかね。君に代筆を頼んでばかりでは申し訳ないから」

「先生のお役に立てるんだったら、何でもしますよ」

 千歳が拳を握って笑うと、右にだけ八重歯が見えた。頼もしいと敬助が笑った。

「あ……」

「うん?」

 千歳があることを思い出し、文机の側に座った。ツンとすまし顔をして敬助を見る。

「先生……明里へのお文、藤堂さんに代筆頼んだんですってね。そういうのは、お外に任すんですねぇ」

 少々非難めいた口振りに、敬助が筆を置いて千歳と向き合う。

 郷里への文や、隊と商いを行う商家との通信は、概ね千歳の代筆によって認められているが、敬助にも「山南先生」たる威厳を守る意地がある。恋文は密かに藤堂へ頼んでいたのを、千歳に知られた。恐らくは原田辺りからだろうと予想を立てる。

 千歳は頬を膨らまして拗ねた顔を見せているが、それがまた愛らしい。思わず、ほころびそうになる顔に力を入れて尋ねる。

「ヤキモチかい?」

「違います」

「ヤキモチだろう。ほら、ほっぺがこんなにぷっくりしてる」

 敬助が両手で千歳の頬を挟むと、千歳は口にためた空気を吹き出した。

「ヤキモチじゃないですもん。ちょっと寂しいだけですもん」

 千歳が敬助の手をすり抜け、掃除を再び始める。

「先生が帰って来てくれないと、寝る前が暇なんです」

「ふふふ」

「笑った……」

「君は燕の雛のようだからね」

 抑えきれずにこぼれた笑いを誤魔化すように、敬助が軒を指して言った。親鳥が帰って来て、口にした昆虫を雛鳥に食べさせる。

「つまり、先生からお勉強の餌やりを受けている、と?」

「ああ。よく食べる子だ」

 千歳は、敬助を師範とした三日ごとの講義に毎回参加していた。それに加えて、寝る前にはいつも短い講義をせがんでくる。目を輝かせて話を聞き、頬を膨らませて考えを巡らせる千歳を見るに、学問が本当に好きなのだろう。

「馬越くんとの本読みはもうしないのかい?」

「……だって、あの人、あれから話しかけてもきませんし」

 謹慎が解かれた日の夕方、馬越は歳三と敬助に対して丁寧な、しかし通り一遍の挨拶のみをして、八木邸へ戻って行った。あれから、十日が経つ。

「君から話してあげたら良いじゃないか」

 敬助の提案に、少しの間、思案顔をしてから、千歳は息を吐いて首を振る。馬越のことを嫌いと敬助に言ったこともあり、何とはなしに、気不味いのだ。

 局長部屋の襖を開け、そちらも掃除をする。敬助も机に向かい直って、手習いを続けた。

「学問はね、教わるのも良いけれど、教わったことを共に考える仲間がいたら、もっと良いんだよ。語り合ううちに新たな疑問が浮かんで、またそれを共に考える。それが、学友だ」

「親の餌やりから離れるってことですね」

「そう言われてしまうと、僕もちょっと寂しいね」


「学びて時に之を習う。亦、よろこばしからずや」

 千歳は八木邸の二階、元の居室である納戸に置かれた本箱を前にして口ずさんだ。教わるだけでは、身にならない。復習する。できれば、友と一緒に。年からすれば、馬越はたしかに最も相応な相手に思える。

「朋、遠方より来る有り。亦、楽しからずや」

(友人……)

 馬越が友人かと聞かれたら、自信を持ってそうだとは言えない気がする。そもそも、一体何を以って友人と言えるのかが千歳にはわからない。

 『紫文要領』を手に取り、階段を降りて行く。丁度、稽古着を着て汗を流した馬越が脇玄関から上がって来て、目が合った。以前の馬越なら、にこりと微笑み軽く会釈をして通り過ぎて行くというのに、今は一瞥したのみで目を逸らし、覇気もなく部屋へ戻ろうとする。その足取りは、左側をかばっているように見えた。

