十、禁制

 大きな楠の下に並ぶ月光稲荷の赤い鳥居が、道の先に見えた。斎藤は前方を走る千歳を呼び止めて、この先は自分より前に出るなと言った。千歳は弾んだ息を整えながら、うなずいた。

 散って水気を失った桜の花びらが、風に吹き上げられた。斎藤が鳥居をくぐる。幾重にも連なる朱塗りの鳥居の間から、境内の左右を確認するが、長山たちの姿は見えない。

 斎藤は拝殿の前で千歳と向き合う。

「ここで待ってろ。何かあっても騒がず、すぐ屯所に走れ。良いな?」

 頭に手を添えられ、千歳は深くうなずく。斎藤もうなずき返すと、素早く背を向けて、境内の東側から捜索しに周った。

 千歳は落ち着かずに、目の前に垂れ下がる拝殿の鈴を鳴らし、深く頭を下げた。

 東風が立った。楠の落ち葉が風に飛ばされ、カラカラと音を立てながら、鳥居や社の壁に打ち当たって落ちる。右の頬を楠の赤い葉がかすめた。風に背を向けてやり過ごそうとしたとき、境内の西、生垣の向こうに、襷を掛けた武士の姿があった。

 鳥居の下を走り抜け、表通りに出る。長山と岸本が刀を抜いて向かい合っていった。張り詰めた殺気に気圧され、千歳の身体は動かない。

 岸本が千歳に気付き、剣先が震えた。千歳に背を向けている長山は、岸本の動揺を見て打ち込む。岸本がこれを受け、鈍い金属音が辺りに響いた。長山が間合いを取り、再び打ち込もうとする。

「――さ、斎藤さーん‼」

 千歳が叫んだ。驚いた長山の刃筋が逸れて、受けようと構える岸本の切っ先が、長山の左肩に入った。鮮血が散り、においが広がる。

 千歳が口元を手で覆ったとき、斎藤が生垣を飛び越えて、

「双方、止め!」

と叫び、ふたりの間に白刃を振り下ろした。


 歳三と近藤は、会津藩公用方の神保修理らとの北野で会合していた。政談もひとまず落ち着き、席は食事に移る。芸妓が三味線を弾く中、神保が禁制について歳三に尋ねた。

「隊内で作るって話、進んでっか?」

「はい。条文は粗方定まりました。じうの掟をありがたく参考いたしまして」

 会津武士の子どもの間で守られる七条ほどの掟で、卑怯な振る舞いをするな、嘘をつくななど、日頃の行いを律する規則だ。

「何度も読みますうちに、什の掟が、会津武士の士道を形作っているのだと、よくわかりました。武士とは、強いものでなくてはなりません」

「応。……懐かしいな。『ならぬことは、ならぬものです』」

 神保が高めの声で掟の結びの言葉を唱えた。

「言葉は大事だ。同じ言葉さ唱えることは、杯交わすのと同じだからな。隊でも唱えさせっと良い」

「はい」

 舞妓が歳三に酒を注ごうとするのを神保が止める。

「この方にはもう良い。いつでも走れるようにしてなきゃなんねぇ忙しい人なんだ。ほら」

 そう言って、自分の杯を差し出した。

「そういやぁ、お宅のお小姓さん──酒井くんか、元気かい?」

「ええ、おかげさまで風邪もひかずに」

「山本さん、洋学所にはいつでも来いと言ってんべ。お仕事の合間に顔出すだけで良いからさ」

「お気遣いありがとう存じます」

 歳三が礼で応じた。あの日以来、千歳の口から洋式銃や洋学の話は聞いていないが、たまに鴨川の東岸にある会津の操練場から響く砲声に耳を向けていることは知っている。

「洋学所といえば、佐久間象山先生が──」

 安政の大獄の際、教え子である長州の吉田松陰へ海外渡航を示唆した咎で申し付けられた謹慎が解かれ、もうすく上京してくるという話を歳三が始めたところで、店の者が歳三に耳打ちをした。斎藤による事態の報告だった。

 歳三は近藤を残して、斎藤と共に屯所へ戻った。


 屯所では、岸本と長山が、斎藤の部屋と井上の部屋とに分けられ、それぞれ刀を取り上げられた監視状態で留め置かれていた。長山の傷は重くないようで、医術の心得がある武田によって、止血の処置が施されたという。