「──怪我……したの?」

 階段の上から、千歳は本を胸に抱きしめて尋ねる。ひどく緊張していた。馬越は何と答えようか言い澱んでいるように見えた。

「……平気じゃ」

 千歳が階段を降りて近寄ろうとすると、馬越はパッと背を向けた。藍染の袴の下から、紫色に変色した左足首が見える。

「捻挫してる……」

「捻挫やない」

「痛いんでしょう? 薬持って来るから、待ってて」

「良えて!」

 千歳は前川邸の厨の戸棚にある散薬を取りに行こうとするが、馬越はきつく制する。額には脂汗が浮いて、顔色が悪い。耐えるように眉を寄せ、馬越は脇玄関の間を出て、勢いよく襖を閉めた。

 馬越は、明らかに痛みを我慢しているように見えた。しかし、千歳には鼻先で閉められた襖を開けて、馬越の立て籠もる領域に入って行けるほどの勇気はない。

 ふと気付く。文武堂からは、まだ複数人の掛け声や竹刀の打ち合う音が響いているのだ。入り口から様子をのぞくと、十数人の隊士が道場の壁に一列に並び、藤堂が順に相手取って稽古を付けている。

 木刀を持った原田が千歳に気付いて寄って来た。一緒にやるかと聞かれて、千歳は首を振る。

「僕はこの後、総司さんにみっちり絞られる予定があるので、間に合っているんですけど……」

「けど?」

「馬越くん……」

 八木邸の母屋に目を遣ると、その寄せられた眉根に気付いた原田が、

「巡察のときから痛そうでさ。当人は平気だなんて言って稽古にも来たけど、踏み込めもしないんだから、返したんだよ」

と言って、千歳の頭を軽く撫でた。千歳は迷いながらも、馬越が薬を拒んだことを原田に伝えた。原田は大きく笑った。

「お前に心配されちゃ、立つ瀬ねぇって思ってんだろうな。誰だって好きな奴の前では強がるもんさ」

 千歳が顔を赤くしたのは、からかわれた恥ずかしさと、上手く否定する言葉が出ないもどかしさだったが、原田はその反応を初々しいものとして受け取っていた。

「俺から飲むように渡しておくよ。お仙坊が心配していたことも伝えておいてやる」

 千歳は誤認の修正はひとまず諦め、礼を言って道場を後にした。


 馬越は稽古着のまま、座敷に身を投げ出して眠っていた。近頃、寝不足だった。

 この部屋に戻ってから、夜中、馬越の枕元に来て愛を囁く者がいる。初めは、寝たふりをして無視をしていた。それが、布団の下で手を握られるようになり、合せに手を入れられるようになり、馬越は小刀を抱いて寝るようになった。

 その夜、布団の中で鯉口を切る音を響かせると、鎖骨の下を這う手は一瞬怯み、そして、白刃を握った。馬越は息を飲んで、動向を伺った。双方動かず、その時間はとても長く感じられた。やがて、手はゆっくりと引かれ、枕元から気配は消えた。翌朝、刃を検分すると、わずかに血が付いていた。

 あれは左手だった。馬越は左手の指に傷がある者を探した。岸本の手の感覚ではないとわかっている。では、佐々木か。しかし、あの男は今回の騒動以来、馬越と距離を取って、すれ違っても挨拶をしないから違う。他にも、言い寄って来ていた者を思い浮かべては、会うたびに左手を見ていったが、握り込んで傷が付く場所を生活の中で偶然にも目にすることは難しく、判明には至らなかった。

 念のため、次の夜も刀を胸の上にした馬越は、寝付けずにいた。どれだけ経ったか。時計もないし、雨戸も閉められている。隣部屋から漏れ聞こえる小さないびきの他は音がなく、深々と夜は更けていった。

 朝、目覚めると、枕元に結び文があった。恋文だった。筆跡の感じは悪くないが、料紙の選び方がまるでダメだなどと批評をする心を見つけた自分にうんざりして、朝食のさい、前川邸の竃にくべた。わざとかはわからないが、記名はなかった。

 その日、稽古の指南役は総司だったが、だいぶ打ち込まれ、気組みが足りないと怒鳴られた。巡察では、その道中で一度、休憩を取るのだが、数日の睡眠不足のせいで、毛氈が敷かれた茶屋の椅子に座った途端に寝入ってしまった。それを藤堂に咎められた。

 とにかく一人で気兼ねなく眠りたい、そう思った馬越は、夕方の間に、枕を二階の納戸に運び込み、夜にはひとまず一階の北の間に布団を敷いて寝たふりをして、しばらくしてから掛け布団を抱えて二階に登り、寝直した。

 布団に包まり、やっとゆっくり寝られると思ったとき、階段が軋んだ。気配が近付く。馬越は目を見開いて、その足音の行方を追った。小刀は下に置いて来ている。気配は迷いなく納戸の前で止まり、障子を音もなく開けた。

 抱きすくめられた耳元で、情けを懇願するその声には覚えがあった。

『許してくれ、これほどにお前を思っている』

 馬越は唇を噛んで耐えた。それが昨晩のこと。背中を撫でていった乾いた手の感触を馬越は夢現に思い出していた。高熱を出したときのように身体全体が重く、節々は痛んだ。


 稽古の指導を終えた原田は、八木邸の居室へは戻らずに、石田散薬とそれを飲み下すための熱燗を求めて前川邸の厨へ向かった。賄い方の六兵衛に熱燗を頼み、戸棚を開けるが散薬が入れ置かれたはずの箱は空だった。

 在庫を管理する歳三を訪ねに副長部屋へ行き、声をかける。

「土方さん、おります?」

「もうすぐ帰るころだと思うけど」

 敬助が書き物の手を止めて言った。机の上には漢和辞典が広げられ、半紙には詩作の推敲が伺えた。

「漢詩ですか」

「たまにはやらないと、勘が鈍るから。それで、ご用は?」

「石田散薬、無くて」

「誰か怪我したのかい?」

 そう言って、敬助は立ち上がり歳三の文机の傍に置かれた小さな桐箪笥の引き戸を開け、薬包をひとつ取り出した。

 先日、千歳の振袖からこぼれ落ちたものだ。歳三が拾い上げて用途を尋ねたが、千歳は言葉を濁して答えなかった。怪我でもしたのかと訝しむ歳三に、何でもありませんと言い残して千歳は逃げ去った。残された歳三が、手の内の薬包に小言を言いながら仕舞ったのが、これだった。

「良いんですか? 予備とかじゃ」

「平気だ、あとで言っておく」

「すみませんね、土方さん。さぶちゃんが痛がってるんで」

「三郎……馬越三郎くん?」

「へぇ」

 敬助から散薬の包みを受け取った原田は、それを手の間に挟んで拝む格好をしながら、歳三がいつも座っている辺りへ頭を下げた。

 六兵衛から熱燗を用意してもらった原田は、盆の上に徳利とぐい呑、それから、和らぎ水とを乗せて、八木邸に戻った。

 居室では稽古を終えた隊士たちが、北の間に集っていた。その輪の中には馬越が脂汗を流しながらうなされていて、藍染の道着に浮かぶ白い首筋には、吸われた跡が背中にかけて点々と赤く連なっていた。それを見下ろす周りの目に、欲情の色が映る。

 原田は生来、隠し事は嫌いだが、同時に、隠したいと望む者を暴きたてるような振る舞いも嫌いだった。

「お前ら、散れ!」

 一喝して下がらせると、盆を片手に持ち替えて、もう片方の手で馬越の肩を揺すった。三度目の呼びかけで、馬越は目を見開き鋭い叫び声を挙げて、原田の手を跳ね除けた。

 盆が畳に打ち付けられ、辺りに酒と水とが撒き散らされた。馬越を取り囲む隊士たちが唖然とする。原田は、馬越の目に恐怖があること、右の手で合わせを強く握りしめていることを見て、馬越の身に起きたことを悟った。

「来い」

 そう言って、馬越を引き立て、裸足のまま前庭に降り、足を進める。馬越は引っ張られながら、

「原田さん、堪忍……申し訳ありません!」

と謝罪を繰り返し、火傷はなかったか、着物は濡れていないかを気にかける。

「馬鹿野郎!」

 原田は怒声を挙げ、馬越を前川邸の裏門の戸に押し付けていた。馬越は歯を食いしばって、固く目を閉じている。

「お前ぇが何したかなんて、どうでも良いんだよ! お前ぇが何されたかに、俺ぁ怒ってんだ!」

 馬越の長いまつ毛の間から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

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