 副長部屋に戻ると、青い顔をした馬越が歳三に平伏して謝罪した。敬助が馬越の背中をさする。千歳が障子を閉めて、歳三の大刀を受け取った。

「馬越くん、顔を上げたまえ」

 歳三はすすり泣く馬越の肩に手を置き、顔を上げさせた。馬越は「申し訳ございません、申し訳ございません」と繰り返すばかりで、歳三と目を合わせない。

「ひとまずは、順々に話を聞いていくから。呼ぶまでは、北の広間で待ちたまえ」

 歳三は千歳に目配せをして、馬越を連れて行くように指示を出した。千歳はうなずいて、馬越を立たせた。

「斎藤くんを呼びなさい」

 部屋を出る千歳に背を向けて、歳三は言った。

 喧嘩両成敗は、世の不文律として明確に存在する法意識だ。喧嘩をするなとは、盗むな、殺すなと同じくらいに当たり前な道徳観念で、隊規になかったとはいえ、不問にするわけにはいかない。

 歳三が尋問し、斎藤が記録を取る。敬助も身体を冷やさないように火鉢にあたりながら、長山と岸本の取調べを行った。岸本が出て行ったあと、斎藤が大きくため息をつく。

「……ほんと、なんだってこんな痴情のもつれを相手しなきゃなんねぇんだか」

 ふたり共に口をそろえて、馬越への誠のために行ったと言うのだ。その為に死んでも悔いはない、と。

「勝手に身を捧げられた方もいい迷惑ですね。だいたい、隊士なら隊に身を捧げろってんだ」

 斎藤が筆の先で頭をかきながら、ぼやいた。歳三がため息で応じる。

「馬越くんを呼んで来てくれ」

「はいはい」

 斎藤が重たい足取りで出て行った。

「彼は辞めさせるべきかねぇ」

 歳三のつぶやきに、敬助が答える。

「大元だからね……」

「しかし、果たし状を書いたのは、あの子じゃない」

 お互いに口にはしないが、事態が馬越の種蒔き・・・に由来していることは、ふたりとも想定にあった。

 この半月間、馬越が努力していたことはよく知っているが、遅かったのだ。「根性の悪い遊び」の影響は、やめたらすぐに失するほど、表層に作用していたものではない。

 敬助も小さく息を吐く。

「人が死なないうちに気付けただけ、幸いだったと思うべきだろう」

 馬越への聴取はすぐに終わった。ひたすらに謝罪と反省を述べ、ただ、脱藩の上に勘当もされているため、除隊だけは許してくれと涙ながらに頭を下げる馬越を前にして、三人は同情的になってしまう。特に、事情を知らない斎藤にとっては、勝手に惚れられた馬越が、自分を浅はかだったと責める状況に憐れみを感じた。歳三たちも、深く反省する若者の過ちに寛大にならずにはいられない。

 結局、果たし状を認めた咎で長山は脱隊処分に、果たし合いを受けた科で岸本は減俸の上、斎藤と永倉の部屋での謹慎処分になった。馬越は、好奇の目から守ることも兼ねて、しばらく副長部屋の預りで謹慎となった。


 長山が隊を去るときに、千歳はひそかに門前で待っていた。

 長山の左肩の傷は、障害が残ることはないというが、まだ痛んでいることは、慎重な歩きぶりから見て取れる。しかし、長山は千歳の待ち伏せに気付くと、速足でその傍を抜けようとした。

「長山さん……!」

 千歳が痛み止めの薬包を差し出すも、長山は受け取らない。憎悪のこもった目で千歳を睨む。

「君のせいや。君のせいで、馬越くんは苦しんではんねん。君のせいで、僕は討ち果たされへんかってん」

 千歳は行き場を失った薬包を胸に当ててうつむいた。予想していなかった長山の態度と言葉は、深く千歳の胸を突いた。敬助には、今回の働きを重ねて労われていたというのに。

「憎らしゅうて、かなん」

 そう言い捨てられ、長山の背中は綾小路通を東へ去って行った。千歳は初夏の熱い日差しの下で、しばらく動けずにいた。

 明練堂にいたころ、何につけても叱り飛ばしてくる女将に対して、訳もわからないまま頭を下げていた日々を思い出した。

 鼓動が速くなって、手に痺れるような感覚が走った。振り払うように、千歳は大きく息を吸って、門をくぐった。

 局長部屋で近藤の着物を選り分ける。近藤は新しく別宅を持った。嵐山へ湯治に行った際、目を掛けた植野という芸妓だ。その家に移す分の着物だ。

 人はきっと恋をする。歳三も敬助も、長山も、志都も恋をした。千歳には、その事実が恐ろしく感じられる。自分もいつか恋をするのだろうか。そのとき、心に生じる情念は自分をどのように変えてしまうのだろうか。長山のように、人を傷付けるように向かってしまうのか。

 馬越が副長部屋で謹慎して三日経っても、千歳はほとんど馬越と口をきかなかった。『古事記伝』の第一巻は、ほんの少しの未読を残して、千歳の文机の上に置かれたままだ。

 夜、千歳は敬助の隣に布団を敷いた。近藤は植野の宅へ、歳三は花街へ行っており、馬越は局長部屋に寝ることになっていた。

「先生……何か……」

 布団の中で、千歳が敬助に話しかける。

「何か……嫌な感じがします」

「嫌な感じ?」

「……馬越くん……嫌」

 敬助が寝返りをうって、千歳に身体を向けた。暗闇の中、表情はうかがえない。

「嫌なのかい?」

 衣擦れの音がした。千歳がうなずいたのだろう。恋の歌が苦手だと言ったこの娘が、衆道の末の刃傷沙汰を受け入れられないのも無理はない。敬助は左腕を伸ばし、千歳を布団の上からトントンとゆっくり打って、寝るように示した。

「あまり考えないことだ」

「……ダメなことです、人を嫌いになるのは」

「そんなことない。好きになることが、自然じねんであれば、嫌いと思ってしまうことも、また自然。心の動きそのものに良し悪しはないものだよ」

 千歳は、言葉が出ない。あれも違う、これもそぐわぬと選り捨てていくうちに、探すべき言葉と対応した感情が何であったかがわからなくなるのだ。

 恋は怖い。馬越は恋を軽んじ、そして、事が起これば、泣いてばかりで、事態の収拾をしようとはしなかった。それは、あまりに身勝手だ。


 馬越は自分の身勝手さを死ぬほど嫌悪している。何より辛いことは、歳三と敬助が馬越を責めないことだった。せめて、罰があれば気持ちも落ち着いただろうが、言い付けられた処分は、十日間の謹慎だ。

 昼間は書類に目を通す敬助を眺めながら、ただ座っているだけで、たまに敬助と雑談したり、千歳の代わりに部屋を掃除したりと、反省するには緊張感のない日々だった。

 そんな中、歳三は夕方の巡察を終えた斎藤から、副長部屋が美童の部屋と呼ばれているとの報告を受けた。馬越を隠すほどに、果たし合いをしてでも手に入れたいと望まれた美童との評判が上がると見て、馬越の謹慎は四日を残し、放免となった。

 馬越は八木邸へ戻った。雅は心配の混ざった安堵の笑顔で迎えてくれたが、他の隊士たちの態度はよそよそしく、視線は隠しきれない興味と好奇に満ちていた。馬越は、この視線こそが罰だと思った。


 翌朝、朝食の前に、禁制を公布すると触れられた隊士たちは前川邸の東庭に集まった。

 馬越は厨の壁にもたれて目を閉じ、振り返られては自身に集まる視線に耐えた。米蔵の前に立つ斎藤の傍に総司が寄って話しかける。

「ここ一番の関心事だもん。かわいそうだけど、仕方ないね」

「ああ」

「岸本さんは、どうしてる?」

「教えない」

「ケチ」

「君は噂話が好きだね、総司くん」

「岸本さん、大人しい人だと思っていたけど、見直しちゃったよ」

 自分に向かった鉾先を、総司はさり気なく逸らした。馬越を眺める。

「命捧げるくらい愛した人かぁ」

 総司の目は、単純な興味だが、見渡せば、明らかに値踏みするようなしつこさを持って馬越を見る隊士もいる。

「……男は厄介だよ。評価が高いと知れば、手に入れてみたくなるんだから」

 斎藤のつぶやきは、庭へ出てきた三長への挨拶でかき消された。


 掟

 一、士道ニ相背間敷事

 一、不可致金策事

 一、不可致訴訟事

 一、不可致喧嘩事

 一、不可脱隊事

 右之条々堅可相守之事。若有相違者可申付切腹也。

元治元年 三月二十四日

新撰組


 敬助と武田によって高く掲げられた禁制を歳三が読み上げていく。第四条の「喧嘩を致すべからず」にて、周囲の気配が一斉に自分へ向かったことを馬越は感じた。

 皆で唱和してから、近藤の檄を聞き、朝食となった。どこからか、「岸本くんも長山も、命拾いしたな」と聞こえた。

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